【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

【木下順二】ー「風浪」論  (明治の熊本)

1999年03月01日 00時00分00秒 | 論文

「風浪」論-歴史のパラドックス

初出 「方位」20号 三章文庫 1999・3

                 永田満徳


    初めに


 「風浪」については、木下順二みずからこれまで多くを語っていて、それらの自註自解をまとめると、「風浪」の解釈が一応成り立つと言っても過言ではない。ただそれは「風浪」論の基本的文献の意義を示すものであって、作者の自作への認識を検討することはこれからの課題だと言わなければならない。
 そこで、木下順二の自作解説のなかで最も注目しているのは、単行本として初めて発行された未来社版『風浪』(一九五三・二月)の「あとがき」である。この「あとがき」は、「風浪」理解の出発点の役割を果たすばかりではなく、「風浪」の基本モチーフを明らかにするうえで重要である。
 では、その「あとがき」で、木下順二が触れているいくつかの中で、次の二つの箇所に焦点を当てて考察してみたい。一つは、冒頭の有名な「『風浪』二九三枚は、いうならばぼくの青春の記念である」というところの〈青春の記念〉という言葉であり、もう一つは、「戯曲というものを書こうと思いたった時、最初に熊本が、明治の熊本がぼくに浮かんだことは、きわめて自然であった」というところの〈明治の熊本〉という言葉である。


    一 明治の熊本


 木下順二が〈熊本の明治〉という時、まず玉名郡伊倉の大怱庄屋で、幕末から明治にかけて生きた曾祖父木下初太郎の存在を抜きにしては考えられない。しかし正確に言えば、初太郎という人物というより、一八二八年(文政十一)~一八八五年(明治十八)までの膨大といっていい年々の日記とその日記のレジュメである『後年要録』、いわゆる「初太郎日記」の存在である。この「日記を読むことが一つの芝居の資料集めだった」(『ジェインズとハーン記念講演会報告書』同実行委員会・熊日出版局・平四・七・二〇)と言っていることからもわかるように、「風浪」の資料集めの筆頭に挙げられる「初太郎日記」がなかったとしたら、「風浪」という作品が存在しえていたかどうかは疑わしい。それほど「風浪」の成立に関わったものとして高く評価すべきであろう。順二が曾祖父の「大部の日記をぽつりぽつり読みながら、原形『風浪』の材料をあつめ」(「あとがき」前掲書)ることはすなわち、自分と〈熊本の明治〉との結び付きをより深くすることにつながっていったにちがいない。「初太郎日記」に触れた順二の「ある日記」(『文学』昭和四九年6月)という文章を見ると、日記と『後年要録』とを意識的に区別した曾祖父の「主体」に注目し、「一切の感情と意見を排して約六十年間静かに書き継いでいるその全体が、ここにいう筆記者の主体を示している」と評価して、「肥後の田舎の典型的な一人の総庄屋」でありながら、表現者としての〈主体〉を貫いた曾祖父に対して敬意を抱いていることが窺える。けだし、曾祖父初太郎の存在は順二にとって劇作家としての血脈の源流であって、その流れの親近感のなかで〈熊本の明治〉を知るよすがとなったということである。
 しかし順二にはこの曾祖父初太郎のみならず、〈熊本の明治〉が手触りできる存在としてはむしろ竹崎茶堂(注1)がいたと言っていい。この茶堂は初太郎の弟で、木下家では明治初期に活躍した親族として語り草にでもなっていたのかもしれない。順二が「風浪」の山田蚕軒の家族構成に「大いにお陰を蒙った」(『本郷』・講談社・一九八三・三)と述べている徳富蘆花の『竹崎順子』に照らしてみると、私塾にしても、プラフやミシン・マグネシウムなどの文物にしても、「風浪」のモデルのなかでは最もよく事実に近く描かれている人物である。高木亮「竹崎茶堂先生」(竹崎茶堂先生伝記編纂会・昭五・一・三〇)という郷土資料(注2)を見ても、竹崎茶堂が蚕軒のモデルにふさわしい人物であったことがわかる。青年たちの離散糾合の渦の真っ只中にいる蚕軒の役どころの重要性からして、「風浪」は茶堂のような人物がいて初めて成立した作品ではなかったか。
 「風浪」の成立に大きく働いたのは、順二が最初に戯曲を書こうと思ったとき、身の回りに竹崎茶堂というモデルがいて、そのモデルに肉付けする資料として「初太郎日記」が手元にあったということである。
 従って、「中学と高等学校の時代、つまり昭和の最初の十年間をぼくは九州熊本に送ったが、ぼくの『明治』は逆にこの熊本と結びついている。郷土的地盤に立って動いていたぼくの祖父や曾祖父のことなどが、具体的な過去として、この時期にはじめてぼくの生活の中へしみこんできた」(「明治・大正とぼく」『現代史講座』第三巻・創元社・一九五三年八月)という文章によってもわかるように、熊本体験が最も多感な時期になされたからこそ、曾祖父たちの存在が〈熊本の明治〉と切り離すことができず、「風浪」の素材を提供したのみならず、「風浪」の時代設定に大きな役割を荷なったであろうことは容易に想像できる。
 そして、曾祖父たちの存在に触発されて書き始めようとした順二にとって、傑作が書けるかどうかは別として、次に〈明治の熊本〉をどう描くかということもそれほど難しくなかったであろう。というのは、〈明治の熊本〉が人物・事件・土地のいずれにおいても戯曲の素材に事欠かないところであったからである。
 まず人物としては特に竹崎茶堂に象徴されるように、実学党の政策は明治六年頃になると中央政府の意図を乗り越えるものであった。もちろん、その急激な政策を快く思わなかった中央政府から派遣された県令によってわずか三年で挫折し、茶堂は熊本近郊に退くことになるにしても、その実学党の政策のもとに建てられた洋学校に招かれたジェインズは当時の青年に対してすぐれて感化力の強い魅力的な人物であった。現にその洋学校のグループのなかからは、例えば林原敬三郎のモデル海老名弾正・田村伝三郎のモデル徳富蘇峰らのまったく新しい明治の青年が生み出され、日本の近代化に大きな役割を果たすことになる。一方には、保守主義的傾向の中でも得意な存在で、神がかりの復古・攘夷主義に固執する敬神党の集団があり、また同じく保守的傾向を持つ学校党も敬神党ほど守旧的ではないけれど、かつては藩支配権力を独占し、実学党政権下では鳴りを潜めている集団が存在していた。明治の〈熊本〉が全国的に見ても、あまりにも新旧の典型を示していて驚くばかりであるが、きわめて保守的で、ラディカルな人物を輩出し、明治初期の三者三様の人間模様が展開されていたことは重要である。その意味で、多彩で個性豊かなこれらの人物たちを戯曲の中に取り込もうとした順二の着眼点のすばらしさには今更ながら頭が下がる思いである。
また、事件については、熊本では明治九年の二つの事件、いわゆる神風連(敬神党)の乱、熊本バンド事件が相次いで起こっている。神風連の乱は神官大田黒伴雄を首領とする一七〇余名が手に刀剣と槍のみで挙兵した明治維新後の復古的攘夷派の象徴的な士族反乱で、〈神秘的秘密結社〉(蘇峰)の乱ともいうべきという評価があるだけに特殊な事件であった。熊本バンド事件は、洋学校の生徒三十余名が「奉教趣意書」を読み上げ署名したキリスト教入信宣言で、日本プロテスタントの夜明けといわれる事件であった。これらの事件もまた同じ熊本に出現したあまりにも対処的な現象であって、いずれも当時の日本全体を揺り動かしたものとして知られている。さらに、明治期の最大事件である西南の役は、熊本では学校党と民権党は相反する思想であったにもかかわらず、実学党をのぞく士族のほとんどが参加した戦争で、明治政府の「有司専制」体制を武力的反抗によって打倒できると考えた一連の士族反乱の典型と言っていい。「風浪」では暗示されるだけにとどまるが、しかし佐山の行動に決定的な影響を与えることになる点では、「風浪」で扱われる事件の一つに挙げてもいいと思われる。つまり、明治初期の世相の典型であり、日本の維新期の縮図であったこれらの事件は、第三幕では熊本バンド事件、第四幕では神風連の乱、第五幕では西南戦争というように描き分けられているが、順二がこの三つの事件にうまく関わらせて「風浪」を展開していることに気づくだろう。ここに、〈展開的〉〈羅列的〉と作者自身の自己批判(注3)している理由がある。
 最後に土地(注4)としては、「風浪」の私塾をモデルにしている竹崎茶堂の私塾「日新堂」があった場所に注目したい。この私塾は茶堂が官を辞して後開設した私学校で、新式の教授法を実施して、新時代の人物養成を志したことで有名である。この私塾は本来「本山村」にあったが、順二はこの本山という土地について、西南戦争当時「一つの時代の終りと次の時代の始まりを鮮かに示している点において、本山村は一つの典型であった」(「『城下の人』の思想」『海』一九七五年四月号)という認識を示している。この認識は茶堂の私塾「日新堂」もまた時代の〈典型〉であるという意味をも物語っていると言えないだろうか。ただ問題なのは、「風浪」では本山でなくて花岡山に設定されている点である。この点に関して考えられるのは、花岡山が熊本バンド事件の現場であり、本山より洋学校に近く、西南の役の折りには西郷軍がこの花岡山を占領し、熊本城に大砲を打ち込んだという軍略上重要なところであったことである。なお、「風浪」の第二幕は江津湖の場面であるが、この江津湖は『本郷』(前掲書 )において青春の忘れられない場所として紹介されている。ということは、本山にしても、江津湖にしても、時代の典型として、あるいは作者自身の原風景として「風浪」の舞台設定に使われたといえる。
 このように、〈明治〉という近代日本の青春時代を縦軸にして、〈熊本〉という当時としては先駆的であり、反動的であるところの典型であった土地と事件を切り結んだ地点に、「風浪」の舞台設定がなされたということはまちがいない。その意味で言えば、戯曲の最初の舞台を〈熊本の明治〉にしようと思ったのも、「最初の戯曲であるこの『風浪』を、ぼくは郷土熊本の人にささげたい」(「あとがき」前掲書 )といささか思い入れ強く言ったのも、故なしとはしない。「風浪」がそれほど〈熊本〉という風土と切っても切れない作品であるからである。「熊本という土地は、やはりぼくの中に深くしみこんでいた」(「あとがき」前掲書 )という順二にとって、「風浪」は書かれるべくして書かれた作品であるといえる。


    二 青春の記念


 「過去を扱うにせよ現代を描くにせよ、私はその世界に現実に自分がいると思えるまでに素材を調べあげ、その中に自分がいるという実感を手掛りに戯曲の世界を作りあげて来たという気がする」(「あの過ぎ去った日々」講談社一九九二・十二、十)という文章によっても、順二が戯曲を書くにあたって、素材を入念に調べることはよくわかるが、同じ文章で「現実的な素材のほうに引きずられるということになってしまう」という反省があるものの、〈現実に自分がいる〉こと、〈自分がいるという実感〉に重きを置いていることに注目したい。実はこの〈実感〉主義というべきものと「方言」の使用とは密接に関わっているのである。「熊本弁」(『熊本日日新聞』一九五一・十一・二九)で述べた「僕の最初の長編戯曲『風浪』は明治八-十年の熊本を扱った歴史劇で、従って熊本弁を、相当自然主義的な手法で、というのは実際の熊本弁を模写するに近いやり方で思い切り使ってみた」という言葉は、「戯曲のせりふを書く場合、人間のイメイジをリアルに考えてくればくるほど、彼はどこかの何かの方言をしゃべり始める」(「不死鳥」一九四九年・一月)ということと無関係ではない。なぜなら、順二が最初の長編戯曲に〈熊本弁〉を使ったのは、素材が端に熊本であったということだけでなく、〈自然主義的〉〈実感〉主義的に描こうとすればするほど、登場人物は〈熊本弁〉を使わざるを得なくなるからである。「風浪」において、「そういうグループを一つ一つ洗ってって、そいで最後に何が残るか―― つまりぼくが本当にそこに身を置いたとして、じゃ何党にはいるか――というなとこから考え出したんだな」(「《座談会》歴史と文学」『文学』一九五六年六月号)と語っていることからもわかるように、順二は〈身を置〉くという〈実感主義〉のかたちで〈熊本弁〉を劇に持ち込むことによって〈リアル〉な世界を描こうとしたと思われる。そういう意味では、順二は「風浪」を思考実験の場としてよりも疑似体験の場として描いているということである。従って、「佐山を、作者が若々しい情熱をこめて、多分に作者自身を投入しながら描いているところが、迫力になっている」(「《座談会》歴史と文学」前掲書)という塩田庄兵衛の佐山評がありえても不思議ではない。ちなみに、この実感主義は、「自分の書くドラマの世界が、ぼく自身にとって他人事であってはならない、自分自身が生きるという問題とかかわってドラマが書かれなければならない」(『わが文学の風景』小学館・一九九九四・一〇・二〇)という木下順二のドラマ論の根幹を成すものになっている。このように、順二のドラマ論の過程の中から描かれた「風浪」はまさしく「方言」の使用とあいまってリアルな青春群像の劇として人々に感銘を与えることになった。
 「風浪」は、順二のいうところの「いろんな傾向のグループの、青年の群像がいろいろ悩む」(『ジェーズとハーン記念祭講演』・前掲書 )様子を描いた戯曲で、「西南戦争直前の熊本ではもっと非常に、典型的にといってはおかしいんですけど、そういう悩む青年の群像があった」(前掲書)とあるように〈悩む青年〉の〈典型的〉なものとして提示したものである。ここで注目したいのは、「まじめな若いインテリたち――士族の青年――が、ともかくも自分の生きる道を、いかに自分のものとしてとらえるかという課題に当面して闘っている姿」(「明治・大正とぼく」前掲書)に作者みずからを投影していることである。というのは、別の文章(『わが文学の風景』前掲書)で「風浪」の原形になる習作を書いていた当時の作者が「自分自身の生きている証し」を見出そうとしていたことを知ることできるからである。ここにも、作者が「風浪」の登場人物とともに〈明治の熊本〉を疑似体験していることの現れがある。そして、「『風浪』は、神風連から洋学校の基督教徒の中にまで生きて行くべき道を捜しまわった」ものであると述べている文章(「『城下の人』の思想」前掲書)にしても、特に「一所懸命、誠実に、何かを追求している」、あるいは「生きるということを追求している」と〈生きる〉姿勢において佐山が主人公になったいきさつが語られている文章(「解説対談」『木下順二作品集Ⅵ』未来社・一九六二)にしても、「生きる」という語彙が頻出するのは、「風浪」という作品がいかに〈生きる〉べきかを追い求めた青春群像の劇であるからである。最終稿(注5)と第二稿の比較によっても、佐山の西郷軍への参加が意志にしろ、行為にしろ、積極的に改稿されていることがからわかるように、佐山が〈悩む〉青年から行動する、つまりより積極的に〈生きる〉青年へと変容している。「風浪」の主人公佐山に焦点にあててみても、〈生きる〉ことへの追求が描かれていると言わなければならない。
 思いえらく、「明治というものを本質的には悲惨な時代だったというふうに規定する人が多いけれど、(中略)むしろあの中では、自分の中のエネルギーが解放された時代と考えて、日本の封建制では見られなかったエネルギーを、はじめてそこではっきしたのではないか。(中略)明治の解放されたエネルギーは評価しなければならない」(「演劇の本質」『現代演劇講座』第一巻・三笠書房・一九五八・十一 )という文章からは、明治が〈生きる〉ことに満ちあふれた時代で、その〈生きる〉こと自体のエネルギーに魅力を感じている作者の眼差しが感じられる。「まさに青春の名を以て呼ばるべきそれらの日々を、無為に似た平穏のうちに過ごしたことへの悔恨は、今にして押えがたい」(『本郷』前掲書)という文章を参考にして言えば、この〈青春〉への強い〈悔恨〉があったればこそ、明治期の青年たちの〈生きる〉ことに対する〈エネルギー〉に嫉妬に近い感情を持ったにちがいない。〈青春の記念〉という言葉は、改稿に改稿を重ねながら、みずからの青春のやり直しを「風浪」を書くことによって行い、未来社版による単行本化という一応の達成をみた満足感のなかで、三十九歳という位置から紡ぎ出された言葉である。


