「『仕方がない』日本人をめぐって : 近代日本の文学と思想」所収(2010.9・南方新社)
内容(目次より)
第一章 夏目漱石「こゝろ」/首藤基澄
第二章 芥川龍之介「羅生門」/古閑 章
第三章 高村光太郎と金子光晴/浦田義和
第四章 野間宏「暗い絵」/和田 勉
第五章 遠藤周作「海と毒薬」/管原とよ子
第六章 基調講演とパネリスト報告
基調講演
日本人の生を写した「仕方がない」/古江研也
パネリスト報告
文学研究者にして俳人/永田満徳
首藤氏の俳句と「仕方がない生」/馬場純二
第七章 夏目漱石「草枕」/永田満徳
夏目漱石「草枕」 そのⅠ
―「俳句の方法」を駆使した俳句的小説―
始めに 俳句=漱石文学の底流
夏目漱石は熊本時代、多くの俳句を作り、全体の四割、つまり千句あまりを作っている。漱石文学における、その俳句の影響については一過性のものとは考えられない。漱石文学の底流に流れていて、漱石文学に滋養を与えていると考える。
小森陽一氏は「俳句と散文の間で―子規を生きる漱石」(『漱石研究』NO.7、一九九六年十二月、翰林書房)の中で、「昔」(『永日小品』)を取り上げて、「重要なことは、ピットロホリーのディクソン邸の散文的な描写を、ほとんど自動的に連続する俳句のつらなりに置き換えることができるという点である」と述べ、「散文」と「俳句」の連続性を指摘している。その例としては次の通りである。
「昔」(冒頭)ピトロクリの谷は秋の真下にある。
ピトロクリの谷は秋の真下なり(小森)
「昔」(末尾)崖から出たら足の下に美しい薔薇の花瓣が二三片散つてゐた。
足の下薔薇の花瓣二三片(小森)
このようなことから、小森氏は「漱石にとって、ピットロホリーの光景と、過去の経験を呼び起こしながら想起する媒介となったのが、俳句なのであろう」として、俳句が記憶装置として働いていたのではないかという考えを提出している。「散文」ではあるが、一九〇九(明治四十二)年発表の「昔」((『永日小品』)という散文は六年余の前のピットロホリー訪問の体験が俳句の素養を下地にしているということである。記憶装置としての俳句という見解は突飛なものとして看過することはできない。やはり、俳句は漱石文学の底流に流れていると言わなければならない(注1)。
では、「草枕」はどうか。漱石自身が「俳句的小説」と言っているから、疑うべくもなく、「小説」と「俳句」とが密接に関わっている作品であると言ってよい。ところが、首藤基澄氏の(「「草枕」への視角」『近代文学と熊本』、二〇〇三年十月、和泉書院)によれば、
……「草枕」はなぜか漱石が意図した「俳句的小説」としては読まれていない。その理由は簡単である。多くの研究者(漱石学者)が俳句に暗いという、この一語につきる。
ということである。確かに、首藤氏自身俳句をよくし、その実践を通して、「草枕」を俳句的側面で切り込み、鋭く読み込んでいるのは、「「草枕」への視角」(前掲書)はさることながら、「漱石の「仕方がない」態度―「現代日本の開化」と「草枕」『「仕方がない」日本人』」(二〇〇八年五月、和泉書院)である。
そこで、私が特に注目するのは、次の文章の中の語句である。
……高島田にオフィーリアの顔をはめたような人間が近代の日本人の図柄だったのである。この不気味さは近代の混乱した日本人の象徴以外の何ものでもない。ここから出発して、やはり近代(二十世紀)に毒された那美さんの顔が絵になるというところまで、「詩境」を追い求め、俳句の方法を駆使して、混乱した近代に幕を引いて巧妙に隠しながら、危うく成立させた「草枕」(傍線筆者)
「俳句の方法を駆使して」の語に反応したのは、私自身が俳句実作者であることもあって、「草枕」が「俳句的小説」とわざわざ言っているのはどういうことかが気になっていたからである。そこで、私は私なりに漱石がどのような「俳句の方法」を駆使して、「草枕」を描いているかを見てみたい。結論的に言うと、私も夏目漱石が「草枕」を「俳句的小説」と言ったゆえんは何かというと、「俳句の方法」を駆使していることにあると思っている。
