第3金曜日は短歌教室である。今日、提出した4首。
1)周りから祝福されて生まれたる 孫の名前は「愛」としようか
2)中3の孫はあれこれ考えて 妹の名は「恋夏(れんか)」と付けり
3)我が婿は「春駒がいい」と言うけれど 「芸者みたい」とみな反対す
4)親戚がみな嫌という孫の名を その父だけが好きと言い切る
7月6日の早朝に生まれたのに、どうして「春駒」なのか私には理解ができない。婿殿は「いい名前でしょう」と言うけれど、どこがよいのかわからない。郡上踊りで演奏される「春駒」は、生き生きと未来に向かって飛び跳ねていく元気と夢を与えてくれると言う。リズムもいいし、この子にはピッタリの名前だと言う。「春駒」は確かに軽やかな響きで暗いイメージの多い民謡の中では珍しく明るい。だからといって孫娘に「春駒」と付けようとは思わない。婿殿はどうして「春駒」に執着するのだろう。ぜひ、聞かせて欲しいものだ。
名前は一生ついて回る。子どもが大きくなって、「私の名前はどういう意味で付けられたの?」と聞かれた時、「お父さんが好きな名前だ」と言うだけでは説得力がない。子どもが自分の名前に誇りが持てる、そんな名前を付けることは親の責任である。「お前は芸者になるのか」と友だちに冷やかされた時に、「いいえ、この名前は」と言い返せるだけの根拠があるのだろうか。父親が「他に無いから」と「悪魔」と名前を付けたケースがあった。その父親はしてやったりと大得意だったかもしれないが、付けられた子どもはどんなに悲しかったことだろう。
「名は体を現す」という。知らず知らずのうちに名前のように生きようとするものだ。でなければ女の子には女らしい名前を、男の子には男らしい名前を付けたりはしないだろう。名前には親の期待が込められているけれど、何よりも一人前の個人として、子どもの人格を尊重してやらなくてはならない。親の趣味や趣向が反映されるのはいいけれど、ひとりの個人として誰が見てもいい名前であることも大切ではないだろうか。
多くの人が「その名前は嫌だ」と感じているなら、それは配慮されてしかるべきだろう。皆さんが反対している名前をわざわざ付ける意味はどこにあるのか。名前はできるだけ多くの人が「いい名前ね」と言ってくれるようなものの方がいい。そこのところを婿殿にもう一度よく考えてとお願いしている。
婿殿は優しいし賢い。それにかなり頑固だ。純粋な気持ちの持ち主だからこだわりが強い。純粋な人は打たれると極端にしょげてしまう。まるで全てがダメになってしまったかのように落ち込む。私はどちらか言えば打たれ強い。潰されてもどこかで芽を出そうとやってきた。前の首長が「あなたは聞き上手ですね。あなたと話しているともっと話したくなる」と言った。私はできる限り人の言うことを聞くように努めてきた。自分の考えと違っていても、とにかく聞く。それを仕事にしてきた。
家庭では身勝手な人であったけれど、それでも子どもの人格を認めないような態度を取ったことはない。激論になってしまうことはあっても、相手の言い分も聞かずに否定することはなかったと思っている。婿殿が心の大きいところを見せてくれることを期待している。
1)周りから祝福されて生まれたる 孫の名前は「愛」としようか
2)中3の孫はあれこれ考えて 妹の名は「恋夏(れんか)」と付けり
3)我が婿は「春駒がいい」と言うけれど 「芸者みたい」とみな反対す
4)親戚がみな嫌という孫の名を その父だけが好きと言い切る
7月6日の早朝に生まれたのに、どうして「春駒」なのか私には理解ができない。婿殿は「いい名前でしょう」と言うけれど、どこがよいのかわからない。郡上踊りで演奏される「春駒」は、生き生きと未来に向かって飛び跳ねていく元気と夢を与えてくれると言う。リズムもいいし、この子にはピッタリの名前だと言う。「春駒」は確かに軽やかな響きで暗いイメージの多い民謡の中では珍しく明るい。だからといって孫娘に「春駒」と付けようとは思わない。婿殿はどうして「春駒」に執着するのだろう。ぜひ、聞かせて欲しいものだ。
名前は一生ついて回る。子どもが大きくなって、「私の名前はどういう意味で付けられたの?」と聞かれた時、「お父さんが好きな名前だ」と言うだけでは説得力がない。子どもが自分の名前に誇りが持てる、そんな名前を付けることは親の責任である。「お前は芸者になるのか」と友だちに冷やかされた時に、「いいえ、この名前は」と言い返せるだけの根拠があるのだろうか。父親が「他に無いから」と「悪魔」と名前を付けたケースがあった。その父親はしてやったりと大得意だったかもしれないが、付けられた子どもはどんなに悲しかったことだろう。
「名は体を現す」という。知らず知らずのうちに名前のように生きようとするものだ。でなければ女の子には女らしい名前を、男の子には男らしい名前を付けたりはしないだろう。名前には親の期待が込められているけれど、何よりも一人前の個人として、子どもの人格を尊重してやらなくてはならない。親の趣味や趣向が反映されるのはいいけれど、ひとりの個人として誰が見てもいい名前であることも大切ではないだろうか。
多くの人が「その名前は嫌だ」と感じているなら、それは配慮されてしかるべきだろう。皆さんが反対している名前をわざわざ付ける意味はどこにあるのか。名前はできるだけ多くの人が「いい名前ね」と言ってくれるようなものの方がいい。そこのところを婿殿にもう一度よく考えてとお願いしている。
婿殿は優しいし賢い。それにかなり頑固だ。純粋な気持ちの持ち主だからこだわりが強い。純粋な人は打たれると極端にしょげてしまう。まるで全てがダメになってしまったかのように落ち込む。私はどちらか言えば打たれ強い。潰されてもどこかで芽を出そうとやってきた。前の首長が「あなたは聞き上手ですね。あなたと話しているともっと話したくなる」と言った。私はできる限り人の言うことを聞くように努めてきた。自分の考えと違っていても、とにかく聞く。それを仕事にしてきた。
家庭では身勝手な人であったけれど、それでも子どもの人格を認めないような態度を取ったことはない。激論になってしまうことはあっても、相手の言い分も聞かずに否定することはなかったと思っている。婿殿が心の大きいところを見せてくれることを期待している。