    三 いかに〈生きる〉べきか


 従って、「風浪」はいかに〈生きる〉べきかを追い求めた青年の群像が描かれているとみるべきである。「風浪」の登場人物についていかに〈生きる〉べきかを次のように項目立てて説明することができることもその証左になろう。
 まず、一途に〈生きる〉タイプである。洋学校の寮生の筆頭であり、〈ゼンス〉の警護役も勤める林原敬三郎である。     
林原 何の役に立つか立たんかなんちゅう、そぎゃん事じゃなか。ああたは見とって分らんとな?蚕軒先生にわれわれが揃うて、新介迄が、面ば犯して立ち向い得るとは何のためて思うな? われわれの中に力が働いとるけんたい。ゴットの力がわれわれの中に充ちて籠ってつき動かしよるけんたい。この気持ちがああたは分からんとな?     
とあるように、〈ゼンス〉の教えを遵守し、〈ゴットの力〉に対して少しも疑わない。敬神党の藤島光也もまた同じである。
藤島 それが分かるならその先は知れとるじゃなかか? われわれは桜園先生から教えられた。神には禍つ神と直びの神とあって、世の乱るッとは禍つ神が力ば得とるけん、て。われわれは直びの神のお力の恢復ばお祈りするよりほかはなか。
敬神党の精神の支柱である林桜園の教えを墨守し、〈直びの神〉に信じていささかの躊躇もない。林原も藤島も狂信的とでもいうべき人物で、佐山のように懐疑することをしない人間である。この両者はその一途さゆえに、前者はバンド事件に、後者は神風連の乱にかかわり、明治という時代に真っ向から立ち会うことになる。
 次に、時流に逆らわずに生きるタイプである。それは敬神党から自由民権運動に走った河瀬主膳である。
     河瀬 そらァ健次、俺もね、時勢、ちゅうか、時流、ちゅうか、一人になった時、ふっとつくづく考える事のある。俺ァもがきよる。時勢ば変えにやいかん、推し進めにやいかんてもがきよる。ばってん、いくら俺がもがいても、やっぱり時勢は流れて行きよる。こらァどういう事か? そン 中で俺ァもがきながら流されて行きよる。一方にやまた楽々と時流に乗って先頭ば切って行きよるもんもある。一体こらァどういう事か?……
実学党蚕軒の息子で有能な官吏である山田唯雄も新旧の混乱を行く抜き、どちらかといえば現実主義的で割り切った考え方のできる人間である。
    唯雄 俺ァ官員たい。政府の方針に従うて、政府で決めた事ばその通り人民に施して行く。それが俺の仕事たい。
この両者は時の流れを機敏にとらえ、そうであるがゆえに当時としてはかなり前衛的な生き方を通した人物であろう。ただ、あまりにも現実主義的で体制に無批判的に従う山田のような人物ではなく、今日的に見ればむしろ体制を批判し、民主主義を先取りする考えを持った河瀬の方が魅力的である。
 最後は、第一とも第二ともタイプを異にする、割り切って〈生きる〉ことのできない佐山健次のようなタイプである。ちなみに、「『城下の人』の思想」(前掲書 )という文章のなかで「割り切って片づけることができぬ人間」として石光真清を取り上げているが、「日本人発見」(東京新聞・一九八七・一・二六)という文章で再度触れているほどであるから、真清という人物に強い関心を寄せていることがわかる。佐山と真清との親近性を指摘できるが、それ以上に、割り切って生きることのできない人間への共感の深さが感じられて興味深い。
  佐山 俺ァ……随分あっちこっち歩いて廻った。何度も変節漢と呼ばれながら歩いて廻った。俺ァ、おととしの夏のあの江津湖の堤ばよう覚え取るぞ。貴公でさえ、敬神党はえぬきの貴公でさえ、志ばたてて東京へつっ走るて聞いて、俺ァ百間石垣ば後ろ飛びするつもりで洋学校のゼンスのところへ走った。そのゼンスのもとで、一時は俺ァついに求めよったもんば得たて思うた。ばってん、やっぱりだめだった。ゼンス先生が一本の金線ていいなはった事ァよう分る。ばってん俺ァ、その一本の金線が信じ切れんだった。それよりァ俺ァ、光也の心中がよう分るて思うた。よう分るばってん俺ァ、もう敬神党にもついて行き切らん。俺ァ、どぎゃんしたらよかつか。
 それにしても、佐山は「風浪」の登場人物のなかでは最も悩み多き人物なのである。自分の拠って立つべきものを求めて思想遍歴をする佐山に、「風浪」執筆当時はそれほどでなかったとしても、絶対神に救いを求めて入信したキリスト教体験がほの見えているのかもしれない。河瀬のように先見の明を持ち、時代を切り開いて行く人物のほうがむしろ主人公になりえたはずだが、しかし佐山のような割り切って生きることのできない人間であったからこそ、当初主人公らしい主人公のいなかった劇の中で主人公として浮かび上がってきたと言えないか。登場人物のなかでモデルを背負わないで自由に描かれたのは佐山であったというのも当然である。
 作者によれば、佐山という人物は「『風浪』以来今までぼくが考えてきたとらえかたってものは、何ていうの、未来ってものを考えている個人ってものが、結局未来ってことを考えることによって、自己を否定しなければならないという、そういうことがらの積み重ねにおいて歴史というものは進むのではないか、推し進められるものではないか」(「解説対談」『木下順二作品集Ⅳ』前掲書)という考え方の「原基形態」として出てきているという。ここでは、順二の歴史劇というものがどのようなものなのかということが佐山を通して語られている。そこで注意したいのは、『わが文学の原風景』(小学館・一九九四年)で触れている原「風浪」の執筆当時「自分というものを意識し出した」という記述である。その自覚が「ものを書く」(『わが文学の原風景』前掲書)という劇作家としての自覚につながり、さらには最後の書き直しの時には「歴史というものを意識することができた」という歴史認識の萌芽に触れた「歴史について」(『労働運動史研究』一九六三)の記述に発展することになるからである。つまり、これら一連の発言や文章は、多年にわたる「風浪」執筆期間が劇作家の誕生をうながし、木下戯曲の特色である歴史劇の「自己否定によるドラマの創造」というものの端緒を把握するまでになったということを窺い知ることができる。こういう意味で、「風浪」は歴史劇の原点をなすものであることはいうまでもなく、木下文学のすべての起点をなすものであるといえる。


     四 歴史のパラドックス


 ところで、この木下の歴史観ともドラマ観ともいうべきものを捉えるために参考となるのが石光真清の父のことを「生活に根ざした」人間として評価している「『城下の人』の思想」(前掲書 )という文章である。この人物評は、「風浪」の登場人物にも言えることである。
  河瀬 なぜ、て、大百姓はゆとりのあるけん相場の上がった所で手持ちば売る事が出来うが? 小百姓はやっと上納の時に今とれた米ば売らにやならんばってん、そン時は誰も一せいに売る時だけん米の値は下ってしまう。そして水呑になってみッと、水呑が旦那さんへの徳米だけは米で納むるけん、昔とおんなじ、これも自分がかつかつ食うだけも残るりやせん。どっちば見たッちゃ、肥ゆる一方、痩する方は痩する一方たい。
という言葉や、
  藤島 われわれ同志二百、九分がた迄ァみんな微禄者たい。それも、禄はもう召し上げられて、ちっとばかり賜わった奉還金ももう残っちゃおらず、中にゃ膝隠しの板屏風の陰でそっと房楊子ば削りよる者もおる。提灯の輪曲げばしよる者もおる。俺のうちも……俺ァ……貴公はきょう何しに釣りに来とッとか知らんが、俺ァ、小野も、ここに今晩の晩飯ば釣りに来とッとぞ。ここで釣れんなら、俺達ァ今夜は飯抜きで寝にゃならんとぞ。
という言葉に見てとれる登場人物たちの行動の原点が「生活に根ざした」ところから出ている。もっとも、河瀬の場合下から汲み取ったものの先見の明があり、藤島の場合下からの切羽詰まったものの逆行があるという違いがある。しかしこの違いを乗り越えて、この「生活に根ざした」生活者の視点こそが「風浪」という作品の魅力となっている。「人間が創造の中に参加している、しかし同時にその中で非常に多くの無駄と犠牲が払われてゆく、そういう両方からの関係として、歴史――具体的には近代の歴史、もっと具体的には後進国としての日本の近代化の歴史、それが必然的に含んでいる矛盾、二重構造、それをわれわれはどのように感じどのようにそれとあい対していったらいいのか」という文章(「歴史について」前掲書)は、〈無駄〉と〈犠牲〉を抜きにしては歴史の創造はありえないという考え方を示している。この考え方の何より大切なことは、歴史の進歩が孕むマイナス面を視野に入れて歴史を眺めているということである。この歴史のマイナス面への注視は、「生活に根ざした」生活者の視点から生み出されているといわなければならない。
 この歴史観を謎の多い佐山の行動に当てはめて考えると、佐山の行為こそが〈明治の熊本〉が抱え込んでいた歴史のマイナス面を代弁するものであった。西郷軍に身を投じるという反動的ですらある佐山の行動の〈無駄〉、あるいは〈犠牲〉によってこそ、〈明治の熊本〉は日本の歴史の一断面を示すことになる。
 第四幕で神風連の乱に加担しようとしたはずの佐山が神風連の乱に参加している藤島に対してその挙兵の無謀さを指摘したとき、その指摘は藤島に対してというより、自分自身に対してという感じが強い。原形「風浪」では題名(注6)が「敬神党」であり、その内容はその敬神党の無謀さを描いた作品だという。ここに、原形「風浪」から流れている「風浪」の一主題があると思うのだが、敬神党の無謀さからいかに抜け出せるかという問題の解決が佐山の藤島を切るという行為であったと言ったら言い過ぎであろうか。
   主人公は(たぶん)死ぬ。模索しぬいた 結果かれは、ついに反動的な西郷軍に身を投じる。そのような道を選ぶより、自分にとって生きる道はないとかれには見えたからである。(中略)死ぬ、という行為はこのように私の作品の中で、あるときは抵抗であり、あるときは『生きるための』死であった。(中略)自分が直接犯したことは ないにもかかわらず、歴史的な負い目として自分が負わねばならない責任――せんじ詰めれば、そういう責任を生きていたのではとうてい負い切れぬということになる。責任を回避せずに未来を切りひらいて行く ためには、私たちは死ぬよりほかないではないか。/だから私たちが現実に死ぬ、ということがまったくナンセンスであるかわりに、劇中の人物は、そういう私たちに代わって死んでくれることができる(『アカハタ』・一九六三年十一月三日)
 佐山と藤島の関係で最も指摘すべきは、河瀬の言葉として「あの二人ァ子供の時からの……ひと頃は心ば許し合うとった仲ですけんな」とあるような設定になっていることである。佐山にとって藤島は自分の分身といえる存在で、そういう存在であるがゆえに、そういう藤島を切るということは、自分にとっては〈生きるための死〉であり、藤島に対しては〈代わって死んでくれる〉ものである。佐山は藤島のそういう身代わりとしての死によって、自分の生をつかんだのである。佐山の生そのものがいかに〈生きる〉べきかという「風浪」自身の解答でもあった。
 佐山 うん、光也ば斬った。はっと思うた時ァもう斬っとった。とり返しのつかん事ばしてしもうた、俺ァ。……ばってん、その時俺ァ思うた。これでやっと道の開けた……
 この台詞の意味は極めて重要である。この「道の開けた」という一言は、藤島を切るという行動を通して初めて、佐山が行動家に脱皮を遂げたことを示している。そればかりか、どちらかといえば非行動的なインテリの悪弊を抱え込んでいる佐山が思索家から抜け出して、歴史に参加するダナミックな行為者になったことを意味している。西郷軍に参加することは作者みずからも認めているように歴史の流れに逆行することであるが、行為者としての佐山からみると、「自分が正しいと思うものを追求して行く行為が、結果としては自分を否定する行為でしかない」(「序章」『ドラマとの対話』一九六八年)という意味での自己否定であるならば、歴史の〈負い目〉〈犠牲〉の只中に赴くことで、歴史に寄与するという逆説を歩むことになる。
いずれにせよ。佐山の存在こそは、この歴史のパラドックスの〈原基形態〉を示しているのである。順二が「風浪」を視野に入れつつも、「進歩的なものはますます進歩的であらねばならないが、それがつねに否定されることによって新しく進歩的なものをその中に作り出してくるということを内在させて問題をとらえなければ、戦後の現代というものはつかめない、というより、戦後の現代をつくりだすことができないと考えます。ただしこれだけだと否定のための否定のように誤解されるかも知れない。そこで『主体』の問題をもっと考えなければいけないのですが」と述べた「歴史について」(前掲書)という文章は、一九六八年の『ドラマとの対話』に結実することになる「自己否定によるドラマの創造」という順二独自のドラマ論の芽生えを感じさせる点で興味深い。歴史の進歩に対する絶えざる否定によってもたらされる〈『主体』の問題〉に言及し、〈主体〉の創造の問題を含んでいるこの文章を踏まえて言うと、この歴史のパラドックスの〈原基形態〉を佐山の行為に見ることによって、まさしく〈主体〉の問題がおのずから浮かび上がってくる。