二 子規派の潮流の一派としての俳句的小説
「草枕」は雑誌『新小説』(春陽堂・明治三十九年九月一日発行)に発表された。この時期の俳句界の状況は子規亡き後、子規の後継者争いの様相を呈している。
子規没後、虚子は空想的傾向を伸長させることを目指し、碧梧桐は〈見たところ聞いたところを其儘句に〉する傾向を進展させるというゆき方を示し、この相違は明治三十六年、『ホトトギス』に碧梧桐が発表した「温泉百句」を通して正面から対立する。(中略)(虚子は)そして三十九年には、〈今日の客観写生趣味の句に飽足らぬといふことであれば、今後益々客観写生趣味の句を奨励すべきである〉という考え方を明らかにした。この後、文壇では自然主義文学が隆盛となり、この影響の下に碧梧桐は俳句の新化を試みる。この運動は通常、新傾向俳句運動と呼ばれているのである
(松井利彦「明治俳句概観」(『研究資料現代文学6 俳句』、昭和五十五年七月、明治書院)
こういう運動の中で、漱石は漱石なりの俳句観を示す必要があった。それが俳句的でありながら小説であるという「草枕」である。しかし、「草枕」は「芸術館及人生観の一局部を代表したる小説」(明治三十九年八月七日書簡)と言って、決して俳句観とは言ってはいない。「草枕」がいくら「俳句的小説」と言っても、小説であって、俳句ではない。「草枕」はあくまでも「俳句の方法」を駆使して描いた小説である。「草枕」がその実践であるとよくいわれる一九〇七(明治四十)年五月単行本初版「文学論」がある(注2)。この「文学論」で論じている文学の様々な方法論は俳句実作で培った「俳句の方法」の影響に因るものであると思われる。それはそれとして、「草枕」は文学の普遍的特質に迫ろうとした「文学論」を反映するものであったことは間違いない。従って、端に「俳句の方法」で小説を描くことに主眼とする訳には行かない事情があった。どうしても「俳句の方法」を駆使しつつも、「芸術観及人生観の一局部を代表したる小説」でなくてはならなかった。このことは、「俳句的小説」といった形で、虚子や碧梧桐らとは違った子規派の潮流を歩み始めたことを意味する。ただ、「文学論」の複雑な方法を適用しようとしても、それは初期の漱石には荷が重すぎた。そこで、昔取った杵柄といった調子で、「俳句的」に小説を書こうとしたとしても不思議ではない。そういう意味ではいかにも「草枕」は腕試し的な要素が強い作品である。かといって、稚拙であるとは限らない。
三 「俳句の方法」を駆使した「草枕」
首藤氏が「「草枕」への視角」(前掲書)の中で、「俳句の近代など考えたことのない散文研究家ばかりが幅をきかせている。これでは漱石の意図を無視して勝手な読みに耽けるのも無理はない」という痛烈な「草枕」論者批判は当を得ている。確かに、俳句のイロハが分かっていると、「草枕」がいかに「俳句的小説」かが分かる。そういうことで、俳句とは何をどのように詠むといいのかという「俳句の方法」についてお復習いをしてみたい。俳句は五・七・五と文字(音数)をそろえればいいというものではない。寺田寅彦が「夏目漱石先生の追憶」(昭和七年十二月)の中で漱石の言として述べているように、まさしく「俳句はレトリックの煎じ詰めたもの」である(注3)。その代表的な「俳句の方法」(レトリック)を簡単に紹介する。その際に、漱石の俳句のみを取り上げ、その俳句に対して同世代の人間がどう標語しているかを例示することによって、漱石がどれだけ「俳句の方法」(レトリック)に習熟していたかを示して置きたい。参考にしたのは、漱石俳句に対して、門下生と呼ばれる寺田寅彦・松根豊次郎・小宮豊隆が標語している「漱石俳句研究」(一九二五年七月、岩波書店)である。
写生 対象(自然)をありのままに見る
知識や理屈によって作られる「月並俳句」を避け、「実景」の「無数の美」を「探る」(子規)。
若草や水の滴る蜆籠 漱石
freshな感じ・写真の様な句(小宮蓬里雨)
季語 季節を表す言葉
季語の本意を活用し、句の世界を豊かに、複雑にする。
人に死し鶴に生まれて冴返る 漱石
高潔な感じと身にしみる冴え返るがぴたりと合ふ。(小宮蓬里雨)
