友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

ハンサムなトルコ青年

2007年10月02日 23時32分00秒 | Weblog
 今朝、以前に日本語を教えていたトルコ人の青年から電話があった。「どうした?」と聞くと、「何もないよ」と言う。「エッ!何もないの?」と聞き返すと、「声が聞きたかった」と答える。「今日、仕事は?」と尋ねてみた。「仕事できないね」「そうか、じゃーヒマなんだ?」「そう、ヒマ」「それじゃー昼から会おうか?」「わたし、くるまないよ」「わかった。じゃーボクがそちらへ行くから、着いたら電話するね」「ウン、わかった」。

 昼から、約束どおりでかける。以前と同じハンサムな青年だ。ちょっとやせたかなと思った。近くの喫茶店に行く。「わたしは今、断食なので何も食べないから」と言う。「そうか。ゴメン。水も飲めないの?」「ダメ」。断食の時は朝の日の出から夕方の日没までだったか、ハッキリ覚えていないが、イスラム教徒は何も口にしてはいけないのだ。彼の目の周りにクマがあるのはそのせいかもしれない。まだ若いのに結婚して、すでに二人で暮らしていると言う。

 彼は日本語はかなり話せる。シャレだって言える。日本語のひらがなくらいは読めるが、カタカナになると間違いが多いし、ましてや漢字で読める字は少ない。「日本語の勉強はしているの?」と聞くと、「していない」と言う。頭は悪くないから少し勉強すれば、生活に困らないくらいの日本語の読み書きはできるようになるはずだ。彼らの家から歩いてもそんなに遠くないところに公共図書館がある。私は以前、ここで図書館学の実習をしたことがある。「図書館に行ってみよう」と彼を誘った。

 図書館で司書の男性職員に、「外国の人が日本語の勉強をする本はありますか?」と尋ねてみた。初めに案内してくれたのは、言語のコーナーだった。私も司書の資格はあるからわかるのだが、日本人が外国語を勉強するための本はあるが、逆の場合は無いのではないか、そう思ったが口に出さずにいた。やはりそこには無かった。すると女性の職員が違う方を指して何か男性職員に話していた。その指差していた方へ行くと、国際交流センターなどにおいてある外国人のための『日本語の基礎』がたくさん並べてあった。さすがに多くの外国人が住んでいる市の図書館だと感心した。

 ところが、彼のように話すことは日本人並みの人には物足りないものばかりだ。それに、こうした教科書に近いものは、自分ひとりで学習するにはちょっと困難な気がする。そこで、児童図書の方へ連れて行った。絵本の中で、私がおもしろそうだと思うものを手渡し、「これを読んでみたらいいと思うよ」と教える。「図書館は、誰が来てもよいし、いつまでいてもよいところ。お金は要らないから、時間があればここに来て勉強すればいいよ」と話す。ただ、ここの図書館は狭くて、ゆっくり本を読んでいることのできる場所が無い。ましてや、彼のようにノートを持ち込んで書くようなことはできない。そういうことのできる学習室はあるが、3階まで行かなくてはならない。そのことを彼が職員にうまく説明することは難しい。

 それでも、近所にこうした図書館があることを知っていれば、またいつか出かけてみようという気にならないとも限らない。何しろ、毎日やることが無いのでテレビばかり見ているというくらいであるし、私のことを思い出して電話しようと思ったくらいなのだから。カミさんは働きに出ていると言う。「日本語はできる人なの?」と聞くと、「彼女はスペイン語もポルトガル語もできる。それで、オレにもっと日本語の勉強をせよと言う」と話す。「そうだな。日本で暮らすためにはもう少し日本語ができないとね」と言えば、「ウン。勉強する」と答えてくれた。

 外国で暮らすことは本当に大変だと思う。これからは彼らのような人々がもっと増えてくるだろう。グローバルは何も経済のアメリカ化だけのことではない。人もまた、流動するだろう。狭い地球はさらに狭くなっていく。でもそうすることで、国が違っても、人の肌の色が違っても、いい人はみんないい人なのだということもわかるだろう。みんながお互いを理解できるようになれば、これからどんな風に暮らしていったらよいのかということも、先が見えてくるのではないか。

 私がこれまでに会った外国人で二度と会いたくないと思った人は一人もいない。みんな優しくて親切で気さくだった。考えてみれば、同じ日本人でももう二度と会いたくないと思うような人にはこれまで一度も会ったことが無いから、やはり人間はみな同じなのかもしれない。全ての人に幸あれ!
コメント
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