【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会会長代行 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

「火神」主宰 「俳句大学」学長 「Haïku Column」代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

【夏目漱石】「草枕」 Ⅰ  夏目漱石の『草枕』論

2010年09月12日 09時54分13秒 | 論文

「『仕方がない』日本人をめぐって : 近代日本の文学と思想」所収(2010.9・南方新社)

内容(目次より)

第一章 夏目漱石「こゝろ」/首藤基澄
第二章 芥川龍之介「羅生門」/古閑 章
第三章 高村光太郎と金子光晴/浦田義和
第四章 野間宏「暗い絵」/和田 勉
第五章 遠藤周作「海と毒薬」/管原とよ子
第六章 基調講演とパネリスト報告
     基調講演
     日本人の生を写した「仕方がない」/古江研也
     パネリスト報告
     文学研究者にして俳人/永田満徳
     首藤氏の俳句と「仕方がない生」/馬場純二
第七章 夏目漱石「草枕」/永田満徳

 

夏目漱石「草枕」 そのⅠ
―「俳句の方法」を駆使した俳句的小説―
                           
始めに 俳句=漱石文学の底流

夏目漱石は熊本時代、多くの俳句を作り、全体の四割、つまり千句あまりを作っている。漱石文学における、その俳句の影響については一過性のものとは考えられない。漱石文学の底流に流れていて、漱石文学に滋養を与えていると考える。
小森陽一氏は「俳句と散文の間で―子規を生きる漱石」(『漱石研究』NO.7、一九九六年十二月、翰林書房)の中で、「昔」(『永日小品』)を取り上げて、「重要なことは、ピットロホリーのディクソン邸の散文的な描写を、ほとんど自動的に連続する俳句のつらなりに置き換えることができるという点である」と述べ、「散文」と「俳句」の連続性を指摘している。その例としては次の通りである。
  「昔」(冒頭)ピトロクリの谷は秋の真下にある。
        ピトロクリの谷は秋の真下なり(小森)
「昔」(末尾)崖から出たら足の下に美しい薔薇の花瓣が二三片散つてゐた。
        足の下薔薇の花瓣二三片(小森)
このようなことから、小森氏は「漱石にとって、ピットロホリーの光景と、過去の経験を呼び起こしながら想起する媒介となったのが、俳句なのであろう」として、俳句が記憶装置として働いていたのではないかという考えを提出している。「散文」ではあるが、一九〇九(明治四十二)年発表の「昔」((『永日小品』)という散文は六年余の前のピットロホリー訪問の体験が俳句の素養を下地にしているということである。記憶装置としての俳句という見解は突飛なものとして看過することはできない。やはり、俳句は漱石文学の底流に流れていると言わなければならない(注1)。
では、「草枕」はどうか。漱石自身が「俳句的小説」と言っているから、疑うべくもなく、「小説」と「俳句」とが密接に関わっている作品であると言ってよい。ところが、首藤基澄氏の(「「草枕」への視角」『近代文学と熊本』、二〇〇三年十月、和泉書院)によれば、

……「草枕」はなぜか漱石が意図した「俳句的小説」としては読まれていない。その理由は簡単である。多くの研究者(漱石学者)が俳句に暗いという、この一語につきる。

ということである。確かに、首藤氏自身俳句をよくし、その実践を通して、「草枕」を俳句的側面で切り込み、鋭く読み込んでいるのは、「「草枕」への視角」(前掲書)はさることながら、「漱石の「仕方がない」態度―「現代日本の開化」と「草枕」『「仕方がない」日本人』」(二〇〇八年五月、和泉書院)である。
そこで、私が特に注目するのは、次の文章の中の語句である。

……高島田にオフィーリアの顔をはめたような人間が近代の日本人の図柄だったのである。この不気味さは近代の混乱した日本人の象徴以外の何ものでもない。ここから出発して、やはり近代(二十世紀)に毒された那美さんの顔が絵になるというところまで、「詩境」を追い求め、俳句の方法を駆使して、混乱した近代に幕を引いて巧妙に隠しながら、危うく成立させた「草枕」(傍線筆者)