連想 季語の内包する美的イメージを表す
季語のイメージを拡大し、自在な世界を作り出す。
寒山か拾得か蜂に螫されしは 漱石
絵の表情から蜂に螫されたといふ架空の事実を連想した。(寺田寅日子)
取合せ 二つの相反するものの調和
全く関係のないものを組み合わすことによって、俳句独特の思わぬ効果をあらわす。
餅を切る包丁鈍し古暦 漱石
包丁鈍しと古暦とがとり付いたところに捨て難い味がある(松根東洋城)
空想 現実にありそうにもないことを想像する
季語のイメージを拡大し、句の世界を広く豊かにする。
無人島の天子とならば涼しかろ 漱石
思ひ切つた空想を描いた句。(寅日子)
省略 連続する時間を打ち止め、空間を切断する
省略することによって、表現したいものを鮮明にし、余韻を生み出す。
切れ・切れ字 「切れ」は句を二つに切ることで、「切れ字」には「や・かな・けり」などの助詞、助動詞がある。
「切れ」は「省略」とも取られるが、主に季語の味わいを深め、「切れ字」は一句の完結性や二重構造、意味性をもたらす
デフォルメ 対象の強調
強調することによって、意外性とともに奥行きをあらわす。
ふるひ寄せて白魚崩れんばかりなり 漱石
直感的に洞察する(寅日子)
比喩 あるものを別のものに喩える
相手のよく知っているものを借りて擬えることによって、直接的に実感させる効果がある。
日当りや熟柿の如き心地あり 漱石
熟柿になつた事でもあるような心持のある所が面白い(蓬里雨)
擬人化 人間でないものを人間に擬える
人間に擬えることによって、ある種の滑稽味や親近感を持たせる効果がある。
叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな 漱石
此処では木魚を或意味で人格化している(蓬里雨)
同化 主体と対象の一体化
読む対象を深く掴み、対象そのものになることによって、対象の本質を明らかにする
菫程な小さき人に生れたし 漱石
作者が菫と合体し同化する(東洋城)
このように、漱石の俳句に他者の評語を付け加えることによって、漱石における「俳句の方法」に客観性を持たせたつもりである。なお、「省略」と「切れ」「切れ字」は漱石の俳句を例示していない。それは、「省略」は俳句が言葉を惜しむ文芸であり、俳句がすべて「省略」で成り立っているからである。漱石の俳句の場合も例外ではない。また、「切れ」「切れ字」は小説などの散文にはなく、俳句独特のレトリックで、ごく当たり前に使用されるからである。漱石の俳句にもよく使われていて、特別に例として取り上げる必要もない。ここに示した「俳句の方法」で、「連想」は「「連想」、これこそ子規に発した漱石の、漱石たる独自の方法」(首藤基澄「「草枕」への視角」、前掲書)であるし、「空想」も「かういふ筋の句は先生には可成多く他には少ない」(東洋城)ものもあるが、しかし、現在でもこれらの「俳句の方法」はごく一般的で、この方法を知らずして俳句を作る人はまずいない。
四 「草枕」=「俳句の方法」の使用例
「草枕」が「俳句的小説」であるゆえんを「俳句の方法」と対となる形で説明していきたい。もちろん、この説明は畢竟、漱石という作家(語り手)が「草枕」をどう描いた(語った)のかということで、その確認作業をすることに他ならない。
写生=「俳句の方法」の根本的なものは、正岡子規が「写実(写生)の目的を以て天然(自然)の風光を探ること、尤も俳句に適せり」「俳句大要」(新聞『日本』、明治二十八年)と唱えた「写実(写生)」である。西洋画論の「写生」なる言葉を子規に教えたのは洋画家の中村不折である。「草枕」の主人公が俳人ではなくて、画工であるのはここら当たりの事情があるかもしれない。「写生」が意味を持つのは、子規が、一八九五(明治三十)年の長編時評「明治二十九年の俳句界」(新聞『日本』)で説いているように、「非情の草木」や「無心の山河」には「美を感ぜしむる」ものがあるからである。首藤氏の『「仕方がない」日本人』(前掲書)によれば、「人情の美」を切り離して、「自然の美」に焦点を当てているのが「草枕」だということである。いずれにせよ、漱石が「余が『草枕』」(一九〇六(明治三十九)年十一月十五日)の自作解説「美を生命とする俳句的小説もあってよい」、あるいは森田末松宛書簡(明治三十九年九月九日)「草枕の主張が第一に感覚的美にある」と、「草枕」が「美」を描いた小説であることを強調している理由はここにある。
