8月9日(金) 晴
あの日と同じ、雲一つ無い夏空のもと、老人クラブのお仲間とカラオケ教室
で声帯の筋力向上のため、思い思いに歌った。
さくら♪は、正午前からテレビで中継放送されていた「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」の様子を視聴してから、カラオケ教室に参加した故もあって、大戦の被害者の鎮魂・安寧と恒久の平和を願って、藤山一郎の『長崎の鐘』(作詞:サトウハチロー 作曲:古関裕而)を選んだ。
♪こよなく晴れた青空を 悲しと思うせつなさよ
うねりの波の 人の世に はかなく生きる野の花よ
歌のモデルは、長崎医科大学(現長崎大学医学部)助教授だった故永井隆博士の随筆『長崎の鐘』。 爆心地に近い同大学で被爆した時の状況と、右側頭動脈切断の重症を負いながら被爆者の救護活動に当たる様を記録した随筆をもとにしたもので、歌詞に原爆のことは一言も記されていないけれど、そのことが占領下の日本の状況を偲ばせて、まことに切ないものがある。
随筆『長崎の鐘』には、原爆投下直前の様子、その時からその後の状況、自ら負傷しつつもわが身を顧みず医師として行う救護活動、周囲の医師や看護師の様子、患者の現実、原子爆弾の仕組みやその被害について、検証し議論する研究者としての姿、未来への思いなどが客観的な筆致で描かれ、悲しみが即即と胸に迫る。
自らの体は原爆投下以前に、当時不治の病とされた結核患者の診断のため、数百人に及ぶ患者の検査・治療に取り組んだ結果のラジウム被爆による白血病罹患により、余命3年と宣告されていたなかで、一人でも多くの人を救おうと励む人間としての崇高さ、野戦病院のような混乱のなかでも、原爆投下後の人々の健康状態や放射線の被害について考察する冷静さには、驚きを通り越して畏敬の念すら覚える。
最後の章に、「浦上人は灰の中に伏して神に祈る。願わくば、この浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえと」の中の「浦上人」を「私」、「日本人」、また「世界市民」に言い換えて、恒久平和実現のために、私は何を為すべきかを考えたい。
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永井博士の遺児に、誠一(まこと)さんと茅乃(かやの)さんがおられたが、お二人ともお父上の意思を継ぎ、誠一さんは時事通信記者にして作家、永井隆記念館館長、茅乃さんは朝日新聞の筒井記者とご結婚なされて、筒井茅乃として終生恒久平和について情報発信に力を尽くされた。
現役時代、京阪地域担当の編集長時代のさくら♪は、当時京都府八幡市にお住まいであった茅乃さんを、枚方市のキリスト協会で取材させていただいた。
ご主人を見送られ、一人娘との静謐な暮らしぶりがうかがえ、その中にも、父上から受け継がれた平和祈念と語り継ぐことへの強い意思が、凛としたたたずまいから伝わって、同い年ながら覚えず襟を正したことであった。
茅乃さんも、「『娘よ、ここが長崎です』(くもん出版=昭和60年)の著者、筒井茅乃さんが2日午前2時57分、肝細胞がんのため大阪府守口市の関西医大滝井病院で死去した。享年66歳」との訃報に送られ、平成20年に黄泉のひととなられた。
どうぞ、核爆弾で無辜の方々が殺戮されることのありませんよう、決して決して、広島・長崎の悲劇が繰り返されませんよう、さくら♪は無力だけれどひたすら祈ります。
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