「俳句の方法を駆使して」の語に反応したのは、私自身が俳句実作者であることもあって、「草枕」が「俳句的小説」とわざわざ言っているのはどういうことかが気になっていたからである。そこで、私は私なりに漱石がどのような「俳句の方法」を駆使して、「草枕」を描いているかを見てみたい。結論的に言うと、私も夏目漱石が「草枕」を「俳句的小説」と言ったゆえんは何かというと、「俳句の方法」を駆使していることにあると思っている。

二 子規派の潮流の一派としての俳句的小説

「草枕」は雑誌『新小説』(春陽堂・明治三十九年九月一日発行)に発表された。この時期の俳句界の状況は子規亡き後、子規の後継者争いの様相を呈している。

子規没後、虚子は空想的傾向を伸長させることを目指し、碧梧桐は〈見たところ聞いたところを其儘句に〉する傾向を進展させるというゆき方を示し、この相違は明治三十六年、『ホトトギス』に碧梧桐が発表した「温泉百句」を通して正面から対立する。(中略)(虚子は)そして三十九年には、〈今日の客観写生趣味の句に飽足らぬといふことであれば、今後益々客観写生趣味の句を奨励すべきである〉という考え方を明らかにした。この後、文壇では自然主義文学が隆盛となり、この影響の下に碧梧桐は俳句の新化を試みる。この運動は通常、新傾向俳句運動と呼ばれているのである
(松井利彦「明治俳句概観」(『研究資料現代文学6 俳句』、昭和五十五年七月、明治書院)

こういう運動の中で、漱石は漱石なりの俳句観を示す必要があった。それが俳句的でありながら小説であるという「草枕」である。しかし、「草枕」は「芸術館及人生観の一局部を代表したる小説」(明治三十九年八月七日書簡)と言って、決して俳句観とは言ってはいない。「草枕」がいくら「俳句的小説」と言っても、小説であって、俳句ではない。「草枕」はあくまでも「俳句の方法」を駆使して描いた小説である。「草枕」がその実践であるとよくいわれる一九〇七(明治四十)年五月単行本初版「文学論」がある(注2)。この「文学論」で論じている文学の様々な方法論は俳句実作で培った「俳句の方法」の影響に因るものであると思われる。それはそれとして、「草枕」は文学の普遍的特質に迫ろうとした「文学論」を反映するものであったことは間違いない。従って、端に「俳句の方法」で小説を描くことに主眼とする訳には行かない事情があった。どうしても「俳句の方法」を駆使しつつも、「芸術観及人生観の一局部を代表したる小説」でなくてはならなかった。このことは、「俳句的小説」といった形で、虚子や碧梧桐らとは違った子規派の潮流を歩み始めたことを意味する。ただ、「文学論」の複雑な方法を適用しようとしても、それは初期の漱石には荷が重すぎた。そこで、昔取った杵柄といった調子で、「俳句的」に小説を書こうとしたとしても不思議ではない。そういう意味ではいかにも「草枕」は腕試し的な要素が強い作品である。かといって、稚拙であるとは限らない。