季語=「草枕」では、現代の歳時記には「春」の項に載っていない季語もあるが、「季語」がこれでもか、これでもかと出てくる。算用数字は「季語」の出語数である。
一章 雲雀13 菜の花7 桜2 山桜・春・春の日・蒲公英・春の山路・筍・春の雨・春の山1
全章 春57 春の日・春の雨・春の山・春の風・春の星・春宵・春水・春光・ 春の景色・春の海・春の色・春の声・春の夜・春の昼・春の温泉・ 春の草・春恨・春の雲・
全章 雲雀・菜の花・桜・蒲公英・筍・鶯・梅の花・海棠・朧・青苔・枸杞・蜜柑・蝶・燕・陽炎・牡蠣・馬鹿貝・馬刀貝・霞・落椿・水仙・花曇・葛湯・(春の)稲妻・梨花・菫・木蓮・木瓜
俳句では「季語」は「俳句の生命」(寺田寅彦)で、俳句は「季題を主題として詠ずる詩」(高浜虚子)と定義づけられるほど、必須の条件となっている。画工自身が詠んだ俳句の「季語」を入れたとしても、これほど多くの「季語」を使っている小説は多くない。これをもって、「草枕」を「俳句的小説」と言っても言い過ぎではないだろう。
画工が「春」に対する「心」の内を次のように披瀝している。
余が心は只春と共に動いて居ると云いたい。あらゆる春の色、春の風、春の物、春の声を打つて、固めて、仙丹に練り上げて、それを蓬莱の霊液に溶いて、桃源の日で蒸発せしめた精気が、知らぬ間に毛孔から染み込んで、心が知覚せぬうちに飽和されて仕舞つたと云いたい。[六]
画工は「春」という季節をことさら強調している。特に俳句的小説「草枕」にとって、「季語」は作品の善し悪しを決めるうえで重要な要素である。「季語」の面からいえば、那古井の旅は四季の内ではどうしても「春」でなければならなかった。というのも、画工の願望が、
たる春日に背中をあぶって、に花の影と共に寐ころんで居るのが、天下の至楽である。考えれば外道に堕ちる。動くと危ない。出来るならば鼻からもしたくない。畳から根の生えた植物のようにじつとして二週間り暮して見たい。[四]
というところにあるからである。多くの「春」の季語を散りばめた「草枕」は、「春」を背景にとして、「春」という季節の普遍的な情緒、美意識のエッセンスを堪能させてくれる。その点で、「春」という「季語」の選択は間違っていなかったというべきである。「草枕」は明治三十年の暮れの旧玉名郡天水町小天の旅をモデルにしていることは確かで、季節は「冬」である。しかし、「季語」の選択に関しては明治三十年末の久留米旅行の「春」の体験が最もよく生かされていると言わなければならない(注4)。
連想=首藤基澄氏は「子規と漱石――写生と連想――」(前掲書)の中で、漱石俳句で最も特徴的なものは「連想」であるとして、第十章の鏡が池の場面で、「余は深山椿を見る度にいつでも妖女の姿をする」で始まる文章を引用し、「連想」によって、「漱石の複雑な内部世界が見えてくる」と指摘している。「連想」は季語「椿」のイメージを深める効果があるので、首藤氏の指摘は正鵠を得ている。
取合せ=芭蕉が「高く心を悟りて俗に帰るべし」(土芳『三冊子』)と最終的には「俗」を奨励しているのは、俳句のルーツの俳諧は「俗」の文芸であったからである。しかし、その一方では「つねに風雅の誠を責悟りて、今なすところの俳諧にかへるべし」(土芳、前掲書)とあるように、「風雅の誠を責悟」ることも要請している。この「雅」と「俗」との「取合せ」が「取合せ」の基本中の基本である。第三章には「妙に雅俗混淆な夢を見たものだと思つた」と、「雅」と「俗」の語彙が出てくる。
御茶の御馳走になる。相客は僧一人、観海寺の和尚で名は大徹と云うそうだ。俗一人、二十四五の若い男である[八]