    五 自己否定による〈主体〉の創造


 順二自身が「西洋化ってことが熊本の場合には相対的に意義があった。学校党が旧藩時代を維持する。一方で右翼の神風連があるのに対して、横井小楠の実学党は、ジェインズの西洋至上主義といっていいかどうか そういう考え方でことを進める意味があった」(『ジェーンズとハーン記念講演』前掲書)と熊本の人物関係を手際よく語っていることを参考にして言えば、〈西洋化〉を軸にして、実学党・敬神党は左右両極の存在として相対恃していることになる。歴史の事実からみると、実学党はその中間に当たり、むしろ敬神党と相対峙しているのは洋学校というべきであるが、しかしそれぞれ大なり小なり対立関係があったなかで、「“薩長土肥(=肥前)“に日本明治維新の主導権を握られた肥後として、“第二の維新”を自分たちの手でという、どういう意味かでナショナルな意識を底に持った動きであった。肥後人としての意識の限りで、それは反対の極に位置した神風連にも共通するものだったといえる。またそういう意味でこの意識は、熊本バンドの性格にも微妙な影を落しているといえる」(『熊本洋学校と札幌農学校』朝日新聞・一九七二・六・二六)と述べているように、〈自分たちの手〉という意識それこそが〈第二の維新〉という大義に邁進する青春群像の〈主体〉の有り様を表していた。
 このような青春群像のさなかにあって、佐山は佐山で変節漢と罵倒されながらも、学校党を起点として敬神党・実学党・洋学校と右から左へ渡り歩き、民権党にも接近する。そしてついには西郷軍に身を投じるかたちで歴史のパラドックスを体現しようとするその姿に、佐山自身の〈主体〉創造の有り様も見えてくる。奇妙な言い方だが、佐山健次の場合、〈主体〉を創造しようとするがゆえに〈迷う〉ように見えながら、〈迷う〉ことによって〈主体〉の創造を拒んでいると言ったらよいであろうか。反動的な西郷軍への参加という〈迷う〉ことからの脱出が全き意味での〈主体〉の創造といえるかどうかの問題が残るにしても、佐山は安易な〈主体〉創造に走るのではなく、一処に留まろうとする〈主体〉を否定することによって、より高次な〈主体〉創造に赴こうとする、言わば螺旋的〈主体〉創造の象徴的な人物であるということができる。こう考えなければ、順二のいう「自己否定による〈主体〉の創造」という問題の意味は把握できない。この問題の根幹をなすものは停滞を嫌い、固定化を否定する、まさに〈迷う〉ことを是とする精神である。ここに順二の〈主体〉創造論のユニークさがある。
 従って、このような佐山の〈迷う〉軌跡を「学生劇団の仲間と妙義山や砂川の基地闘争に加わるうちに、キリスト教に代わる行動基準を自分のなかに見出したと信じきっていたぼくに、迷うことの意味を教えてくれたのが『風浪』の佐山建次だった」(内山鶉「木下・宇野コンビのもとで」月報十一『木下順二集2』岩波書店・一九八八・十一)と指摘する評が存在するのも当然である。この内山鶉が〈迷う〉ことそれ自体に「風浪」の価値を見出していることは注目すべきである。もちろん「私が感動したのは、彼がまよっている、つまり行動の方向を見いだせずにいることにたいしてではなく、そうした状況にもかかわらず、なおもそれを乗りこえて行動しよう、行動の方向を見いだそうとしているその姿にたいしてである」(「『戦後』の終焉」はる書房・一九九一・九)という村山也寸志の踏み込んだ論があるとはいえ、「迷うことが恥とされる雰囲気のなかで、『そこから先はぼくにはわからない』といえることが正当な権利だとさえ思えるようになった」(前掲書)という内山鶉の文章は、〈迷う〉ことに対する率直な感動が告白されているだけに、〈主体〉の有り処に苦悩した「風浪」発表当時の時代状況を如実に物語っている。「風浪」はまさしく時代の刻印が鮮やかに刻み込まれている作品だと言える。


    終わりに


 順二は一九九五年五月三〇日・三一日の両日にわたる熊本公演に際して、熊本公演パンフレットのなかで、「昨年東京で、五つの劇団合同の形で、今度の熊本公演と同じく広渡常敏演出で上演した。それを私は、(なにしろ半世紀前の作品だ)自分のものともひとのものとも分からない気分で観て意外におもしろかったが、それはこの作品が、案外ルカーチのいう"前史"になっていたからかも知れないと、私は自慢していいのかも知れない。/ルカーチというのは一九七一年に死んだハンガリーの優秀な文芸評論家だが、彼は"すぐれた歴史文学は、過去を現在の直接の前史として蘇らせるものだ"といっている」(「『風浪』熊本公演へ」)と述べ、自作品に対して自信のほどをのぞかせているが、「専門劇団の場合は一切承諾しなかった。書き終えてすぐから、ドラマのとらえ方についての自己批判がこの作品にあったからであり、その点は今も変わらない」(「あとがき」前掲書)という自己批判の文章(注7)を知っているものにとって奇異な感じがする。この自作に対する全く正反対な評価を下した意味は、絶対的価値であったイデオロギーの終焉とその後に訪れた価値の多様化という現在の状況を抜きにしては考えられない。特にこの〈前史〉という言葉に注目するならば、「風浪」発表当時内山鶉を始として多くのものが〈行動基準〉を見出そうとして、あるものは政治に、あるものは宗教に走った歴史をかんがみて、ポスト・モダン以後の思想への懐疑、ないし思想混迷のなかでそれぞれの〈主体〉の有り様を模索するに至った現在の状況を踏まえて吐露された言葉である。つまり、「風浪」は時代を先取りした、いわゆる〈前史〉的な作品だという作者の自負を窺い知ることのできる言葉である。
 「風浪」の佐山健次の問題は現在のわれわれの問題である。


注1 次の家系図を見ると、竹崎順子・徳富蘆花・徳富蘇峰・ひいては横井小南も木下順二に連なる親族であることがわかるだろう。
注2 この文献は竹崎茶堂について詳しく述べられているものの、木下順二氏自身に確認したところ、参考にしていないということである。
注3 『風浪』の〈自己批判〉は、「『風浪』というのは、歴史の流れを並列的にとらまれたとらえ方で書かれているというのが、自己批判です」(「《座談会》歴史と文学」・『文学』一九五六年六月号)と語っているのを代表として、「一つの歴史的事実、それは自然的事実ということばでおきかえてもいいですけれども、それらが進行していくのを、こちらが戯曲の形で描くという形式になっているという意味で、いいかえれば、僕は絵巻物的だ。並列的っていうような、そういうふうにもいえる」「解説対談」(「木下順二作品集Ⅵ」・未来社・一九六二)と語っているように、〈歴史の流れ〉に倚りかかって描いたという点にある。
注4 『図説・熊本・わが町』(熊日出版局・昭和六三年)の「明治六年熊本市街図」と参考に掲げて置く。なお、南西に「祇園山」とあるのが現在の「花岡山」である。
注5 「風浪」の稿の数え方には論者によって混乱があるが、順二自身の「解説対談」(「木下順二作品集Ⅵ」前掲書)によれば、「『風浪』の第一稿(『人間』に発表し、未来社から刊行した)を相当書き改めて今度の上演台本(第二稿)をつくった」とあり、第二稿は〈上演台本〉であって、その存在は確認できない。
注6 「初稿の『風浪』は、「神風連」という名の書きかけの原稿だった」(岡倉士朗「あとがき」ぶどうの会公演パンフ『素顔』復刊6号・一九五三・十二)
注7 次は「ぶどうの会第5回公演パンフレット」(一九五三年一〇月)のなかの文章である。
ぼくはぼく自身の改作に決して満足していない。この戯曲は、ぼくにとってはっきりと不満なのである。けれどもそれは、「改作」ということではもうどうにもならない不満なのだ。全く新しい作品を書くことによってでなければどうにも解決できない不満なのである。
注5で触れたように、この改作した公演台本が決定稿とされる第三稿につながるものであるなら、決定稿においてさえ、「風浪」に対する自己批判は訂正されることはなかったということができる。

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三島由紀夫と〈熊本〉  ―「奔馬」をもとにして―

1996年03月01日 00時00分00秒 | 論文

三島由紀夫と〈熊本〉  ―「奔馬」をもとにして―
初出 『熊本の文学 第三』熊本近代文学研究会編 審美社 1996年03月

    一 三島由紀夫と「奔馬」

 「奔馬」は、昭和四十二年二月号から翌年八月号にかけて分載された後、昭和四十二年二月に新潮社から刊行された小説である。連作長編小説『豊饒の海』四部作のうちの第二巻にあたる。寺田透氏が『豊饒の海』論(『文芸』昭47・8) のなかで、この「奔馬」を〈優作〉と認め、主人公勲は作者が作者の外界に胚種をとらえ成長させてもう一人の自己となしえたという理由で「気持ちがわるい位感染力に富んだ、強い表現力ゆえに、嫌悪を覚えつつも傑作と言う他ない作品」と評したのはつとに有名である。
 「奔馬」を一口で言えば、〈神風連史話〉に傾倒する主人公飯沼勲が昭和の神風連を標榜しながら昭和維新を企て、その挫折ののちに海に臨んで割腹自殺をする物語である。第四十章からなる「奔馬」には第9章がそっくりそのまま山尾綱紀著「神風連史話」という小冊子の掲載に使われている。この「奔馬」の基本的モチーフとも言うべき「神風連史話」については、寺田氏はまた、「奔馬」という作品の不可解な点を三つ挙げていて、その第一に〈神風連史話〉が三島たちの昭和四十五年十一月二十五日の行動の完全な予告であることの意味は何かと述べている。そして、松本鶴雄氏は、それを踏まえた考えのもとでの「三島由紀夫作品論事典](「三島由紀夫とは何であったか」『国文学』学燈社・昭56年7月号) の「奔馬」の項で、「特に〈神風連史話〉は第二巻の十分の一の量を占め、単なる小説効果にとどまらない。この史話が、死と結びついた時のみ純粋は存在し、目的の成就か否かにかかわらず、あるのは〈死〉のみという勲の行動原理を生み、ひいては三島の精神構造とも相似形をなすことを考え合わせると、無視できない点であろう」と記している。寺田氏にしろ、松本氏にしろ、「奔馬」における〈神風連史話〉なるものに注目し、「奔馬」という作品そのものと三島由紀夫の自決との関連に言及していることで共通している。

