4月19日(日)晴
日中は、汗ばむほどの陽気に恵まれ、家中の雨戸を繰って網戸を立てる。
玄関も網戸にして、「我が家はまるで、虫かごですぅ♪」
庭の雑草もひとしお目につくようになったので、「昭和天皇さまは、『雑草と言う名の草はないのだよ』とおっしゃったそうね」など、みるくに話しかけながら、草引きをする。
ついでに、築山に生えた蕗を採って蕗味噌に仕立てる。
熱湯で茹でこぼし、炭酸を放って少し置いたあと、太い蕗は筍と土佐煮にする。
やわらかい蕗の葉と軸を細かく切って絞り、病友のご家族・ちゑ子さんから頂戴した手作り豆味噌とみりんを合わせ、ごま油でさっと炒め煮にする。
千葉の学友・佳代ちゃんにいただいた筍は、お刺身と土佐煮に仕立てて、香代子さんと息子夫婦に喜ばれた。
春は、旬をいただく喜びと、共に食して喜び合う喜びを、つれてきてくれる。
【喜べば 喜びごとが 喜んで 喜び集めて 喜びに来る】
喜びには、連鎖が伴うことが、分かる。
そうして、些事をも喜べる、自分がうれしい。
今日も一日、ありがとうございます。
午後は、衣類の入れ替えをした。
亡夫が、「服を買うなとは言わないけれど、着ない洋服を捨ててからにしたら?」と、働き出した私に言っていた。
シーズン中、手を通さないのに大事にしまいこんでいる洋服がある。
「これは、あの方を取材したときの洋服…、昇進した記念に買ったもの…」など、今ではもう時代遅れのファッションなのだけれど。
それにしても。
ピンク、ピンクの洋服に、我ながら呆れている。
◆
夫が最期の夏に来ていた、ピンクのTシャツも捨てられない。
白いチノパンとのコーデを氣に入って、折々に来ていたっけ。
思い出す姿はピンクのTシャツ♪
右の2枚は、四日市のおじいちゃんこと、叔父(母の兄)の遺品のアロハシャツだ。
お洒落で知られたこの叔父は、四日市・諏訪栄の天ぷら・お好み焼き「らく天」のオーナーで、この商店街で「らく天のおじぃちゃん」と人気を集めていた。
たいへんな伊達男であったらしく、法事の折などには破天荒なエピソードが尽きないのだった。
50代のころ、大阪・曽根崎新地の名妓であった清元・梅勢春(私たちはお春さんと呼んだ)と駆け落ちをして、四日市に逃れ住み、お好み焼きの小店から諏訪栄町の目抜き通りに店を構えるまでに育てあげた。
らく天は行列の出来る店として知られ、「おじいさんは、ムダに曽根崎新地で遊んではったんやないえ」と、お春さんが誇らしそうに言っておられた顔が、今も目に浮かぶ。
優しく柔和で、私たちは会うたびにお小遣いをもらって喜んだ。
「モノをくれる(与える)は、王者の氣分」と言うのを聞いたことがある。
このアロハは多分、叔父が夫にくださったお下がりだったと思う。
今頃は、あの世でお酒を酌み交わしながら、五機嫌ではないかしら?
さまざまのこ と思い出す、衣替え
夜は、パパ宅でお好み焼きパーティ♪
テレビの話題や、最近カメムシが多く発声して困るという話、孫たちの新学期の話題など、他愛ない話で、夜が更ける。
有り難いなぁ。
ありがとうございます!
日中は、汗ばむほどの陽気に恵まれ、家中の雨戸を繰って網戸を立てる。
玄関も網戸にして、「我が家はまるで、虫かごですぅ♪」
庭の雑草もひとしお目につくようになったので、「昭和天皇さまは、『雑草と言う名の草はないのだよ』とおっしゃったそうね」など、みるくに話しかけながら、草引きをする。
ついでに、築山に生えた蕗を採って蕗味噌に仕立てる。
熱湯で茹でこぼし、炭酸を放って少し置いたあと、太い蕗は筍と土佐煮にする。
やわらかい蕗の葉と軸を細かく切って絞り、病友のご家族・ちゑ子さんから頂戴した手作り豆味噌とみりんを合わせ、ごま油でさっと炒め煮にする。
千葉の学友・佳代ちゃんにいただいた筍は、お刺身と土佐煮に仕立てて、香代子さんと息子夫婦に喜ばれた。
春は、旬をいただく喜びと、共に食して喜び合う喜びを、つれてきてくれる。
【喜べば 喜びごとが 喜んで 喜び集めて 喜びに来る】
喜びには、連鎖が伴うことが、分かる。
そうして、些事をも喜べる、自分がうれしい。
今日も一日、ありがとうございます。
午後は、衣類の入れ替えをした。
亡夫が、「服を買うなとは言わないけれど、着ない洋服を捨ててからにしたら?」と、働き出した私に言っていた。
シーズン中、手を通さないのに大事にしまいこんでいる洋服がある。
「これは、あの方を取材したときの洋服…、昇進した記念に買ったもの…」など、今ではもう時代遅れのファッションなのだけれど。
それにしても。
ピンク、ピンクの洋服に、我ながら呆れている。
◆
夫が最期の夏に来ていた、ピンクのTシャツも捨てられない。
白いチノパンとのコーデを氣に入って、折々に来ていたっけ。
思い出す姿はピンクのTシャツ♪
右の2枚は、四日市のおじいちゃんこと、叔父(母の兄)の遺品のアロハシャツだ。
お洒落で知られたこの叔父は、四日市・諏訪栄の天ぷら・お好み焼き「らく天」のオーナーで、この商店街で「らく天のおじぃちゃん」と人気を集めていた。
たいへんな伊達男であったらしく、法事の折などには破天荒なエピソードが尽きないのだった。
50代のころ、大阪・曽根崎新地の名妓であった清元・梅勢春(私たちはお春さんと呼んだ)と駆け落ちをして、四日市に逃れ住み、お好み焼きの小店から諏訪栄町の目抜き通りに店を構えるまでに育てあげた。
らく天は行列の出来る店として知られ、「おじいさんは、ムダに曽根崎新地で遊んではったんやないえ」と、お春さんが誇らしそうに言っておられた顔が、今も目に浮かぶ。
優しく柔和で、私たちは会うたびにお小遣いをもらって喜んだ。
「モノをくれる(与える)は、王者の氣分」と言うのを聞いたことがある。
このアロハは多分、叔父が夫にくださったお下がりだったと思う。
今頃は、あの世でお酒を酌み交わしながら、五機嫌ではないかしら?
さまざまのこ と思い出す、衣替え
夜は、パパ宅でお好み焼きパーティ♪
テレビの話題や、最近カメムシが多く発声して困るという話、孫たちの新学期の話題など、他愛ない話で、夜が更ける。
有り難いなぁ。
ありがとうございます!
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