「和尚」はさしずめ「雅」というところだろう。この一文には「雅」(和尚)と「俗」が対比的に使われていることは明らかである。これは、「雅」と「俗」の「取合せ」を意識してのことである。「春」景色と髪結床の「親方」との関係も一種の「取合せ」である。
景色と此親方とは到底調和しない。
今わが親方は限りなき春の景色を背景として、一種の滑稽を演じて居る。[五]
とあるように、「春」景色という「雅」と髪結床の「親方」という「俗」との「取合せ」が俳句と同様の「滑稽」味という、思わぬ効果を生み出している。画工は春景色と髪結床の親方とは「調和」しないといってみたものの、「な春の感じを壊すべき筈の彼は、却つて長閑な春の感じを刻意に添えつゝある」[五]ことに気づく。二つの事柄を組み合わせる「取合せ」のことを二物衝突ともいう。対比はその一つであるが、二物は対立したまま終息するのではなく、「調和」を醸し出さなければならない。いわゆる「二項対立の調和」、もっと大胆に言えば「不調和の調和」(西脇順三郎「詩學」、筑摩書房)というパラドックスである。章単位でも、観海寺の場面を「雅」とすれば、髪結床の場面は「俗」ということになる。「雅」の世界だけでは古色蒼然でありすぎるが、そこに「俗」なる物を取り合せることで、なんと生き生きとしてくるではないか。
此夢の様な詩の様な春の里に、啼くは鳥、落つるは花、湧くはのみと思い詰めて居たのは間違である。現実世界は山を越え、海を越えて、平家の後裔のみ住み古るしたる孤村に迄る。[八]
「夢のような」那古井の里の背後に「現実世界」が揺曳している。清水孝純氏が「「草枕」の世界」(『漱石作品論集第二巻 坊っちゃん・草枕』、平成二年十二月、桜風社)の中で、いみじくも「「草枕」は対比的なものを巧みに織りまぜながら、それらを調和させ、渾然たる美の世界を作り上げている」と述べているように、「取合せ」は並べて置くだけではあまり効果がない。そこに、ある「滑稽」味や「調和」が引き出されていなくてはいけない。「草枕」はそういう意味で、「取合せ」の効果を充分に取り入れた作品であるといえる。
空想=第六章の冒頭「夕暮の机に向う」ところから、「思われる」「思えば」「考えた」という言葉を挟みながら、延々と語られ、倦むことを知らない。これこそ、「空想」の特質そのものであろう。さらに、あえてその「空想」の一例として挙げるならば、次の箇所がそうだろう。
又一つ大きいのが血を塗つた、人魂の様に落ちる。又落ちる。ぽたりぽたりと落ちる。際限なく落ちる。
こんな所へ美しい女の浮いてゐる所をかいたら、どうだらうと思ひながら、元の所へ帰つて、また煙草を呑んで、ぼんやり考へ込む。[十]
鏡が池に落ちるところに、「美しい女の浮いているところ」を書こうと「思いながら」「考え込む」、つまり「空想」する。また、贅言を労すると、画工の感慨や芸術観、あるいは文明批評が次々と繰り出されていて、当時の漱石の知識、教養が総動員されているかのような印象が強い。この衒学的な部分がよくもあしくも「草枕」を特徴的なものにしている。衒学的な部分のどれもが「空想」の所産であるといえなくもない。もちろん、どこが「空想」で、どこが「連想」か、判然としないところがあるが、おそらくは「空想」と「連想」とがない交ぜになっているのだろう。「空想」としても、「連想」としても、これらの「俳句の方法」が使われていなかったら、「草枕」は膨らみのない、エピソードの寄せ集めに過ぎない小説となっていたはずである。
省略=五・七・五という、わずか十七文字(十七音)の言葉が一篇の詩として独立するには言いたいことを抑えて、核心部分だけを表現する。このことを「省略」という。
渦捲く煙りをいて、白い姿は階段を飛び上がる。ホヽヽヽと鋭どく笑ふ女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第に向へ遠退く。余はがぶりと湯を呑んだ儘の中に突立つ。驚いた波が、胸へあたる。縁を越す泉の音がさあさあと鳴る。[七]
「私が身を投げて浮いて居る所を――苦しんで浮いてる所ぢやないんです――やすやすと往生して浮いて居る所を――奇麗な画にかいて下さい」