    二 三島由紀夫と神風連

 三島由紀夫と神風連との関係についての論考では、大久保典夫氏が『編年体・評伝三島由紀夫』(『三島由紀夫必携』NO・19・学燈社) のなかで「三島由紀夫の諫死としての決起の主旨は、『檄』に端的に現れているが、三島が、近代的サラリーマンたる自衛隊員に向かって、ハンド・マイク一つ持たずに決起を呼びかけたのは、電線の下を通るとき頭上に扇子をかざしたというあの神風連の故事にならったのかも知れない。この無垢の純潔を嗤えようか」と書き、三島の生涯にわたる知己である村松剛氏が『三島由紀夫の世界』(新潮社・平2・9)のあとがきのなかでさえ「日本人としての魂をとりもどせと、市ヶ谷台上で三島は死を賭して訴えました。当面の問題としたのはアメリカ製の憲法であり敗戦後の社会でしたが、神風連的な心情がその根底に息づいていたことは、疑いを容れません」と述べていることに最も注目している。この指摘にうべなう気持ちがあるのは、三島自身が自決直前、古林尚氏との対談で「どろ臭い、暗い精神主義ぼくは、それが好きでしょうがない。うんとファナティックな、蒙昧主義的な、そういうものがとても好きなんです。それがぼくの中のディオニソスは、神風連につながり、西南の役につながり、萩の乱その他、あのへんの暗い蒙昧ともいうべき破滅衝動につながっているんです」(「いまにわかります」『図書新聞』・昭45・11・18)と告白して、神風連的な〈破滅衝動〉への志向を表明していること、また溯っては、昭和四十二年一月一日元旦の「年頭の迷い」と題する『読売新聞』の文章のなかで「西郷隆盛は五十歳で英雄として死んだし、この間熊本へ行って神風連を調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げた加屋霄堅(かやはるかた)が、私と同年で死んだという発見であった。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合うのだ」と書いて、加屋に同化しつつ〈英雄〉としての死への決意を確認していることと深く関連しているからである。つまり、これら本人自身の発言によっても、晩年の三島の自死に至る過程に神風連と関わりのあることが容易に予想できる。
 ところで、三島由紀夫の神風連への接近をより具体的に知ることのできるのは何よりも神風連の取材のために来熊した際の資料が有力な手掛かりとなるであろう。熊本滞在期間中の動静は荒木精之氏の著書や福島次郎氏の証言によってほぼ明らかである。特に、荒木氏の「三島由紀夫氏の神風連調査の旅」という文章(『初霜の記 三島由紀夫と神風連』日本談義社・昭46・11所収。以下、荒木氏に関わる文章はこの本からの引用である) が詳しく、神風連研究家ならではの指摘に富んでいる。おおむねその記述に譲るとするが、論述上特に触れて置かなければならない点を挙げてみる。荒木氏は三島が来熊前、神風連に関する著書をほとんど目にし、さらには神風連が信条としていた古神道を知るために三日間も大和の大三輪神社に参籠してやってきた事実はまだしも、「奔馬」の装幀には神風連の加屋霄堅の漢詩が真筆そのまま複写されているを知って、それが極めて入手困難な神風連関係の遺墨であっただけに三島の熱の入れように驚いている。実際の対話のなかでも、現代の神風連を書きたいという三島の熱い息吹きが感じられたというし、「奔馬」の作品に出てくる<神風連史話>の新開皇大神宮の拝殿の様子や金峯山の山頂にある蔵王権現、そこから眺められる熊本の情景などの描写にしても、直接見聞して感銘したものでなければ書けない瑞々しい文章であるというのである。このようなことからもわかるように、三島の神風連への傾倒ぶりは荒木氏のような専門家の目で見ても尋常でないものであったようである。
 それはそれとして、神風連取材の旅が確かに三島由紀夫にとって感銘深いものであったことはまちがいない。それを物語っているのは、三島由紀夫の荒木精之氏宛の熊本取材に対する感謝の書簡であって、「短い滞在のあひだに、神風連の核心に触れ、神風連の事跡を肌に感じるやうに感じることができたのは全く荒木様のお蔭であると存じ、もし荒木様の御指導を受ける機会に恵まれなければ、永久に堂々めぐりをしてゐたにちがひあるまいと思ふと、しみじみ身の幸運を感じます。」と述べていることである。神風連の<核心>に触れた<身の幸運>を語っていさかかオーバーな身振りが感じられるこの手紙が端なる社交辞令を越えて本心を述べているのだとわかるのは、先程の『読売新聞』の「この間熊本へ行って感動したことは」云々の本人の弁や清水文雄氏の「故三島由紀夫が四十一年夏、小説『奔馬』の取材のため熊本に赴き、荒木さんの指導によって、神風連に開眼した喜びを、彼から直接聞いたことも、今思い出します」という随筆『続・河の音』(「王朝文学の会」昭57・4 )の文章からも確認できる。このように、熊本での取材が三島にとって神風連への〈開眼〉をもたらしたものであったことは注目されていい。
 従って、ここで確認したいのは、神風連の<核心>に触れた幸運にしても、〈開眼〉した喜びにしても、その幸運やその喜びの延長線上において、「奔馬」という作品が生み出され、三島自身の自死に繋がって行ったということである。

    三 三島由紀夫と蓮田善明

 一八七六年の明治政府に対する熊本の復古的攘夷主義的な士族反乱をふつう『神風連の乱』と呼称している。神風連の乱そのものについては、「奔馬」において〈神風連史話〉を読んだ本田の感想のなかの「今まで神がかりの不平士族の叛乱としか考えていなかったあの事件」という記述のような見方が一般的である。神風連の郷土史家でもある荒木精之氏が「神風連は長い間殆んど誤解の中にあった。この純烈な国学者たちが死を以て明らかにしようとした悲懐はかへりみられれること少なく、久しくうづもれてゐた」と慨嘆していることも、或いは神風連を初めて総合的に捉えたと橋川文三氏に讃えられた『神風連とその時代』(葦書房・昭52・30)の著者渡辺京二氏にしても、「神風連という呼称が一種の滑稽感をともないながら世俗的に流布されているわりに、学者と呼ばれるような人びとの間で研究らしい研究がほとんど行なわれていない」と述べていることからもその一端が理解できると思うのだが、神風連の存在が反時代的で、しかも熊本という一地方で起こった事件であるがゆえにかえって無視されてきたといってよい。従って、東京という中心都市出身者である三島由紀夫がほとんどと言っていいほど知られていない神風連の存在をどうして知ったのかということこそ、むしろ問題にすべきなのかも知れない。
 今ここに、昭和一七年十一月一日発行の『文芸文化』(第三巻第十一号) という雑誌を手にしている。その中には蓮田善明の「神風連のこころ」と題する森本忠氏の同題の書評が掲載されている。そこで驚くべきなのは、その文章の直前部分に、平岡公威こと、三島由紀夫の「伊勢物語のこと」と題した文章があることである。このときの『文芸文化』が若い日の三島にとって〈神風連〉の存在に初めて接する機会を与えてくれることになった雑誌であろうことは充分想像される。例えば、蓮田善明が「『電線の下ば通る時や、かう扇ばぱつと頭の上に広げて    。』と話されたのも石原先生ではなかつたらうか」と書いている神風連の故事は、極めて神風連の特色を示しているだけに初めて知るものの記憶に残るだろうし、しかも「私にはこの話がずつと、非常に清らかな、そして絶対動かせない或るものを、今日まで私に指し示すものになつてゐる」と述べているからには、ましてや私淑している蓮田の文章であるならば、若き日の三島の脳裏に印象鮮やかに映ったにちがいない。むろん、その当時から確実に記憶の底に残していたといえないまでも、記憶の片隅に留め置かれていたであろう。そう考えるのは、三島が決起の折にハンド・マイクという文明の利器を使わなかったのは神風連の故事にならったものだという既出の大久保氏の指摘は言うに及ばず、三島が神風連を理解する際の基本線は蓮田の文章から取り入れているように思われるからである。羅列的に示すと、蓮田善明の、
   〈神風連は唯だたましひの事だけを純粋に、非常に熱心に思いつゞけたのである。日本人が信じ、大事にし守り伝へなければならないものだけを、この上なく考へ詰めたのである〉 〈かういふ精純な「攘夷」とは、日本の無比の歴史を受け、守り、伝へる心なのだ〉
 〈神風連は実際は敵らしい敵を与へられてゐないともいえる。にも拘らず彼等は何が敵であるかをはつきり知つてゐた〉
 〈彼等は自ら討つべきものを討つたことに殉じて死ななければならないことも、彼等は知つてゐた〉
という神風連の捉え方は、三島が熊本での神風連取材を前にして林房雄との対談『対話 日本人論』(番町書房・昭41・10) で語った
 「僕はこの熊本敬神党、世間では神風連と言っていますが、(中略)彼らがやろうとしたことはいったいなにかと言えば、結局やせても枯れても、純日本以外のものはなんにもやらないということ」
 「食うものから着物からなにからかにまでいっさい西洋のものはうけつけない。それが失敗したら死ぬだけなんです。失敗するのにきまっているのですがね。僕はある一定数の人間が、そういうことを考えて行動したということに、非常に感動するのです」
 「神風連というものは、目的のために手段を選ばないのではなくて、手段イコール目的、目的イコール手段、みんな神意のまにまにだから、あらゆる政治運動における目的、手段のあいだの乖離というのはあり得ない。それは芸術における内容と形式と同じですね。僕は、日本精神というもののいちばん原質的な、ある意味でいちばんファナティックな純粋実験はここだったと思うのです」
という言葉の端々から理解される神風連の捉え方とは、その純潔日本主義的な観念といい、行動の直截的な把握の仕方といい、或いは特に注目すべき死への潔い覚悟、つまり「目的の成就か否かにかかわらず、あるのは〈死〉のみという行動原理」(松本鶴雄)といい、あまり径庭を感じさせることなく、むしろ蓮田の考えを敷衍させているかのように思われるからである。これはもちろん、昭和の神風連たらんとする「奔馬」の飯沼勲の思考と行動とに通じていることはいうまでもない。
 それにしても、なぜ<戦前に日本浪曼派周辺にいた三島が、戦後二十近くたってから神風連に興味を示しはじめたのか>(松本健一)という疑問を待つまでもなく、晩年の三島にとって神風連の事跡がクローズアップしてくる不思議さは隠せない。その問いに答えることのできる鍵はまたしても蓮田善明の存在であり、彼を抜きにしては考えられないと言わなければならない。だが、正確に言えば小高根二郎氏の労作『蓮田善明とその死』(筑摩書房・昭45・3。のちに改刊、島津書房・54・8)という書物である。
     雷が遠いとき、窓を射る稲妻の光と、雷鳴との間には、思はぬ永い時間がある。私の場合には二十年があつた。そして在世の蓮田氏は、私には何やら目をつぶす紫の閃光として現はれて消え、二十数年後に、本著のみちびきによつて、はじめて手ごたへのある、腹に響くなつかしい雷鳴が、野の豊饒を約束しつつ、轟いて来たのであつた。
 これは、その『蓮田善明とその死』の序文に記した三島由紀夫の文章からの抜粋である。この巧みな比喩によって、蓮田善明に対して抱いている晩年の気持ちが浮き彫りにされている点で見るべきものがある。三島が自決一年前、『蓮田善明とその死』の完結にあたり小高根二郎氏に宛てた手紙(『蓮田善明とその死』跋) で「この御作品のおかげで、戦後二十数年を隔てて、蓮田氏と小生との結縁が確かめられ固められた気がいたしました」と直截的に書いていることからも、学習院在学中の恩師清水文雄氏の推挽によって「花ざかりの森」を発表したのをきっかけにして生まれた蓮田善明との黙契(小高根氏)とも呼ばれる<結縁>の深さを改めて確認していることが窺える。これもまた、三島はその自決一年前、昭和四十四年十一月の下旬、東京荻窪の普茶料理屋で催された<蓮田善明二十五回忌>の会に参加している。しかも、そこに居合わせた神谷忠孝氏から「日本浪漫派を保田与重郎中心だけで考察するのは片手落ちで、死の美学を説きながら生き延びた保田与重郎と死んだ蓮田善明の両方を視野に入れるべきだ」と話しかけられたとき、「三島由紀夫がきらりと光る眼で私を招き、盃に酒をついでくれながら、私の意見に賛成してくれた」という逸話(島津書房刊『蓮田善明全集』発刊に際しての宣伝用パンフレット) や、自決の八ヶ月前、三月に会った村松剛氏に「蓮田善明は、おれに日本のあとをたのむといって出征したんだよ」としんみりとした口調で言ったという事実(前掲)に至っては、晩年の三島が蓮田の存在を重く意識していたことを示すものである。が、ここでは、やはり三島由紀夫にとって蓮田の存在が立ち現れてくるのはこの晩年に近い頃だということを指摘するだけで事足りる。そのきっかけを与えたものが小高根二郎氏著『蓮田善明とその死』であり、そして蓮田の存在とともに記憶の底に眠らされていた神風連の存在を思い起こしたのである。とすれば、このことは、「奔馬」の「創作ノート」(昭三十九~) における北一輝の息子(大輝)から「奔馬」における神風連に心酔する飯沼勲へと主人公が変更された謎をも解き明かしてくれるものである。なぜなら、それは晩年の三島において蓮田の存在が大きく立ちはだかってきたことによって、神風連の存在が俄かに浮かび上がり、突然「奔馬」のモチーフに取って変わったことを意味するからである。
 さらに言えば、先程の小高根二郎氏宛の手紙には「御文章を通じて蓮田氏の声が小生に語りかけて来ました。蓮田氏と同年にいたり、なほべんべんと生きてゐるのが恥かしくなりました。……今では小生は、嘘もかくしもなく、蓮田氏の立派な最期を羨むほかに、なす術を知りません」という文章があるが、これなどは敗戦の三日後、上官を射殺して〈日本の捨て石になる〉決意でなされた蓮田善明の自決と三島由紀夫のそれとの関連を類推したい誘惑に駆られる。蓮田の三島の自死への影響については、三島本人の叙述以外では端的に触れているものが多く、例えば、清水文雄氏は〈三島由紀夫の追悼の集い〉(詳しくは荒木精之氏の著書参照)で蓮田が三島の「晩年の思想と行動に深い影響を与えた」と指摘していることもさることながら、松本徹氏は「蓮田は、少年期と晩年の三島にとって、優しい父親の役割を果した」と述べ、ここでも「三島は、蓮田に従い、死によって『文化を創る人間』になる覚悟を決めていた」という結論に達しているのは、三島の<少年期>と<晩年期>における蓮田善明の存在や三島の自決と蓮田のそれとの関連という点で触れて置かなければならない文献(「日本浪曼派と戦後」『解釈と鑑賞』昭54・1)である。しかし、特に強調して置きたいのは、小高根著『蓮田善明とその死』という本によって「蓮田の自死を知り、その後、戦後社会を人気作家として生きてしまった自分を、再び蓮田によって悟らされたとき、三島は死への道を急いだのであろう」(「三島由紀夫と日本浪曼派」『国文学』平4・4月号)と述べる越次倶子氏を代表として、「あの事件の日まで、彼が、肌身はなさず愛読していた『蓮田善明とその死』がしめす意味や、『コギト』や『日本浪曼派』の同人で、三島由紀夫を遠くから見つめていた伊藤佐喜雄の言葉、『三島由紀夫は、蓮田善明に倣いたいと希った。その事実の闡明が『南方ジョホールバルでの蓮田さんのはげしい行動と死コギト』の小高根二郎によってなされたとき、三島君は自分自身の行動と死を決定したにちがいない』」に三島の死の謎を解く鍵がある(『資料三島由紀夫』朝文社・一九八九・六) とする福島鑄郎氏などの記述が増えてきているのは、三島の自死にとって『蓮田善明とその死』という本、直接的にはそこに描かれた自決に至る蓮田善明の姿がいかに重要な関わりをもつものであるかに気付いているものの言であるということである。
 以上のことから、三島由紀夫が蓮田を意識し始めるのは蓮田の自決を描いた『蓮田善明とその死』の連載を目にしてからであって、その過程で蓮田善明によって知らされた神風連の自決の群像が甦ってきて、「奔馬」の素材を提供したのみならず、蓮田と神風連の自死の姿が三島の理想とする自裁の雛型の役目を担ったといえる。

