私の家の新年会でも、昨日の長女の家の新年会でも、もっと言えば昨年末のカミさんの実家での忘年会でも、「家族」が話の中心だった。それは何も無理に設定したテーマではなく、血のつながった者が集まれば自然に湧き出してくるものなのかもしれない。お正月で、働き通しお父さんが家族と久しぶりに団欒をするだけで、人のつながりの不思議さが生まれる。夫婦と子供2人の4人家族であれば、夫婦は血のつながりが無く、親子や兄弟は血で結ばれている。
この「結ばれている」ということが問題で、実際にどう結ばれているのかと考えれば、単に兄弟姉妹というだけのことで、それ以上に特別なことは何もない。兄弟姉妹でありながら恋愛関係が生まれ近親相姦という例がないわけではないけれど、おそらくごく稀なケースであろう。チンパンジーの研究家の山極寿一さんが、「世界のどの文化、社会にも見られるインセストタブー」は父系にでも母系でも家族という社会を形成した時に始まっているというようなことを書いていたが、家族が先なのかインセストタブーが先なのか、密接にかかわっているのだろう。
人間は資本主義社会に突入して以来、当然のことだけれど家族よりも個人の労働(価値)を重んじてきた。家族のつながりは薄れ、どんどん個人化していった。資本は家族を必要としなかったからだが、それでも日本の会社はそれまでの家族主義を継承し、擬似的な家族社会を形成した。資本主義は頂点に達し、会社のあり方から社会の仕組みなどあらゆるものが見直されようとしている。政治が大きく変わろうとするのもそこに要因があるのだろう。
我が家の新年会で、そんな難しいことが話題になったわけではない。酔っ払った義弟が食べてばかりで全く運動しない妻である私の妹を心配して「本当にデブなんだから。あの三段腹を見てやってください」と言う。私は「ウチのカミさんは酔っ払って、ゲイゲイやったんですよ」と言う。すると長女は「どうして叔父さんもパパもあんなに人の悪口を言うんだろう」と嘆く。義弟は妻の健康を心配し、私はカミさんの人間的な面を知らせたくて、そんな思いで話しているが、「家族」は難しいなと思う。
義弟が「夫婦ケンカしたことのある人は手を上げて」と問い、「私は一度もカミさんに手を上げたことはありません」と言い、「夫婦ケンカも時には必要だ。腹に抱えていちゃーダメだ」と話す。「ケンカなんかできない」と言った2組は親と同居している。そうか、それは比べ物にならないくらいつらいだろうなと思った。祖父母とあんなにうまくやっていると思ったのに、母は知らないところで泣くのを我慢していたのだと息子たちは母親を知り、ダンナは「感謝している」とポツリと話す。
どこの家もまだ女たちはよく働く。子どものために家からいろいろと運んでくるのだが、「いらない。それはお母さんの勝手だ」と無碍もなく言い切る。母親の子どもへの思いが強ければ強いほど、子どもはこれを拒否する。悲しいことだ。「お母さん、ありがとう」と一言くらい言ってもいいだろうに思うけれど、子どもには子どもの言い分があるのだろう。私も自分が絶対に正しいとは思わない。だから年上のオヤジの言うことなのだからと聞き流しておいてくれればいい。どうせもう、子どもたちの時代である。私たち年寄りは子どもたちに寄生して生きているに過ぎないのに、「ありがとう」と言葉だけでも言って欲しいと思っているのだ。
この「結ばれている」ということが問題で、実際にどう結ばれているのかと考えれば、単に兄弟姉妹というだけのことで、それ以上に特別なことは何もない。兄弟姉妹でありながら恋愛関係が生まれ近親相姦という例がないわけではないけれど、おそらくごく稀なケースであろう。チンパンジーの研究家の山極寿一さんが、「世界のどの文化、社会にも見られるインセストタブー」は父系にでも母系でも家族という社会を形成した時に始まっているというようなことを書いていたが、家族が先なのかインセストタブーが先なのか、密接にかかわっているのだろう。
人間は資本主義社会に突入して以来、当然のことだけれど家族よりも個人の労働(価値)を重んじてきた。家族のつながりは薄れ、どんどん個人化していった。資本は家族を必要としなかったからだが、それでも日本の会社はそれまでの家族主義を継承し、擬似的な家族社会を形成した。資本主義は頂点に達し、会社のあり方から社会の仕組みなどあらゆるものが見直されようとしている。政治が大きく変わろうとするのもそこに要因があるのだろう。
我が家の新年会で、そんな難しいことが話題になったわけではない。酔っ払った義弟が食べてばかりで全く運動しない妻である私の妹を心配して「本当にデブなんだから。あの三段腹を見てやってください」と言う。私は「ウチのカミさんは酔っ払って、ゲイゲイやったんですよ」と言う。すると長女は「どうして叔父さんもパパもあんなに人の悪口を言うんだろう」と嘆く。義弟は妻の健康を心配し、私はカミさんの人間的な面を知らせたくて、そんな思いで話しているが、「家族」は難しいなと思う。
義弟が「夫婦ケンカしたことのある人は手を上げて」と問い、「私は一度もカミさんに手を上げたことはありません」と言い、「夫婦ケンカも時には必要だ。腹に抱えていちゃーダメだ」と話す。「ケンカなんかできない」と言った2組は親と同居している。そうか、それは比べ物にならないくらいつらいだろうなと思った。祖父母とあんなにうまくやっていると思ったのに、母は知らないところで泣くのを我慢していたのだと息子たちは母親を知り、ダンナは「感謝している」とポツリと話す。
どこの家もまだ女たちはよく働く。子どものために家からいろいろと運んでくるのだが、「いらない。それはお母さんの勝手だ」と無碍もなく言い切る。母親の子どもへの思いが強ければ強いほど、子どもはこれを拒否する。悲しいことだ。「お母さん、ありがとう」と一言くらい言ってもいいだろうに思うけれど、子どもには子どもの言い分があるのだろう。私も自分が絶対に正しいとは思わない。だから年上のオヤジの言うことなのだからと聞き流しておいてくれればいい。どうせもう、子どもたちの時代である。私たち年寄りは子どもたちに寄生して生きているに過ぎないのに、「ありがとう」と言葉だけでも言って欲しいと思っているのだ。