「え?」
「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでせう」
女はすらりと立ち上る。三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、顧みてにこりと笑つた。茫然たる事多時。[九]
第七章の「白い姿は階段を飛び上がる。ホヽヽヽと鋭どく笑ふ女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第に向へ遠退く」、あるいは第九章の「女はすらりと立ち上る。三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、顧みてにこりと笑つた」といった終末部分は、いずれも「飛び上が」り、「立ち上が」った後、「風呂場を次第に向へ遠退」き、「部屋の入口を出る」といった感じで、気懸かりな立ち去り方をする。あたかも舞台劇のような、鮮やかな幕切れである。画工ならずとも、「茫然」となるのは致し方がない。この各章の終わり方はまさしく「省略」の方法が用いられているといえる。冗漫さを取り除くことによって余韻を生み、読み手の想像力を引き出し、表現したいものを鮮明に浮かび上がらせるのが「省略」の効果である。「草枕」はこれ以外の章でも例として挙げることができるので、この効果を十二分に考慮して書かれていると思われる。
切れ・切れ字=俳句では「季語」「取合せ」と並んで重要視されるのが「切れ」「切れ字」であるが、「草枕」では使用例を見いだせない。「切れ」「切れ字」は俳句独特の「俳句の方法」であるので、「草枕」という小説に取り入れようとしても取り入れることが難しかったというのが実情であったろう。ただ、「切れ」を「省略」と捉える見方もあり、そういう見方からすると、「省略」の使用例と重なる。漱石が「草枕」に中に「切れ」「切れ字」を取り込んでいるとすれば、通常、季語の部分と叙述の部分とに「切れ」が用いられることが多いので、季語の部分は那古伊の春景色、叙述の部分は各エピソード、特に那美の行動や言葉を表現していると推測される。従って、これを小森陽一氏の顰みに倣って、俳句にすると、
春那古伊那美の浮かべる憐れ顔
春の里憐れ催す那美の顔
というような句になり、「草枕」全体をイメージ化したものになる。漱石はこのイメージを全体の構想として、「草枕」という作品を書いたのかもしれない。
デフォルメ=素材や対象を変形し、誇張して表現することが「デフォルメ」である。ここでは那美の行動や言葉に注目してみたい。
「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでせう」
女はすらりと立ち上る。三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、顧みてにこりと笑つた。茫然たる事多時。[九]
余は覚えず飛び上つた。女はひらりと身をひねる。帯の間に椿の花の如く赤いものが、ちらついたと思つたら、既に向ふへ飛び下りた。夕日は樹梢を掠めて、幽かに松の幹を染むる。熊笹は青い。
又驚かされた。[十]
中島邦彦氏が「那美さんを論ずることは、『草枕』全体を論ずることでもあろう。その謎に満ちた言葉と行動は、画工さえも驚かすほどなのだ」(「作中人物事典」『夏目漱石辞典』別冊國文學NO39、學燈社)と述べているように、夢うつつの時、自然の中に自己を放下している時に意想外な現れ方、立ち去り方をして、画工を驚かす那美の「言葉と行動」はデフォルメの典型であると考えていいだろう。この那美の奇矯な振る舞いという「デフォルメ」によって、那美の魅惑的な人物像を画工や読み手に印象付けている。
比喩=俳句の根本は「写生」であるが、「写生」は見えるように写そうとした結果、「比喩」表現になることがある。第七章の「流れて行く人の表情が、丸で平和では殆んど神話か比喩になってしまう」には「比喩」という語がある。第十二章の「ごろりと寐る。帽子が額をすべつて、やけに阿弥陀となる」という表現は「隠喩」である。