    四 三島由紀夫と熊本

 これまで縷々と説明してきたのは、多くとは言えないまでもすでに触れられてきているが、それとて、三島と「奔馬」・三島と神風連・三島と蓮田善明といったぐあいに個別的であったり、三島とこの三者との関係などは論じられていなかったりで、また、個別的にせよ、論じられたもののほとんどが具体的例証に乏しく、思い付きの範囲を出ないものが多かったためである。
 それではここで煩をいとわず、三島と「奔馬」・三島と神風連・三島と蓮田、或いは三島とこの三者の関係を整理して述べてみたい。三島由紀夫と神風連との間に介在したという点では蓮田善明の存在は大きく、三島はその蓮田を偲びながら神風連をモチーフとした「奔馬」を書き上げた。そして、特に三島の自死に焦点を当てれば、神風連・蓮田・「奔馬]そのものが関係し合いながら取り囲み、三島由紀夫はそれらの自死の系譜に添うかたちで自刃して果てたということになろう。
 このように、三島において極めて重要な意味を持つ神風連・蓮田善明が育まれたということによって、熊本の地が特別な価値を持つようになってくるのは当然であろう。この間の事情を物語るものに荒木精之氏宛の礼状であって、この手紙では「しかし熊本を訪れ、神風連を調べる、といふこと以上に、小生にとつて予期せぬ効果は、日本人としての小生の故郷を発見したといふ思ひでした」と書き、神風連取材の旅が単に素材を得たにとどまらず、三島由紀夫という作家自身の心の故郷=思想の核を確認したといわんばかりの筆致である。そして、「一族に熊本出身の人間がゐないにも不拘 今度、ひたすら、神風連の遺風を慕つて訪れた熊本の地は、小生の心の故郷になりました。日本及び日本人が、まだ生きてゐる土地として感じられました」とより直接的に<熊本の地>が<心の故郷>であることを強調し、「神風連は小生の精神史に一つの変革を齎らしたやうであります」とまで言い切っている。これが礼儀上の言葉でなく、偽らない心情の告白と受け取ってよいことは、すでに明らかである。あえて言えば、現在流布している最も近親者である瑶子夫人が夫を自殺に導いた理由で熊本県人を嫌っているという話は、ことの真意を別にすると、晩年の三島と熊本の関係を暗示しているといえまいか。
 さて、<熊本の地>が「心の故郷」「日本人としての故郷」であることを発見したことの意味は重い。それは、三島文学において<故郷回帰>という重要な問題を投げかけている。故郷喪失者とも言うべき都市出身者三島由紀夫が日本人として自分の故郷を確認したのは、保田与重郎が自分の生国大和奈良井の里を<日本の故郷>或いは<故郷としての風景>だとして回想し保持することに<日本への回帰>の一表現を見る思想と軌を一にするものである。従って、神谷忠孝氏が『日本浪曼派の本質』(「日本浪曼派の本質」『近代文学6』有斐閣双書昭52・10)の中で「日本浪曼派を形成する文学者のほとんどが地方農村の裕福な子弟であるということで共通している事は重視すべきであろう。(中略)<故郷>概念を個々の文学者において考察することで日本浪曼派の本質が見えてくる」という指摘は、今や三島における〈熊本〉の概念を考察することで三島文学の本質が見えてくるのではないかという示唆を与えてくれる。

     五 《剣の思想》

 昭和四十一年八月三十一日付の熊本日日新聞には「応接間」という欄に離熊直前の三島由紀夫の顔写真とともにインタビュー記事が掲載されている。すぐに気付くことは中央上段に「“日本人の神髄”を考えたい」と大文字で書いてあることである。この記事は興味深い内容を多く含んでいるが、ここでは本論に関係ある部分のみ抜粋してみたい。〈いま「新潮」に「春の雪」を書いているが、その第二巻「奔馬」に昭和の神風連ともいうべき青年が登場する。そこで荒木精之さんをたよって調べにきたのです〉〈「春の雪」の背景に神風連を出そうと考えたのは一年ぐらい前からです。ここで日本人の神髄は何かを考えてみたいのです。/いま日本に帰れとか、明治の日本人に帰れとかよく言われている。しかしどこに帰るか非常にあいまいだと思う。日本にはインドのガンジーの糸車に象徴される抵抗の精神はなぜなかったのか、いろいろ考えているうち、神風連がガンジーの糸車にあたることに思い至ったわけです。「英霊の声」や「二・二六事件」の精神の純粋なものは神風連のそれに通じているとみてもらってよいでしょう〉〈「春の雪」の第一巻は僕の以前の傾向と同じ作品だ。貴族のみやびやかな恋愛    そういうものが主題だが、第二巻では昭和七年の神風連ともいうべき青年が登場し、話は昭和七年と明治を行ったり戻ったりする。筋はつぶれてもこれだけは入れたいと思う。とにかくこの作品でいままでのものを集大成したいと考えています〉〈ますらおぶりの文学に志すようになったようだ。「剣」などもその一つと思う。それが広がってきたものだ〉と語っている。このインタビューで記者の質問の意図は予想できないが、「奔馬」の執筆動機が簡素ながらも明らかにされている点で貴重な資料である。

 この頃の三島由紀夫は熊日新聞の記事のなかでも「ここで“日本人の神髄は何かを考えてみたい」と語っているようにいわゆる『日本人』論を唱えようとしていたといえる。そのことは、来熊の数ヶ月前に行った林房雄との対談(前掲)のなかで、「僕はいまの、日本だ、日本人だと云い、ウイスキーを飲みながら、おれは日本人だ、自動車に乗りながら、おれは日本人だ、と云っている連中の観念のあいまいさ、それは林さんのおっしゃるように、総括的には立派な日本人ですよ。しかし一度、あいまいな日本精神とかなんとかを、ここでもってもう一度よくこれを振り返って欲しいのです。そういう意味で、僕は神風連を云うのですよ」と語っていることからも理解できる。もちろんこれには、明治百年祭がまぢかに迫ってきていた昭和四十一年頃の〈日本に帰れ、明治の日本人に帰れ〉と叫ばれた社会的な背景が影響していたことはまちがいない。それは一種の復古運動であったが、三島はその雰囲気のなかで〈インドのガンジーの糸車に象徴される抵抗の精神はなぜなかったのか〉という問題を日本人のアイデンティティとからめて真剣に考えようとしていたふしが窺える。その結果、〈神風連がガンジーの糸車にあたること〉を知るに及んで、ついに〈「英霊の声」や「二・二六事件」の精神の純粋なものは神風連のそれに日本通じている〉ことを悟ったというのである。つまり、いささか簡略的になるが、三島の「日本人」論とは、ガンジーの糸車+「英霊の声」・「二・二六事件」・神風連の精神的純粋性=日本人の抵抗の精神とはいかなるものかということである。ここで日本人の抵抗精神の問題が浮かび上がってくることになるのは意外なことのように思われる。しかし、思えば「英霊の声」や「二・二六事件」・「奔馬」はいずれも右翼的で復古的であるものの、体制批判的な人物たちの声や行動であることで類似している。従って、神風連調査の目的は日本人の純粋な抵抗精神とは何かを神風連の思想や行動を通して探ってみることにあったと言わなければならない。
 神風連が決起した原因が欧化主義の一環として発布された明治政府による廃刀令であったことは歴史的な事実である。が、その精神的な背景となると曖昧模糊としている。先程の渡辺京二氏の『神風連とその時代』によれば、神風連の志士たちにとって容認できなかったのは、〈帯刀被髪〉という風儀の問題であり、その風儀は政治的制度とは違って日本民族の精神に関わる問題を孕んでいるものだという特異な認識を持っていたということである。その認識を端的に言えば、「神風連が固執したのは、たとえば廃刀令ひとつとってもあきらかなように外形の問題であった。つまり彼らにとって外形とは精神とひき離せぬものであって、外形すなわち風儀を否定すれば精神はそのときただちに死ぬのであった」というものである。このような神風連の思想は〈日本刀〉を迫り来る欧化主義に対する抵抗の精神の拠り所にしたという点で、便宜上《剣の思想》と名付けて置きたい。
 「奔馬」においても、重要な場面で神風連の《剣の思想》との類縁を感じさせる箇所がある。例えば、剣道部の「合宿に参加しなかったのは、ただ竹刀に飽いたからである。竹刀の勝利があまり容易であることに飽き、竹刀が剣の単なる象徴にすぎぬことに飽き、又、竹刀が何ら『本物の危険』を伴わぬことに飽いたのである」という文章は、剣道においては自他とも認める主人公飯沼勲の関心が〈竹刀〉から本物の〈刀〉へと移行していく契機を表しているところであって、勲が本物の行動家・実践家へと突き進み、〈日本刀〉で自刃する最終場面に繋がっていく非常に重要なところである。或いはまた、飯沼勲が決起の成否の最大の決手である武器として「それよりも日本刀だ。どうしても二十本は揃えなくちゃ」と言っていることは、勲たちがいくら〈神風連の純粋〉に学ぼうとしたといっても、近代兵器で武装した軍隊に対して〈日本刀〉で戦うのは無謀極まりなく、時代錯誤もはなはだしい。しかし、「昭和の神風連」たらんとした飯沼勲は神風連と同じように〈日本刀〉を自らの純粋精神と引き離せないものと考えていたとしたらどうだろうか。つまり、三島が主人公に〈日本刀〉を掛け替えのないものとして扱わせているところに「奔馬」の中心思想もまた《剣の思想》であったことを明示している。従って、批評家としても一流であった三島由紀夫は、みずからの洞察力によって神風連の思想的根幹をなす《剣の思想》をを充分に把握し、「奔馬」という作品において具体的に展開してみせたといえる。そして、三島の自衛隊突入後みずから死んだのも、まさにその《剣の思想》に共鳴したことのはての出来事なのであろう。
 ところで、神風連取材のため来熊した三島由紀夫の《剣》にまつわる面白く、しかも注目すべきエピソードが数多い。荒木精之氏によれば、熊本にきた記念として古道具屋で日本刀を購入したと言ってそれを非常に喜んでいたというし、三島とほぼ三日間同行した福島次郎氏からも、やはり熊本の土産として刀の鍔とか剣道具の類するものばかりを買い、果てはホテル内で刀を盛んに振り回してみせたという証言を得ている。さらに興味深いのは、来熊三日目のこと、三島がふと思い出したように「せつかく熊本にきたので、町道場を紹介してくださいませんか」と言ったために、荒木氏が水前寺の龍驤館に案内していることである。正味三日間というわずかな日程のなかで貴重な時間をさこうとしていることや「せつかく」という言葉からも、三島が〈熊本〉と《剣》とを結び付けていたと考えるのはうがちすぎであろうか。なお、その道場の範士紫垣正治氏がのちに「こゝにはいく人となく剣道者がやつてきますが稽古も試合も形式だけ、それも二、三番とるともう終わりです。今日のやうに最後まで竹刀をにぎつて徹底的に相手になつてくれたのは三島氏がはじめてですよ」としきりに感嘆していたということも荒木氏の著書からであるが、この三島の龍驤館訪問は、《剣の思想》が今もなお熊本で息づいているかどうかを探る意図があったものと思われる。そうであったからこそ、三島がそのことを荒木氏宛の神風連調査に対する謝礼文に「龍驤館の清爽なる印象も、永く心を去らぬことと思ひます」と記しているのは端なる礼状にとどまらない極めて深い意味を持っていたといえる。三島由紀夫が神風連取材の旅を通して確認したのは、熊本がまさしく《剣の思想》をまっとうしている土地だということである。たとえそれが三島自身の認識の範囲内のことであろうとも、そう認識した上で〈熊本〉を「心の故郷」「日本人としての故郷」と規定していることは明らかである。
 このように、神谷氏の指摘に触発されて三島における「故郷」としての〈熊本〉の概念を考察してきた中で浮かび上がってきたのは、故郷回帰、或いは日本(浪曼)回帰とも言うべき晩年の三島由紀夫の脳裏には、日本人の純粋な抵抗精神の発露である《剣の思想》の重要性への認識があり、《剣の思想》を実践して果てる過程で、その思想の体現者としての神風連、その思想のまったき理解者としての蓮田善明の存在、そしてそれにもましてその両者の由縁の地としての〈熊本〉が大写しになっていたということである。
 三島由紀夫文学が海外で殊の外高い評価を得ていることは、この国際社会では日本が三島の作品を通して見られることである。もしそうであるならば、それは三島が精神の拠り所にした〈熊本〉とその《剣の思想》が注目されることでもあることを忘れてはならない。

