友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

短歌に託す

2007年10月15日 18時24分55秒 | Weblog
 昨日から体調不良に陥っている。朝、余りにハクションが続くので、薬を飲んだ。昼からは演劇を見に行かなくてはならなかったし、またその後は講演会を聞きに行く予定だったからだ。これがよくなかったのか、のどが渇き、頭はボーとしていた。おまけに身体は微熱の時のように汗ばみ、これではダメかも知れないなと感じたが、ダメなら戻ってくればいいからと出かけた。

 演劇の方は以前、この町で演劇を上演された時に知り合いになった菊本健郎さんによる作・演出の『望郷・そして飛翔』である。「中国残留婦人や孤児たちの記録」を演劇にしたものだ。見終わって劇場を出た角のところで菊本さんに出会ったので「よくこのテーマを取り上げられましたね。正直、重かったです。でも、展開は素晴らしくうまくできていて、感心させられました」と話した。

 演出は一本調子になって退屈しないように、展開はすばやく行われ、重く難しいテーマであるのに、淡々として憤らず、残留婦人たちの思いを伝えていた。「故国に帰りたい」と強い思いで帰ってきたのに、それが幸せだったのか、そんな思いに陥らせる現実があった。孤児たちにしても同じことだから、年老いて帰国したためばかりではないようだ。戦争が生み出した紛れもない現実がある。

 私は1944年生まれである。父母が満州にいたならば、私も残留孤児になっていたかもしれない。ここまで生きれこられたことは、不思議なことなのだ。人の生涯はどこでどう変わるかはわからない。だから結果として、私たちはこれを「宿命」と考えてきた。どんなに真面目に生きてきても、あっさりと亡くなる人もいれば、悪行を積み重ねてきたような人でも長生きする人もいる。

 「宿命」は私たちがあずかり知らないところで決まっている。キリスト教では「生」と「死」は神の支配するところだ。昨晩は、親しく家族付き合いをしている皆さんで、久しぶりの一杯会であった。体調が悪いからやめておこうかと思ったが、これまで欠席する人はいなかったから、皆さんに心配かけることになるより、出かけていったほうがよいと考え直した。出席して、正解だったと思う。

 酒宴の席ながら結構いろいろと真面目な話題も多い。昨夜も「宿命は変えられないが、運命は変えられる」という話になった。過ぎ去ったこと、過去はどんなにあがいても変えられない。しかし、これからどう生きるかで、過去は生かされる。過ぎ去ったことにくよくよせず、今日よりも明日、明日よりも明後日をよい日にするように生きることだと盛り上がった。

 「よい日」にするために何をするかが問題であるが、それはまたその人によりけりだ。演劇の後で出かけた講演会『万葉の風―恋・言霊』は、万葉集のいくつかをチェロ演奏をバックに朗読するものだった。朗読も古語と現代語訳とで行われ、なかなか味わい深いものがあった。中国残留孤児や婦人の記録を下にした演劇を見たばかりだったので、山上億良の「風交じり 雨降る夜の 雨交じり 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば」で始まる歌の見事なまでのリアリスムに寒気がした。山上億良の歌は厳しい現状を切々と歌うものが多い。こうした現状批判と思える歌を収めているところに、昔の人々の大きさを知ることができる。

 先日もNHKの『中学生日記』が短歌で「スキ」を伝えるドラマをやっていたが、31文字に思いを込められるなどという技は本当に最高だと思う。「近すぎて 気付かないほど そばにいた 君の笑顔を もっと見ていたい」「甘酸っぱい キャンデーみたいな この気持ち 両手いっぱい あなたにあげる」

 そこで一つ。「公園に行きましょうと誘う君 夕日の中で少女となる」

コメント
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