其上出て来た婆さんの顔が気に入つた。
二三年前宝生の舞台で高砂を見た事がある。その時これはうつくしい活人画だと思つた。箒を担いだ爺さんが橋懸りを五六歩来て、そろりと後向になつて、婆さんと向ひ合ふ。その向ひ合ふた姿勢が今でも眼につく。余の席からは婆さんの顔がど真むきに見えたから、あゝうつくしいと思つた時に、其表情はぴしやりと心のカメラへ焼き付いて仕舞つた。茶店の婆さんの顔は此写真に血を通はした程似て居る。[二]
婆さんが云ふ。
「嬢様と長良の乙女とはよく似て居ります」
「顔がかい」
「いゝえ。身の成り行きがで御座んす」[二]
那美と永良の乙女との関係もさることながら、峠の茶屋の「婆さんの顔」を見ていると、先年見たことのある高砂の「婆さんの顔」に「似て居る」という。つまり、峠の茶屋の「婆さんの顔」を高砂の「婆さんの顔」に擬えているのである。
余は此輪廓の眼に落ちた時、桂の都を逃れた月界のが、の追手に取り囲まれて、しばらく躊躇する姿と眺めた。
輪廓は次第に白く浮きあがる。今一歩を踏み出せば、折角の嫦娥が、あはれ、俗界に堕落するよと思ふ刹那に、緑の髪は、波を切る霊亀の尾の如くに風を起してと靡いた。[七]
「霊亀の尾の如くに」という「直喩」は漱石以外の作家でもよく見受けられ、目新しいというものではない。やはり注目したいのは「擬え」である。ここでは那美である「輪廓」の行動を「嫦娥」の行動に擬えている。その「比喩」(擬え)たるや、漱石の筆致の冴えが最もよく生かされている。これらの奇抜な「比喩」(擬え)によって、伝説や能舞台、はては中国の故事などの内容が「草枕」の世界に付与されて、内容の多重性、重層性を生み出している。
擬人化=俳句では比較的に多く使われる「擬人化」であるが、「草枕」ではあまり使われていない。例えば、この程度である。
余は庭へ出る。茶畠の十坪余りを前に控へて、三本の松が、客間の東側に並んで居る。此松は周り一尺もある大きな樹で、面白い事に、三本寄つて、始めて趣のある恰好を形つくつて居た。小供心に此松を見ると好い心持になる。松の下に黒くさびたが名の知れぬ赤石の上に、いつ見ても、わからず屋のの様にかたく坐つて居る。余は此灯籠を見詰めるのが大好きであつた。灯籠の前後には、苔深き地を抽いて、名も知らぬ春の草が、浮世の風を知らぬ顔に、独り匂ふて独り楽しんで居る。[七]
「鉄灯籠」を「わからず屋の頑固爺」、「春の草」を「浮世の風を知らぬ顔に、独り匂ふて独り楽しんで居る」というふうに、「擬人化」している。「連想」「比喩」などと同じく、「擬人化」も凡庸な発想では月並みな表現になって、文章の味わいも半減するものになる。しかし、漱石の場合、それらの「俳句の方法」は独創的で、発想も豊かである。これはとりもなおさず、漱石の文才の豊かさを示すことになり、漱石独自の作品を作り上げる表現になっているということである。
このように、個別的に説明してきたのは、「俳句の方法」が有効かつ縦横に使われていることを知ってもらいたいためである。もちろん、特に画工が驚く場面は引用部分が同じ箇所であり、「俳句の方法」が重複しているところもある。しかし、そうであってもおかしくない。俳句では、短詩型であるがゆえに、一句の中に「俳句の方法」が幾重にも使われ、俳句を俳句たらしめ、内容に厚みをもたらしていることは忘れてはいけない。
漱石俳句の特色については、首藤基澄氏の「子規と漱石――写生と連想――」(前掲書)に指摘がある。子規の漱石に下した二字評の「活動」を基にして、
(1)「人事風光の有の儘なる姿」の表現。
(2)「感じたる物象」の「感じたる儘の趣」の表現。
(3)一定の景物」でない「心持ち」の表現。
子規の写生説は(1)が中心であった。漱石は(2)で「物と感じ」の両立を考え、さらに(3)で抽象的な「心持ち」の表現にまで踏みこんでいるのである。具象から抽象まで、連想法によって自在な世界構築が試みられようとしていたとみていい。その時、対象や方法を限定することなくいかようにも「活動」できる幅があった。
