goo

2021.04.08 今年もガーベラ便り。



摩耶さんからガーベラ便りの葉書が届いた。毎年、送ってくれるので、有難い。
今は、2輪だけだけど、まだ、つぼみが二つあるとのこと。
写真では、つぼみは分かり難いけど、つぼみの可愛さは、又、何とも言えない。


昔は、珍しい種類の植物の球根や種は、海外から取り寄せないと無かった。
職場の外国為替担当の方で、園芸が大好きな方が居て、お得意の外国語で、
様々な国から、珍しい植物の球根を手に入れておられた。
その方から、頂いた球根の内、美しい真っ赤な上品な花をつけるガーベラを、
母が殊の外気に入って、花が咲く度に、顔を輝かせて愛でていた。
今風の、品種改良されたものとは、全く違う繊細な花で、私は、その花の
雰囲気を、まるで伯爵夫人みたいだと思っていた。

我が家が、阪神大震災で全壊し、私は、大阪の寝屋川に1年半避難した後、
戻って来た日、何と、このガーベラが、庭に満開だった。
我が家以外の廻りの家は、ブルドーザーで家毎全部壊しているので、それらの
お宅の土地はガタガタの剥き出しで、草1本生えてなかった。
しかし、我が家だけは、全壊とは言え、梁が全く歪んでなかったので、壊さず
に修理することにした。
それで、ブルドーザーは入れず、ボランティアの方々総出で、瓦礫の撤去を、
人力でやった。
(これが、どれだけ大変な作業だったか、説明しても、決して伝わらないと思う。)
その為、庭の芝生が奇跡的に残った。

庭に草木のある家は、町内でも、我が家だけだったので、私が大阪に避難して
いた1年半の間は、我が家の芝生は町中全ての猫の住処となっていた。
従って、その排泄物で、庭の土は、栄養満点だった。
その為、花壇は、驚く程、繁茂していた。

母が大好きだったガーベラが、花盛りの状態で、目に飛び込んで来たので、
私は驚き、震える程感動した。

その時、もしかしたら、信じてもらえないかも知れないが、全く不思議なこと
に、父と母の声がはっきりと聞こえた(私には)。
「おかえり。おかえり。」「おかえり。おかえり。」「おかえり。おかえり。」
と…聞こえ続けた。
人には、信じてもらえないかも知れないけれど、この経験は、以前何度も
このブログでも書いたし、過去のホームページの「みずえのひとりごと」の方
にも書き、又、何度も、人に話したこともある。それほど、鮮烈な体験だった。

その時、「あ、私は、自分の力で戻れたのではないんだ。」と強く思った。

ガーベラのことは、書き始めると2話、3話、それ以上となるので、今回は、
ここまでにしたい。

その後、再建後の神戸の家に10年間住んでから、15年前、転居のため、その
神戸の家を去る時、私は、近所の園芸屋から、手ひねりのおしゃれな植木鉢を
4つ買って来た。
ガーベラの球根を、のばらさん、さくらさん、摩耶さん、そして、私の4人分
に株分けした。
実は、私の分が枯れたとしても、どれかが残ってくれる様にと言う、私としては
自分勝手な思いからだった。
だから、その3人に、余りにも御礼を言われると、申し訳ない気持で、
「いいえ、実はね、保険なのよ。保険!」と、本音を白状したが、摩耶さんは、
「でも、有難いわ。お母さんの思い出の大切な物なのでしょう?」と更に
感謝してくれた時は、私は感謝でジ〜ンとなった。

その時、摩耶さんちに行ったガーベラが毎年この季節、花が咲く度に、彼女は
写真に撮って、ガーベラ便りを送ってくれている。

さくらさんちへ行ったガーベラは、鳩にやられて全滅。
のばらさんちのガーベラは、大きなお庭に植えて頂いて、陽当たりがよく、
夏の花なのに、冬まで咲き通けていた。
ある時は、のばらさんは、それらを大きな花束にして、我が家に運んでくれた
こともあった。
のばらさんは亡くなり、そのお屋敷は、今は娘さん一家が住んでいるが、
ガーベラのことは分からない。
転居した我が家のベランダは、庇が深くて、ガーベラに不可欠の真夏の強い
日差しが全く射さないので、ガーベラは虫だらけになって、1年目に全滅した。
だから、摩耶さんちのガーベラだけが、母が愛したガーベラの系統となった。
私が掛けた保険は、こういう形で、1件のみ成功した。

摩耶さん、ガーベラを可愛がって下さって、ほんとうにありがとう。
写真、ありがとうございました。^^








コメント ( 0 ) | Trackback (  )