註1 昭和四十五年十一月二十五日の三島由紀夫の衝撃的な割腹事件が確かに『奔馬』に注目させる要素はある。例えば、松本健一氏は三島の自決が『奔馬』の主人公飯沼勲と同じく「恋闕の論理」の結果だ(「恋闕者の論理」ユリイカ・昭51・10) とし、徳岡孝夫氏は三島の自刃が『奔馬』の勲の切腹して果てる場面との類似(「太陽と鉄」『国文学』昭61・7)を指摘しているのもその代表である。
註2 これまでにも、三島由紀夫の自裁事件以来、三島の処女作品とも言 うべき「花ざかりの森」が発表連載された雑誌『文芸文化』の文学運動、特にその中心的存在であった蓮田善明との関係が取り沙汰されては きていた。例えば、日本浪曼派の研究家で知られる大久保典夫氏は「三島由紀夫を日本浪曼派の影響下に文学的出発をしたと考えるのはかならずしも間違いではないが、日本浪曼派を保田与重郎の美学に代表させて考えれば、そこにはかなりの逕庭があるのであって、やはり三島 は『文芸文化』(昭一三・七創刊) の蓮田善明の直系と考えたほうがいい」( 日本文学研究叢書「日本浪曼派」有精堂・昭52) 述べ、これまで保田与重郎の影響が指摘されることが多かったなかで蓮田の存在を高く持ち上げた点では先 蹤となるものである。同じく日本浪曼派の研究家神谷忠孝氏は「蓮田善明の『鴎外の方法』(昭14・11、子文書房) における<戦死 にわれわれは芸術を見なければなばならない。戦死が詩であることを、はつきり知らなければならない>という文章も、その根底には死を賭けての変革の意志があることはたしかであり、三島由紀夫の自決の意味も蓮田善明の思想と関連されると説明可能である」(「日本浪曼派の本質」『近代文学6』有斐閣双書・昭52)と述べていることも、三島の自決の原因を解明するのに蓮田の思想を抜きにしては考えられないことを指摘している。しかし、そのことを端的に要約しているのは、三島由紀夫研究家の野口武彦氏の「どちらかといえば三島は、保田与重郎からよりも、(中略)蓮田善明 から、多くのものを受け取っている」とし、「三島の自死に至る行程に蓮 田が影を投げかけていることは、『氏の享年に近づくにつれ、氏の死が、その死の形が何を意味していたかが、突然啓示のやうに私の久しい迷蒙を照らし出した』(「序」小高根二郎『蓮田善明とその死』)という一節からも明らかである」と述べている文章(〈日本浪曼派〉「三島由紀夫事典」『三島由紀夫必携』NO19・学燈社) である。これらの論文からも、蓮田善明と晩年の三島との関係がかなり密接であったことが三島の自決を通して説明されている。このように論じられる傾向はこれからも増えこそすれ、減りはしないだろう。
註3 この話を松本健一氏は「蓮田善明 日本伝説」(『群像』昭12 ) の中で「 それがなあ、三島さんが亡くなられたあと、熊本のさる知り合いが三島さんの家にいったとですよ。すると、瑤子さんといわれましたか、三島さんの未亡人に、熊本の人は嫌いです、といわれたらしかですよ。/敏子さんはそう語って、哀しそうに目をしばたいた」と紹介して、「三島夫人は三島が蓮田善明の激烈なる自決の伝説をなぞるかたちで死ん だ、と明らかに思ったのである。(そして、蓮田敏子もそれを追認している。)」と述べている。「熊本のさる知り合い」とは熊本在住の作家福 島次郎氏のことである。この話は実は『熊本の文学 第二 』(審美社・一九八八・十一) の「蓮田善明」を執筆するのをきっかけに何度となく敏子さんを訪れたなかで紹介し、福島氏自身を伴った際にも本人自身からも話をしてもらった。それはその時私自身が蓮田と三島との関係を何とか確 かめたい気持ちが強かったためである。
註4 三島の《剣》との関係は、すでに劉建輝氏が「三島由紀夫語彙辞典」(「いま三島由紀夫を読む」」『国文学』昭61・7月号) の中で「剣」の部を要約して、「『武』の原理を代表するもので、『花』の対極に位置づけられ、常 に作中人物の行動を象徴する存在」であり、剣  行動  死という構図は 『憂国』から『剣』、さらに『奔馬』の主人公達それぞれに受け継がれていると述べている。この文章は特に『奔馬』の主人公飯沼勲の一連の行動哲学の見取図として参考になる。

 

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蓮田善明-「死」と「芸術」のはざまで- (死は文化である)(小説『有心』)(三島由紀夫)