と分析している。つまるところは私が縷々と説明してきた「俳句の方法」を使って描いた「草枕」の特色は一言で言えば、特に「対象や方法を限定することなくいかようにも「活動」できる幅があった」とする首藤氏の漱石俳句に対する理解に尽きる。驚くべきことに、漱石俳句の特色と「草枕」の特色が一致するのである。ここにこそと言うべきか、「俳句的小説」たるゆえんがある。漱石俳句と「草枕」の特色の一致もまた、首藤氏が「子規と漱石――写生と連想――」(前掲書)の中で述べていることで、「明治二十九年の俳句界」(前掲書)において、子規が漱石の特色としてあげた言葉がそっくりそのまま「草枕」の特色を言い表しているとして、次のような考えを示している。
……漱石俳句の特色がそのまま「草枕」の世界の特色をなし、詠む者を強く刺激する。あえていえば、俳句よりも「草枕」の方が密度が濃いといってもいい。
私はこれらの首藤氏の炯眼な指摘を踏まえて、俳句的小説「草枕」をさらに各種の「俳句の方法」(レトリック)を示して、漱石俳句と「草枕」の特色の一致を跡付ける作業をしたに過ぎないのではないかとさえ思っている。
「草枕」は名文句が多く、画工と那美の小説問答も印象深い。画工は小説の読み方として、「初から読んだつて、仕舞から読んだつて、いゝ加減な所をいゝ加減に読んだつて、いゝ訳ぢやありませんか」[九]と那美に教える。これを俳句的観点からみると、この小説の読みが決して人を食っていないことがわかる。「草枕」は煩を厭わずに言うと、「俳句の方法」が駆使されている。そこで、一章、一場面が俳句の一句に近い世界と考えたらどうだろうか。「草枕」でよく話題になる峠の茶屋の場面、風呂場の場面、髪結床の場面、鏡が池の場面、観海寺の場面、最後の場面など、その代表的な場面が鮮やかに脳裏に浮かぶのはそれら場面が俳句の一句のような世界を持っているからである。ということは、「草枕」の一章、一場面は、それぞれが独立した世界であるということである。もしそうであれば、「草枕」そのものがどこから、どこを読んでもいいことを証明した小説ということになる。この常識を覆す読み方ができる小説を書くことはかなり実験的なものであったに違いない。それを可能にしたのが「俳句の方法」を縦横に駆使したことにあったのである。従って、次の「余が『草枕』」という文章はこれ以上の自作解説はないと言わざるを得ない。
私の『草枕』は、この世間普通にいふ小説とは全く反対の意味で書いたのである。唯だ一種の感じ――美くしい感じを読者の頭に残りさへすればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない。さればこそ、プロットもなければ、事件の発展もない。
美を生命とする俳句的小説もあつてよいと思ふ。
小説に「俳句の方法」を応用したことに驚嘆し、余計な詮索はせずに、「プロットもなければ、事件の発展もない」一章、一場面に俳句的感興を催し、「唯だ一種の感じ―美くしい感じ」を読み取り、「美を生命とする俳句的小説」として味わっていればよいのかもしれない。ただ、そういってばかりいられないのが研究者である。
……此方面の消息を解する人ならでは殆んど小説と認めざる程の変調なものに候幸に一二好事家の眼にとまりて、主意はこゝにあるぞと之でも鑑賞の特典に浴すれば小生の本望に候 (明治三十九年八月三十一日書簡)
「此方面」とは俳句の「方面」である。ここで注目したいのは、俳句の「方面の消息を解する人」に「主意はこゝにあるぞと之でも鑑賞の特典に浴すれば小生の本望に候」とあるように、特定の読み手、つまり俳句の「方面の消息を解する人」に期待していることである。確かに、俳句の「方面の消息を解する人」がいたにはいて、「主意はこゝにあるぞ」と理解した人もいたかもしれない。例えば、首藤氏もそうであるが、俳人協会新人賞受賞者で、「鷹」同人会長の奥坂まや氏は「草枕」の愛読者で、私が「草枕」がいかに「俳句の方法」(レトリック)を使っているかを説明すると、俳人として大いに同感できると言ってもらった
⇒夏目漱石「草枕」 そのⅡ に続く