友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

クラス会の人々

2007年10月03日 22時11分13秒 | Weblog
 クラス会で久しぶりに会い、話を聞くと、「へえー、そんな人生を歩いてきたのか」と驚くことばかりだ。大学へ進んだ者はクラスの5分の1くらいだろうか。大学へ行った連中は皆、今は細々とした年金暮らしである。中学を卒業し、家庭の事情で進学せずに就職した者たちは、小さくても会社の社長であったり、店を構える店主であったりと、羽振りがいい。女の子の方も大方は同じで、嫁いだ男の甲斐性でいい生活をしている者もいれば、苦労している者もいる。

 中学を卒業して、名古屋の菓子製造に就職した友だちに頼まれて、彼の就職先へ訪ねていった話を以前書いたことがある。私は人がよいのか、優柔不断なのか、頼まれたら断れなくて、あちらこちらの友だちの家にお邪魔していることを思い出した。

 今は絵描きになっている友だちの家にも、中学の時に招かれて訪ねたことがあった。彼は「ザ・ピーナツ」の写真をみせて、「いとこだ」と言う。普通ならそれでビックリするところなのだろうけれど、その価値がその頃はよくわからなかった私は、ただウンウンとうなずいていただけだったかもしれない。彼はいろいろなものを見せてくれたけれど、今は覚えていない。確か、お母さんは戦争未亡人ではなかっただろうか。そういう戦争未亡人の子どもは他にも何人かいたような気がする。

 彼は紳士服の縫製をする店か会社に就職した。半年もたたないうちに一着が縫えるようになってしまい、これ以上ここにいてもムダと、次にプラスチックの金型屋へ移った。ここで彼は手先の器用さと根性で、瞬く間に力をつけ、自分の会社を作り上げ、大きくしていった。息子が後を継ぐようになって、好きだったという絵画の制作を始め、今ではプラスチック会社の社長というよりも絵描きだそうだ。「自叙伝を書かなくてはいけないね」と言うと、「娘が物書きになっているからなあー」と言う。「えつ!そうなの?」と聞きなおす。「娘は早稲田大学を出て‥‥」と彼は話すが、私はビックリ仰天で何も聞こえなくなっていた。

 私は、絵描きにもなれず、早稲田へも行けず、物書きにもなれなかった。何というすごいやつだったのかと思わず彼を見つめてしまった。私なんかは所詮、材木屋のボンボンで、教員を両親に持った甘たれ小僧に過ぎないようだ。自分ではそれなりに波乱万丈の人生を歩いてきたように思っていたが、どっこいどこにでも上には上がいるものなのだ。

 中学を卒業してすぐに就職してしまった同級生の中の3人が、子どもは教育大を卒業し、今先生をしているという。大学へ進んだ同級生の中には、子どもがフリーターとかニートとかで困ったと嘆いている者もいる。こんなことを書くこと自体が学歴偏重の表れだと言われそうだ。確かに学歴は意味が無い。人の学習能力にはそれほど大きな差は無いのだ。どういう心がけで勉強に向かうかで、成績は上がるしまた下がるということが見えてきた気がする。

 「先生が亡くなった今、このクラスを引っ張っていくのはお前しかいない」などと言われてみて、自分の存在を軽く見てはいけないと思った。級長をしていたし、そこそこにみんなから慕われていたからと言うだけの受け止めではダメだということだ。みんなの気持ちを受け止められる人物でなくてはならないということだ。54人の小さな世界だが、社会の縮図でもある。拝金主義者もいれば、労働組合でバリバリやってきた者もいる。政治の話ばかりする者もいれば、自慢話ばかりする者もいる。男に関心のある女性もいれば女に関心の深いヤツもいる。みんなを受け入れられる人間でなくてはならないということだ。

 私たちは50年近い前に、同じクラスになった仲間だ。これからはいがみ合うことはないだろうが、助け合うことまではできないかもしれない。クラス会を開いても、いつも同じ話で終わるかもしれない。ただただ、おしゃべりするだけに終わってしまうのがオチかもしれない。それでもいいじゃーないか。私はみんなが望むように、クラス会を開く役目をいつまでも果たそうと思う。幹事を降りたとしても、その役割は続けなくてはならないと思う。

 人から必要とされているのだと思えば、やる気も湧いてくる。生きていることの楽しさをみんなに伝えていきたい。何億人といる地球で、同じクラスで1年を過ごした限りある仲間だ。この出会いを大切にしたいと思う。
コメント (2)
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