1988年01月01日 00時00分00秒 | 論文

蓮田善明-「死」と「芸術」のはざまで-

初出  「うぶゐ」三九号  熊本市立必由館高校 2004・3

本稿は『熊本の文学 第二巻』(審美社、1988・11)と「有心」(熊本近代文学館報 第62号)の両本文を再構成し、加筆したものである。


      一 初めに
 戦後ながらくタブー視されてきた日本浪曼派に対する再評価の気運のなかで、日本浪曼派を考察するときのカテゴリーを、雑誌『日本浪曼派』に属した者たちにとどめず、もっと広くその周辺の雑誌『文芸文化』や『文芸世紀』の同人たちにまで拡大するのが一般的になってきている。そこに共通するのは、「昭和十年代の〈日本への回帰〉の文芸思潮を主導した流派、ないしは傾向そのもの」(大久保典夫)であろう。日本浪曼派(狭義には雑誌『日本浪曼派』)の文学運動は、いわゆる〈不安〉の時代といわれる昭和十年代の社会状況と深くかかわっており、「コップ」(プロレタリア文化連盟)への壊滅的弾圧後の不安と思想の混乱を背景とした知識人内部の危機意識克服のために鼓舞(こぶ)された浪曼精神の営みであって、それは一種の精神革命・文化闘争の趣きを持っていた。そこで、日本浪曼派の実質を文学作品の成果としてみた場合、小高根二郎氏のように、「この運動の主導者として保田与重郎の名を真ッ先に担ぎだすのが常識だが、戦後十五年の年月の濾過を経てみると、政治的或いはジャーナリスティックな浅(ママ)滓は洗い流され、結局、文学自体の骨だけになってみると、後に残るのは……評論の蓮田善明、小説の太宰治、詩では伊東静雄になってしまう」(「詩学」臨時増刊、昭36・9)と述べ、〈評論家〉としての蓮田善明を高く評価しつつ、」さらに『蓮田善明とその死』でその持論を積極的に展開しているのが特筆にあたいする。小高根氏はまた、「日本浪曼派とは何か」(「解釈と鑑賞」昭54・1)の中で、『日本浪曼派』の主導者保田与重郎と対応させるべきなのは、その同人として活躍した亀井勝一郎ではなく、むしろ『文芸文化』の中心人物蓮田善明であって、この両者がおのおの思想として探り当てた古典の文学者の系譜や運命の照応と交差にこそ日本浪曼派の正体が隠されているという注目すべき指摘を行っている。しかも、その論調の延長線の上に立って、蓮田善明を編集兼名義人として清水文雄・栗山理一・池田勉の広島文理大学出身者四人を同人とする月刊国文学雑誌『文芸文化』(創刊昭13.7~終刊昭19・8。全70冊)は、文芸雑誌『日本浪曼派』(創刊昭10・3~終刊昭13・8。全29冊)の亜流というものでなく、国文学雑誌というカテゴリーを越えて、実質的には日本浪曼派の主軸を形成していたとまで言い切っている。
二 略歴
蓮田善明は、明治三十七年七月二十八日、熊本県鹿本郡植木町一四金蓮(こんれん)寺に、住職慈善の三男として生まれる。地元の植木尋常小学校から県立中学校済々黌に進学すると、級友の丸山学(元熊本商科大学学長)等と回覧雑誌を作って、短歌・俳句・詩を発表し、文芸に親しむようになる。広島高等師範学校時代には、生涯の師斎藤清衛教授から強い感化を受け、国文学研究の指針を見出し、新たに校内会雑誌に評論を書き始める。岐阜二中学校・諏訪中学校の各校で教えたのち、昭和八年四月、広島文理科大学(現、広島大学)国語国文学科に再入学、研究紀要『国文学試論』を創刊して、池田勉の言葉(「文芸文化」創刊の辞)を借りれば、〈古典精神〉への信従・顕彰に努力する。それは、台中商業学校から成城高等学校に転任したとき、『文芸文化』を創刊することによって本格的な活動となる。このときからわずか五年ほどの間に刊行された著書は、『鴎外の方法』『予言と回想』『本居宣長』『鴨長明』『神韻の文学』『古事紀学抄』『忠誠心とみやび』『花のひもとき』などがあり、死後には『有心』『陣中日記・をらびうた』などがある。これらの著書はいずれも、蓮田が成城高校在職のまま二度にわたって〈応召のさなか、肉体と血汐で探り当てた〉(小高根)軍人にして文学者の思索の跡をとどめているものばかりである。
蓮田善明は、昭和二十年八月十九日、敗戦を中隊長(中尉)として迎えての四日後、応召先のマレー半島ジョホールバルの連隊本部玄関前で、かねてから背信の疑いをかけていた上官連隊長(大佐)を射殺し、その数分後に同じピストルを顳(こめかみ)に当てて自裁を遂げる。その時、痙攣(けいれん)する左手に握り締めていたものは、「日本のため、やむにやまれず、奸賊を斬り皇国日本の捨石となる」という文面の遺歌を書いた一枚の葉書だったといわれる。まさしく憂国の士としての自決だったといえよう。ただし、これが敗戦の動揺による偶発的な行為というよりも〈日本の捨石になる〉ことにいささかの躊躇(ちゅうちょ)もない自覚された行為であったことは『蓮田善明とその死』に詳しい。仮に蓮田の死があくまでも覚悟の行為であったとするならば、今日において蓮田の文学と思想とのかかわりで大変重要な意味を持ってくる。蓮田の知己者の中にも、死に至る過程に何らかの必然があるという捉え方をしたものがいる。まず、蓮田が常日頃尊敬してい、スラバヤで奇遇の機をえた佐藤春夫は、ある返信に「蓮田君としてはそれより外に方法もなかつた必然の行き方と小生は深い哀悼の感を持ちます」(「光耀」昭21・10)と書き、いち早く蓮田の自裁に同情を寄せている。次に、蓮田を師と仰ぐ三島由紀夫は、蓮田の死から十四年後、『蓮田善明とその死』を執筆を始めた小高根氏宛に「蓮田善明氏の自決に関する御一文(冒頭の第一章で『死の謎』と題して〈蓮田善明をとりめぐっていた謎〉に言及している=筆者註)を読み、感佩に堪ヘず、一筆御礼を申し述ベたくなりました。しかし小生としては、氏の思想がかかる行動に直結したことは、さして謎とは思へませぬ。それより、直結しなかつたら、そのはうがふしぎだと思ひます」(昭34・8)と述べ、蓮田の自死の必然性を強く訴えている。これは『私の遍歴時代』の中で「蓮田氏はのちに、敗戦と共に自決によつてその思想を貫き通した」と触れていることと同じく、蓮田の自決が思想上の完結であったとみている。このようにみるならば、蓮田の自裁はあたかも生の総体をたちどころに逆照射するに足る強烈な光源のようなものである。生の終焉(しゅうえん)におかれた光源が強烈な光芒で蓮田の全生涯を照射するとき、生の総体は照らし出された部分の起伏のみ鮮明に浮かび上がってくる。
     三 「有心」―純粋な生―
「有心」は、阿蘇の湯治場である宿に数日間宿泊したのち、阿蘇の火口を見るために登山を試み、火口の噴煙を目にしたところで終わる小説である。昭和十六年一月二十九日より一週間、阿蘇の中腹垂玉温泉に滞在した経験を踏まえている。
阿蘇の温泉に赴くのは、「現実と自分との二枚の像が一寸ずれてゐてぴつたりと密着しない感じ」、つまり現実との違和感を覚え、静養をすることによって「体を作り直」すためである。第一次応召で一年八カ月ぶりに帰還し、日本に上陸したとたんに、波止場で昏倒したという話からも類推できるが、〈死は文化だ〉と確認した戦場で培われた緊張の糸が内地の「もの倦い生活」によって断ち切られたことによる精神の変調だと考えられる。
 ともあれ、この現実と自分との〈ずれ〉をどのように修復するのかが「有心」の課題である。その課題を解決するのに、散歩することもままならない狭い崖の上の宿は格好の場所だったといわなければならない。「火鉢に寄りついて、鉄瓶を眺めてゐるよりほかはなかつた」ところでの思索はもちろん自己の内部と向き合うこととなるが、しかしこの小説の「自分」はむしろ外部をよく観察し、精緻に分析する。この科学者的な眼差しに捉えられた物は徐々に現実と自分の関係を明らかにしていく。その一つが「障子」である。障子というものが外界と内界を隔てるものでありながら、内外の均衡を微妙に保っていることに気付く。それは「無」という概念にあやうく達するもので、現実と自分との関係について一つのヒントを得ることとなる。もう一つが浴客達の裸である。いうまでもなく、「皮膚」は障子における内と外との変奏である。浴客達の発育した肉体が「技巧の及び難い、天の作品であり、最も生きてゐるもの」のは、「天から与へられたものを純粋にはたらかせてゐる」からである。肉体それ自身が「純粋な生」そのものを謳歌しているようにみえる。この内と外を巡る思索の深化を手助けしているのが手遊びのために持ち込んだ鴨長明の「方丈記」やリルケの「ロダン」である。「方丈記」における隠遁が外界と関係を意識的に絶つことで、また「ロダン」における観察が外界の実体を浮かび上がらせることで、「純粋な生」といったものが導き出される。障子にしても、裸にしても、内と外を超越したところにこの「純粋な生の充ち溢れる」世界が現出することの暗喩である。
要するに、「純粋な生」とは技巧を加えない、本然のままに生きる生を指す言葉である。「末梢的な感覚」におびやかされる〈都会〉から抜け出してこそ可能になる世界で、阿蘇という〈田舎〉にのみ見出される世界である。「有心」が〈田舎〉の発見というテーマを持った作品であることは注意していい。その〈田舎〉を体現しているのはあの若い女である。湯船の中で誰に気兼ねすることなく遊ぶこの娘はまことに天真爛漫という他はない。まもなくのこと、許婚の戦死の報を聞いて、誰憚ることなく嗚咽する娘の姿に、「不思議な調和」を感じるのはこの娘が「純粋な生」を生きることの手本を示してくれているからに他ならない。その泣声を聞いて、「布団を頭からかぶると、ぶるぶるふるへる唇を噛んで咽び泣いた」のはまさしく娘の「純粋な生」に促されたことによる。そして、その「涙を拭つた」あと、「何か大きな軽さをふと覚えた」のも当然といえば当然である。
自分の内部に取り込まれた「純粋な生」が涙となってほとばしり出たときに、阿蘇登山を思い付くのである。「純粋な生」を受け付ける場所として、阿蘇の荒涼たる風景と「激しい」噴煙ほどふさわしいところはなかった。この〈激しさ〉は自分と呼応するものであり、ここに至って、完全に現実と自分との〈ずれ〉は修復されるのである。
とするならば、現実と自分との〈ずれ〉は「末梢的な感覚」を持ち込まないかたちで、戦場の緊張をそのまま内地に持ち込むことによって解決したことになる。阿蘇登山の途中で戦場での感慨に耽ることからも理解できる。第二次応召の慌ただしい車掌室の中で推敲し、筆を置いたこともこの小説で掴んだ「純粋な生」が戦場と直結していることの何よりの証拠である。こう考えて初めて、保田輿重郎の「この作品を読めば、彼の自殺は当然とも考えられる」という直感の鋭さに思い至ることができる。
従って、「観念小説とはまつたく別の発想において、抽象とか思想とかいふものがどういふ状態で生まれるかを描かうとしてゐる」という桶谷秀昭の指摘を参考にするならば、「有心」という小説は〈田舎〉に見出される「純粋の生」を思惟的に追求し、思想にまで高めた作品だといえる。そこに「有心」のユニークさがある。
     四 神韻の文学
蓮田善明の文章は戦時下の総力戦の危機感を反映しており、あの異常ですらあった雰囲気を経験していない人間にはその作品を充分に理解することができないように思われる。
〈文学とは、かかるきびしい現実に対して迫り、そこから昇華する精神の浪曼を消息するものではあるまいか。古代も今も〉(「蓮田善明とその死」より引用)。
昭和十年代の文学者は一般に、明治・大正時代と違って、安定した地盤も確固たる文学概念もない地点から文学の営為を探し求めて悪戦苦闘した痛ましい姿勢にいろどられている。昭和十年代の国粋主義の蔓延(まんえん)のさなかに刊行された蓮田の『本居宣長』(昭18.4、新潮社)にしても、今日の「穏やかな人々の眉をひそめさせ胆を寒からしめよう文句」(塚本康彦)が随処に見られるが、本居宣長の漢意 (からごころ) 排除の思想を〈憤りつつ〉(註1)敷衍しようと努める一途な姿勢にひとつの《信仰告白》の書として受け取れないことはない。そういう受け取り方をすれば、激越な慷慨(こうがい)家としての蓮田の真情あふれる純真な美しさといったものは確かに感じ取ることができる。このような信仰に近い心の叫びが日本の国粋主義者の核心にあったと思われる。
弱冠十七歳の時、蓮田善明は回覧雑誌『護謨樹』に「人は死ぬものである」という題の詩を発表していて、早くも「死」の問題を直視し、その解決に苦慮していることが知られる。
「人生とは何ぞや」よりも「如何に生くべきか」の問題である。「如何に生くべきか」の解決は「如何に死すべきか」を解決し得る所に生るゝ結果である。(「護謨樹」26号、大9・9)
青少年期特有の人生への問いに苦悩する蓮田が「如何に死すべきか」の解決を優先させていることに注意したい。「如何に生くべきか」と「如何に死すべきか」の二律背反する課題は本質的に表裏一体のものである。なぜなら、「生きる」ことの意味は、少なくとも生甲斐のある人生を送ることに他ならず、何らかの目標に向って一回限りの生を燃焼させてゆくことであって、それは何ものかのために「死にうる」という自覚とまったく同義だからである。つまり、いかに「死ぬ」かという問題を除外しては、いかに「生きる」かという問題はありえなかった。それは、蓮田が生きなければならなかった戦時体制という特殊な時代が強いた人間の存在様式のひとつであったといえる。
 それから三ヵ月後に書かれた文章では、次のように言っている。
「死」か「芸術」か、自分の悩ましい歎声はこれである。が、自分には「死」も「芸術」も与へられないのだ。この二つの中の一つを求め得ることができたならば、満足して、自分は目をつむることができるのだ。たゞそれ迄(いつのことかわからないが)は、苦悩せねばならない悲しい運命にある。(「護謨樹」28号、大9・12)
「生」と「死」の課題を前にして「死」を優先させた蓮田は、この文章では「生」を「芸術」に生きることと限定している。蓮田の生涯において最も〈悩ましい〉重要な課題が「死」か、それとも「芸術」(「生」の燃焼の対象として)かの二者択一にあって、ひたすらその課題のみを考える哲学的な相貌を蓮田の表情に読み取ることができる。そして、切迫した時代背景の中で、「死」も「芸術」も同時に手中に収めようとして〈苦悩せねばならない悲しい運命〉をたどることになるのだが、それは晩年においてみごとに成就する。あの終戦直後の事件を知悉(ちしつ)している者には、これらの生死をめぐる断想が自分自身の生涯と運命を予告していることに驚かされるだろう。
蓮田善明は、日中戦争から太平洋戦争へと戦局が泥沼的に拡大される時期に、二度召集を受けて出兵している。初めの時は中国戦線に赴いて転戦、貫通銃創を負って帰還する。二度目の時は南方戦線に派遣されて終戦を迎えるが、ついに日本の土を踏むことはなかった。初めて戦場に赴く蓮田が池田勉に向かって「日本人はまだ戦ひに行くことの美しさを知らない」(「文芸文化」『文芸文化』昭13・12月号)と言って微笑んだことの意味は、〈戦ひ〉の単なる美化とみるだけでなく、〈戦ひ〉に行くことに並々ならぬ期待と決意を抱いていたことを証するに足りる。そして、実際に得ることのできた戦場の体験は、その経験後に書かれた唯一の小説『有心』十六(昭60・8、島津書房)の中で、「幾度も死を決せねばならない(中略)。一度死線を通ると、次に別な心持の、も一つ死を決するものが求められるのである。何か死を決してかゝるものを「生」が求めてでもゐるやうな、そのくせ、「生」にひたりきつた心持で、次第に放胆になつて行き、それと共に又簡単にではあるが深刻に、死といふことをも知つて、勝つ(か負けるかといふことは考へられないけれど)か負けるかの勝負を各瞬間に競つてゐる」と触れている通り、敵・味方が一瞬一瞬に生死をかけて激しくせめぎ合う戦場の緊迫感であった。このような日常生活とは違って緊迫した瞬間の連続である戦場は、実は蓮田にとって、「発射音をきくとすぐ陣地の壕の中に身をかくし、炸烈するのを待つ間、生命といふものだけがとがつてゐる。(中略)しかし『詩』が見えるのはかゝる時と処とである」(清水文雄宛、昭14・7・7)のであり、むしろ生命の充実を確認させ、しかも文学と関わることのできる〈時と処〉を提供してくれる貴重な場所である。それだからこそ、第一次応召の帰還直後の一時期内地の生活に感じた異和感も、あるいは丹羽文雄に報道文学者として直接的な参加を望んだ(「文学古意」)のも、その精神の反映であって、何も奇異なことではなかったのである。さらに云えば、戦線にあった蓮田が当時好色不敬の文学とされていた『源氏物語』を「生きてゐる限りの煩悩」で愛読し、「確か二回目を梅枝あたりまで行つた時、帰還の命令を受けた時の心惜しさは今も覚えてゐる」「所感」『文芸文化』昭17・2月号)といった述懐は、決して戦意高揚のための誇張ではなく、戦場に〈期待と楽しみ〉(註2)を覚えた者のいつわりのない心情の表明だったと素直に受け取っていい。つまり、蓮田にとっての戦場は、生を燃焼させる場としても、文学を体験させる場としても最も条件の整った絶好なところであった。換言すると、赤紙一枚で無慈悲に召集される戦場を何ものにも換えがたい恩寵のようなものとして受け入れているのである。これはしかし、五高出身の作家梅崎春生が『日の果て』の中で「顔色は蒼黒く濁り、眼は憤るよう血走っていた。これが戦場の顔であった。そのまま持って来た戦場の表情であった」と描いているような野獣さながらの表情を持つに至る悲惨な戦場の実態とはほど遠い感じを与える。戦争の惨劇を知り尽くしている戦後の人間には到底推測しがたい蓮田の戦争観を理解するには、さらに次のような文章を読んでみることである。
