ノンフィクション作家の佐木隆三さんが亡くなった。78歳だった。私が佐木隆三さんを知ったのはおそらく1970年代だろう。その後、埼玉の幼女連続誘拐殺人事件やオウム真理教事件などの裁判を傍聴し、発言していたことで名前を覚えるようになった。亡くなる前のことだったが、中学からの友だちがブログに、佐木隆三さんの代表作『復讐するは我にあり』の映画で、主人公の妻に扮した倍賞美津子さんの入浴シーンが印象に残ったと書いていた。
佐木隆三さんの作品は読んでいないが、この映画は私も観た。監督が私の好きな今村昌平だったこと、出演していた女優が大胆なシーンを演じる人がいたこともあって観たのだと思う。ストーリーはすっかり忘れてしまったが、彼が書いていたように、倍賞さんが義父の三国廉太郎と入浴していた場面だけは覚えている。実際にあった連続殺人事件を題材にしたものだが、私の関心は題名の「復讐するは我にあり」にあった。
この言葉は聖書の「ローマ人への手紙」に出てくる。書いたのはパウロで、ローマの信者に送ったものだ。ローマの信者は迫害の中で本当の信仰とは何かと迷っていたのだろう。迫害する者への憎しみが募っていただろう。パウロは「自ら復讐するな、ただ神の怒りに任せなさい」と説いた。そして「あなたの敵が飢えているなら、食べさせなさい。渇いているなら、飲み物を与えなさい」と続ける。キリスト教の本質をよく表している。
連続殺人犯がどのような人物であろうと、裁きは神が行うことで、私たちは慈しみを失ってはならない。中学からの友だちは、倍賞美津子さんが「記憶の中できらめく1曲と上げたパーシー・スレッジの『男が女を愛する時』を紹介し、「愛する女性が悪女であっても、自分がつらい目に遭おうとも、すべてをその女性に捧げようとする一途な男の愛情を歌ったもの」と書いていた。
愛するということはそういうことだと思う。自分に応えてくれないと不満を抱くことなく、何もかも投げ捨ててでも手に入れたい、その気持ちが愛する気持ちなのだ。それでどうなるかは神が決めることで、それを詮索するようなら愛はもう冷めている。「復讐するは我にあり」の我は自分ではなく神である。任せる以外になにもない。
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