友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

日本語の難しさ

2007年10月23日 20時30分51秒 | Weblog
 秋も深まってきた。稲の刈り入れも終わりつつある。これでアレルギーから少しは解放されるのかと期待している。このところ、左目は慢性化したのか、目は赤いがかゆみは少なくなったのに、右目の方がやたらとかゆい。それにしても、年寄りになれば反応が弱くなるからアレルギーは起こらないという話だったが、なかなか収まらないのはまだ私は若いということなのだと勝手に思うことにした。

 今日は一日中家にいて、大和塾の第6回市民講座への案内文を作り印刷をする。これまでの5回に参加してくださった方々のところにこの案内文を送るために、封筒に住所書きをした。案内文を作っていて、「ご承知の方も多いと思います」がよいのか、「ご存知の方が多いと思います」がよいのか、わからなくなってしまった。承知というのは、命令などを承ることだから「ご」をつけてもなんとなく違和感がある。存知というのも、在るを知るということなのだから、これもピンとこない。迷って、元高校の国語教師に教えを求めた。先生の話を聞くうちに、「知っている方々も多いと思います」という普通の言い方にした。

 外国人に日本語を教えていると、日本語というのは難しいなと思うことが度々ある。外国人に教える日本ということではないが、やはり大和塾のチラシを作っていた時にも悩んだことがある。若いデザイナーは「金美齢女史という言い方はしないので、“氏”に直しておきました」と、言ってくれた。確かに新聞などでは「女史」という表現をしなくなっている。それでも「氏」というのはどうにもピンとこない。「せっかくの好意だが、やはり女史にしておいて」と話した。アメリカでは、MrやMrsという区別をなくそうという運動もある。言葉が持つ差別をなくそうというのである。

 私の親友夫婦も「奥さん」「主人」とは言わずに「つれあい」と呼んでいる。それはそれでよいだろう。奥にしまっておくようなものではないし、夫婦は主従の関係でもない。だが、漢字は文字に意味があるから、英語のようにはいかない。婦人の婦は箒を持った女であるし、男は田に力の組み合わせである。昔の人はそういうイメージで文字を作り上げたわけだけれど、極端に現代にはふさわしくないのであればそれはなくせばよいが、文字に目くじらを立てて突っかかることはないような気がする。

 「女史」は、社会的地位や名声のある女の人。また、その氏名に添える敬称である。「氏」よりもはるかに尊敬の意味合いが深いと私は思っている。「いや、問題は女性にだけそのような名称をつけることが差別なんですよ」と言うかもしれない。まず言葉から、差別をなくしていこうということ自体に私は反対ではない。人は知らず知らずのうちに、差別していることはある。それをきちんと検証することは大切だ。けれども日本語が持っている意味合いや深みまでもなくすことには戸惑いがある。

 私は好んで「貴女」と手紙で書くが、こういう日本語の情緒は好きだ。ジェンダーが問題提起しているのは、「性による不利益である」であると私は思っている。同一労働同一賃金が実行されていなかったり、昇進が違ったり、受けられる権利が阻害されたり、まだまだ残る性による不利益はなくしていかなくてはならない。その障害となっている社会の価値観を変えていく必要はある。そのことと、人間に男と女があり、違いが存在することを認めこととは対立軸にはならないと思っている。

 男と女が惹かれあう不思議な関係であるからこそ、いつまでも芸術の対象であり続ける。男と女と限定したけれど、男と男であっても女と女であっても、いやその境界のあいまいなものであっても、人は惹かれ、愛し合い、憎しみ合い、求め合ってきた。性異は実在する。やはり、私は女性に手紙を書くなら「貴女」がいい。
コメント
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