○命令は既に「死ね」との道である。死ねと命ずるものは又己を「花」たらしめるものである。唯一片の花たれ――何たる厳粛ぞ。何たる詩ぞ。
○弾丸に当る。眼くらみて足歩み、斃れんとして足下に一土塊、一草葉を見る、或は天空に一片の雲を見ん。此の土塊、草、雲、即ちそれ自ら詩である。究極の冷厳、自然そのもの。
○「死ね」の声きく彼方こそ詩である。
(「詩のための雑感」『文芸文化』昭14・6月号)
塹壕の中から寄せられたこのいくつかの短章には、死を直視した戦場体験に裏打ちされる蓮田特有の「死」と「芸術」(ここでは「詩」)のきわどい課題がある方向をもって提出されている。それは蓮田が戦場における「死」の瞬間に垣間(かいま)みられる「詩」精神を〈厳粛〉〈冷厳〉なものと考えるところに現れている。つまり、一種の死の賛美につながる要素を孕(はら)んでいる考えであるものの、そこにこそ、「死」と「芸術」の課題を不即不離の関係において捉え、その両者の関係を絶対的な存在として押し上げようとする蓮田の思想が吐露(とろ)されている。
当時三十五歳の蓮田善明は、画期的な論文「青春の詩宗―大津皇子論―」(「文芸文化」昭13・11月号)の中で、悲劇の詩人大津皇子に仮託して、この「死」と「芸術」(ここでは「文化」)を止揚した思想を一つの時代精神として語っている。此の詩人は今日死ぬことが自分の文化であると知つてゐるかの如くである。(中略)予は、かゝる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。新しい時代を表明するためには若くして死ぬ――我々の明治の若い詩人たちを想ひたい。それは世代の戦ひである。かういふ若い死によつて新しい世代は斃れるのでなく却つて新しい時代をその墓標の上に立てるのである。年齢も不思議に精神の構想となる。(中略)然うして死ぬことが今日の自分の文化だと知つてゐる。戦中世代が自らの死の意味を納得したいと念じていたとき、蓮田はこの魅惑的な文章を表明することになるが、今日でも〈変転が日常である革命期の死の論理〉(小高根)として否定しようにも否定しがたい説得力を持つといったら語弊があろうか。歴史の進歩の過程では確かにその時代の若者たち自身によって数多くの尊い犠牲が払われてきているし、実際、明治維新前後の激動の時代に血気盛んな若者が開国と撰夷、勤皇と佐幕の間を揺れ動きながら変革の流れに身を投じ斃れていっている。あるいは、この時の蓮田の念頭に革命的ロマンティシズムを表明しながら二十五歳という若さで自死した〈明治の若い詩人〉北村透谷の姿が浮かんでいたのかもしれない。というのは、『北村透谷選集』はやがて中国戦線に携えていくことになる数少ない本のひとつであったからである。それはともかく、蓮田が若者たちの時代への役割を熱望していたことはまちがいなく、そのあまりといっては何だが、新しい「文化」創造のための時代的な課題として少なくとも自己犠牲の必要性と夭逝の価値をうたいあげている。つまり、一口で云うならば、創造性豊かな「文化」の犠牲(いけにえ)としての夭逝は、そうすることによってのみ、〈新しい時代を表明〉しえるし、〈新しい時代をその墓標の上に立てる〉ことができるのである。蓮田がここで特に夭逝の問題を取り上げるのは、純粋に生きることを人生の至上価値とみるとしたら、天逝こそが最も望ましく時と処をえた死に方に他ならないからである。また、夭逝者たちが何よりも時代精神の純粋な形象者であったからでもある。蓮田はこのような時代精神のまったき体現者として若者の存在を推奨しつつ、老成を拒否した若者に〈世代の戦ひ〉を担わせるとともに、若さゆえに〈年齢も不思議に精神の構想となる〉特権を与えることとなる。従って、若者唯一論ともいうベきこの論文がくしくも三島由紀夫の「死ぬことが文化だ、といふ考への、或る時代の青年の心を襲つた稲妻のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることのできない」(『蓮田善明とその死』序文)という言葉に代表されるような呪縛的な魅力を持つ秘密は、ニ十四歳で非業の死を遂げた大津皇子の「青春の文学」を通して、いつの時代でも変らない若者のあるベき理想像を示そうとした「永遠の青春」論にあったと思われる。それにしても、犠牲なしとは創造もありえないという思想(註3)は、蓮田の固定観念のようなもので、「まことの古風は、犠牲の屍の中から、やはり絶えたかと見えた古風のいきどほり以て衛られつゝその犠牲の屍を払つて生ひ出でゝくる」(「志貴皇子」『神韻の文学』所収)という言葉にもうかがえる。このような思想が国体護持の名目で宣揚された「滅私奉公」の精神にかすめ取られる危険(註4)を充分に持っていたことは言うまでもない。
しかし、いずれにせよ、蓮田善明は、日常化された臨戦体制の死を〈死ぬことが今日の自分の文化だ〉と定義づけることによって、生活信条にまで「死」を崇高化し、「死」への道を自分に課せられた主義であると確信する。『鴎外の方法』(昭14・11、子文書房)における「戦死――にわれわれは芸術を見なければならない。戦死が詩であることを、はつきり知らなければならない」という文章も、そのことのヴァリエーションにすぎず、「死」を戦いによるものと〈はつきり〉と位置づけたもので、これにより「戦死」こそが「芸術」であると規定することになる。これらの文章が与えた衝撃について、蓮田の友入たちは次のように述べている
「磬余の池に鳴く鴨を今日のみ見て雲隠りなんとすることが皇子は自分の文化であると自識して居られたといふ。今日に於ては戦ひに行くことが、文化であるといふ凛烈たる姿勢の詩清を蓮田にきいて、僕は一人頼しいと思つた。この決意は一億の民心を日本の歴史の創造に駆り立てるべきである」(池田勉「文芸文化」『文芸文化』昭13・12月号)。
「蓮田は『死もて文化を書く』といつた。これは彼の今回の応召を機としての偉大なる発見であつた。(中略)それは我ら若者が共通に各自の胸に、どうと云つて明瞭に言ひ表せないけれど、痛切に熱烈に懐いてゐる所のものを、彼が実に凱(ママ)切に言つてくれたのである。それは単にあるがまゝを言葉に言ひあらはしてくれたといふのでなく、あるものをぐつと引き上げ、ひき絞つて焦点を与へてくれた感じである」(清水文雄「みやび」『文芸文化』昭14・3月号)。
このような文章からは、『文芸文化』の仲間の中ではただ一人戦場での体験をもつ蓮田の実践家としての言動がストレートにその周囲の人々に与えた影響力の強さを思い知ることができる。いやそれ以上に、ここには〈死ぬことが文化だ〉という言葉があの時代の精神を的確に把握していたことを物語っている。また、翻って考えるならば、蓮田が自らの死の意味に何らかの結論を与えようと努めた態度にしても、確実な死が約束されていた戦中世代の内心とは無関係でないのであって、どちらも「死」を平静に迎えられる思想的根拠は何かを突き詰めて考えなければならなかった点で恐ろしく共通している。従って、狭い借屋住いの中で子供はうるさいから早く寝せろと叱りながら勉学に精励していたという蓮田夫人敏子さんの話(昭61・3・1)からも、軍務のあいまを縫っていつも机に向っていたという第二次応召時の当番兵だった渡辺常一氏の話(昭61・2・21)からも蓮田の日常生活の一端を窺い知ることができるが、どちらかと云うと喧騒な時代の空気を腹一杯吸い込みつつも時代の進むべき道を確信するまで模索をしつづけた、いわば時代とともに歩み、時代とともに生きた文学者であったのである。
ともあれ、〈死は文化だ〉に代表される文芸観の確立は、青少年期に苦慮していた「死」と「芸術」の課題を一挙に統一して解決することができた結果である。そして、評論家として探り当てた文芸観は、ただちに戦場において書き継がれた文学作品、その名の通り『陣中日記』『陣中詩集』を通して実践することになる。例えば、『陣中日記』の扉書きの「わが遺骨なり」という奇抜な言葉や、死地に赴く大津の皇子の遺歌に対して「実にひしひしたり」という感想を寄せている書き出し日の記述からもおおよそ予想できるのだが、この日記には《遺書》に相等しい気持ちで書こうとした蓮田の決意、あるいは覚悟がひそんでいる。しかも、この日記が日を置かずに書き込まれている背景にも、単に日記の体裁になぞらえたというだけでなく、「死」を覚悟したものの立場から視界に入るものや脳裏に浮かぶもののすべてをいとおしむ気持ちで描き込もうとすろ姿勢が貫かれている。それは、一種の「賜死」である応召が生還の見込みが千載一遇のチャンスでしかなかったからというよりも、蓮田の場合、むしろ戦場に赴く心構えがすでに〈死ぬことが今日の自分の文化だ〉と確信し、人よりも一倍「死」の覚悟をととのえていたからである。とはいっても、〈死は文化だ〉という言葉そのものはスローガン的な意味合いの濃いものであるから、生のある限りではどうしても「死」への〈決意〉(註5)といった姿勢を取らざるをえない。そこで、〈死をもて文化を書く〉ことを片時も忘れずに「賜死」の戦場を駆けずり回っている蓮田の熱いまぶたには、恐らく、前にも引用した「弾丸に当る。眼くらみて足歩み、斃れんとして足下に一土塊、一草葉を見る、或は天空に一片の雲を見ん。此の土塊、草、雲、即ちそれ自ら詩である」という、いわゆる今わの際に宿るとされる〈末期(まつご)の眼(め)〉を通してみられる瞬間の映像が夢見られていたに違いない。これこそが蓮田が希求していたあの「死」と引き換えに与えられる「芸術」の具体的なイメージに他ならない。つまり、「死」=「芸術」(「文化」)の等式は、この〈末期の眼〉の獲得によって初めて芸術(文学)の具体的な形象(作品)を創り出すことができるようになるのである。従って、「死」を背後にして書かれた『陣中日記』は、これらの意識が反映されたものであって、切羽詰まったものの〈末期の眼〉を通しての持続的な記録の書として稀有(けう)の存在であるとともに、蓮田の全生命をかけて渾身の力で書かれた畢生(ひっせい)の書としても特別な存在であるといえよう。一方、『陣中日記』を欄筆してから書かれたものと思われる『陣中詩集』は、いくつかの稀(まれ)にみる清烈な詩篇を収めているが、もとより戦場の悲惨さや残酷さの反措定(アンチ・テーゼ)として描いたものでなく、やはり「死」を覚悟したものの〈末期の眼〉に写る生きとし生けるものの姿や情景を真摯(しんし)に書き止めようとしたものである。その好例としての「偶詩」という作品は、題そのものが作者の心境をある物に仮託して述べていることを示しているが、それだけに戦場における蓮田の心境が最も如実に表現されている。
独りねておのれと見れば
ともしびにわが身を照らし
いのちなるかも
足かげを壁にうつして
虫けらの蟲の音をきく
この詩からは、真夜中、「虫けらの蟲の音」に耳をすまして聞き入っている蓮田の姿と彼の憧憬した〈みやび〉な中世歌人の面影とが二重写しのように浮かび上がってくるが、単なる〈みやび〉やかな観照的な態度とは違い、そのかそけき〈蟲の音〉に呼び覚まされた〈わが身〉ひとりの「いのち」の規則正しい鼓動の尊さをこよなく慈しむ蓮田の心情が強く表現されている。つまりこれは、静かに息づく「いのち」に対する秘やかな自覚というよりも、昼間の戦闘のあいだに研ぎ澄まされて先鋭になった「死」に対時(たいじ)される「生」=「いのち」に対しての強烈な自覚なのである。けだし、一時の猶予もない「いのち」に対するこの強烈な自覚を抜きにしては、不眠に悩む蓮田の眠れないまま意識せざるを得ない絶対の孤独感を読み取ることができないし、例えば夜闇に光る「夜光時計」や夜更けに鳴く「こほろぎ」、さらに暁にみる「病院にて」の蝋燭(ろうそく)の跡などに寄せる蓮田の繊細できめ細やかな愛着心の表れを理解することもできないだろう。このように眺めてくると、第一次応召時に書かれた『陣中日記』『陣中詩集』の両作品は、「戦死」こそ「芸術」だと覚悟したものの〈末期の眼〉を通してみた「陣中」∥戦場のルポルタージュであったのである。またそれだけに、「蓮田の直身により直接的であつた」(清水文雄『陣中日記.・をらびうた』解説)といわれるように蓮田の作品にかける意気込みも強かったといわなければならない。ちなみに、作家が〈末期の眼〉を文章活動の原点に据えようとする態度は、何も蓮田に限られたことではなく、首藤基澄先生によると、福永武彦が「死者の眼」という言葉で問題にしていることに触れて、「川端康成は『末期の眼』を問題にし、誰よりも堀辰雄が多くを語っている」(「福永武彦の世界」審美社)とし、文学史的には芸術派と呼ばれる作家の系譜に多く見られる姿勢であるということである。とすると、蓮田もまた、端的に云って芸術派作家の系譜に位置しえるといえまいか。蓮田はその意味において、生そのものを彫り刻むように戦時下の精神《たましひ》(註6)の問題を剔出(てきしゆつ)しようとした文学者であって、世にいう好戦的なアジテーターとしてたやすく裁断できない作家としての文学的生命を持っていると思われる。
三 結びに
しかし、蓮田善明の評論家としての文学的生命は日本の敗戦とともに終ったといえる。なぜなら、蓮田が十五年戦争にみていたものは、いわゆる「死ぬことが今日の自分の文化だ」という精神風景であって、自己の信じる文学理念の実現をそこに見出していたからである。戦争が終結したときに蓮田が念願していた〈死もて文化を書く〉機会も消滅したわけであり、その時点で蓮田の評論家としての文学的生命も終結したわけである。従って、敗戦後の生きながらえた生など考えられず、自己の文学的生命の終焉を予感しながら、敗戦によって失われた〈死をもて文化を書く〉機会をいずれどのようなかたちでも手に入れなくてはならなかった。それが敗戦から四日後の自決である。蓮田が上官を死の道づれにした問題は、相手が〈奸賊〉でありさえすればよく、「奸賊を斬り皇国日本の捨石になる」ことがすなわち〈死をもて文化を書く〉という思想の実践に他ならなかった。そこに思想家として自らの思想に殉じた蓮田の一貫した姿がある。これはしかし、戦時中の右翼イデオローグが辿ったファナティシズムの当然の帰結だと簡単に片づけてしまえるものではない。日本浪曼派の人々にあった必ずしも言行一致を伴わない大言壮語のこだまの中にあって、真に「死ぬ」ことの意義を訴えて実践したことは結果がどうあれ、文学者の非転向の問題を投げかけているからである。何ものかのために殉じるということは、昭和期のマルクス主義思想への殉教とそれからの離脱・転向の歴史的な経過を通して、「殉教の精神にもし価値があるなら、殉教対象がキリスト教であろうとユダヤ教であろうと神道であろうと、その心情的価値は変りはない」(「散華」)という作家高橋和巳の問題提起となって現在に至っていることを記して置くのも無意味ではなかろう。
註1 『本居宣長』執筆の感想に「憤りつつ『からごころ』をはらふことを言挙げした」(「文芸文化」昭18・3月号後記)とある。
2 第二次応召に赴く蓮田は、大阪駅で伊東静雄と別れる際に「前に戦場の経験ある上に、学徒出陣で自分は前よりも一層軍隊生活に期待と楽しみがある」といったという(「伊東静雄日記」昭18.・10・26)。
3 渡辺京二氏の『熊本県人』(人物往来社、昭48・6)や『神風連とその時代』(葦書房、昭52・8)によれば、肥後の勤皇思想家林桜園は、圧倒的な軍事力を背景とした欧米諸国の異種文化にさらされている日本が焦土化を恐れずに戦争を起こせばその灰燼の中から新しい国民の精神が誕生するという考えを持っていたとされるが、蓮田の思想との類似性が認められる。そこで、神風連の思想的な導師である林桜園、神風連の遺子石原醜男に教化を受けた蓮田善明(「神風連のこころ」『文芸文化』昭17・11月号)、小説『奔馬』で神風連を取り扱った三島由紀夫の三者とは神風連を媒介とした関係が成り立つが、詳しくは拙論「三島由紀夫と〈熊本〉―「奔馬」をもとにして―」(『熊本の文学 第三』熊本近代文学研究会編・審美社、1966。3)に譲りたい。。
4 橋川文三が『日本浪曼派批判序説』(未来社、昭40・4)の中で、自己の浪曼派的体験を「私たちの感じとった日本浪曼派は、まさに『私たちは死なねばならぬ!』という以外のものではなかった」と語気強く述べていることに、そのことが端的に表現されている。
5 蓮田の文学を決意の文学とでも言い換えることができるほど意志的な姿勢をあらわす言葉が頻出する。それはまさに総力戦下の特異さの反映に他ならない。
6 蓮田が意を払った内面の世界とは要するに「やまとたましひ」という日本人としてのアイデンティテーをいかに確立するかであって、古典研究もまた、「『やまとたましひをかたむける』上に何としても神ながらの古伝のこころことばを振るひおこし言霊のさきはひをさながらに招ぎ致すベき」(註1前掲書)ことに重点が置かれた。
〔参考文献〕
「陣中日記・をらびうた」(古川書房、昭51・7)
「蓮田善明全集 全一巻」(島津書房、平成元年四月)
小高根二郎『蓮田善明とその死』(筑摩書房、昭45・3。のちに改刊島津書房、昭54・8)   
本稿は、右文献に多くの示唆を得た。ここに謝す。

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