三 「俳句の方法」を駆使した「草枕」

首藤氏が「「草枕」への視角」(前掲書)の中で、「俳句の近代など考えたことのない散文研究家ばかりが幅をきかせている。これでは漱石の意図を無視して勝手な読みに耽けるのも無理はない」という痛烈な「草枕」論者批判は当を得ている。確かに、俳句のイロハが分かっていると、「草枕」がいかに「俳句的小説」かが分かる。そういうことで、俳句とは何をどのように詠むといいのかという「俳句の方法」についてお復習いをしてみたい。俳句は五・七・五と文字(音数)をそろえればいいというものではない。寺田寅彦が「夏目漱石先生の追憶」(昭和七年十二月)の中で漱石の言として述べているように、まさしく「俳句はレトリックの煎じ詰めたもの」である(注3)。その代表的な「俳句の方法」(レトリック)を簡単に紹介する。その際に、漱石の俳句のみを取り上げ、その俳句に対して同世代の人間がどう標語しているかを例示することによって、漱石がどれだけ「俳句の方法」(レトリック)に習熟していたかを示して置きたい。参考にしたのは、漱石俳句に対して、門下生と呼ばれる寺田寅彦・松根豊次郎・小宮豊隆が標語している「漱石俳句研究」(一九二五年七月、岩波書店)である。

写生     対象(自然)をありのままに見る
知識や理屈によって作られる「月並俳句」を避け、「実景」の「無数の美」を「探る」(子規)。
      若草や水の滴る蜆籠          漱石
   freshな感じ・写真の様な句(小宮蓬里雨)
季語     季節を表す言葉
 季語の本意を活用し、句の世界を豊かに、複雑にする。
      人に死し鶴に生まれて冴返る      漱石
   高潔な感じと身にしみる冴え返るがぴたりと合ふ。(小宮蓬里雨)
連想     季語の内包する美的イメージを表す
 季語のイメージを拡大し、自在な世界を作り出す。
      寒山か拾得か蜂に螫されしは      漱石
   絵の表情から蜂に螫されたといふ架空の事実を連想した。(寺田寅日子)
取合せ    二つの相反するものの調和
 全く関係のないものを組み合わすことによって、俳句独特の思わぬ効果をあらわす。
      餅を切る包丁鈍し古暦         漱石
   包丁鈍しと古暦とがとり付いたところに捨て難い味がある(松根東洋城)
空想     現実にありそうにもないことを想像する
 季語のイメージを拡大し、句の世界を広く豊かにする。
      無人島の天子とならば涼しかろ     漱石
       思ひ切つた空想を描いた句。(寅日子)
省略     連続する時間を打ち止め、空間を切断する
 省略することによって、表現したいものを鮮明にし、余韻を生み出す。
切れ・切れ字 「切れ」は句を二つに切ることで、「切れ字」には「や・かな・けり」などの助詞、助動詞がある。
「切れ」は「省略」とも取られるが、主に季語の味わいを深め、「切れ字」は一句の完結性や二重構造、意味性をもたらす
デフォルメ  対象の強調
 強調することによって、意外性とともに奥行きをあらわす。
      ふるひ寄せて白魚崩れんばかりなり   漱石
   直感的に洞察する(寅日子)
比喩    あるものを別のものに喩える
 相手のよく知っているものを借りて擬えることによって、直接的に実感させる効果がある。
      日当りや熟柿の如き心地あり      漱石
    熟柿になつた事でもあるような心持のある所が面白い(蓬里雨)
擬人化   人間でないものを人間に擬える
 人間に擬えることによって、ある種の滑稽味や親近感を持たせる効果がある。
      叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな     漱石
    此処では木魚を或意味で人格化している(蓬里雨)
同化    主体と対象の一体化
 読む対象を深く掴み、対象そのものになることによって、対象の本質を明らかにする
菫程な小さき人に生れたし       漱石
   作者が菫と合体し同化する(東洋城)
 
このように、漱石の俳句に他者の評語を付け加えることによって、漱石における「俳句の方法」に客観性を持たせたつもりである。なお、「省略」と「切れ」「切れ字」は漱石の俳句を例示していない。それは、「省略」は俳句が言葉を惜しむ文芸であり、俳句がすべて「省略」で成り立っているからである。漱石の俳句の場合も例外ではない。また、「切れ」「切れ字」は小説などの散文にはなく、俳句独特のレトリックで、ごく当たり前に使用されるからである。漱石の俳句にもよく使われていて、特別に例として取り上げる必要もない。ここに示した「俳句の方法」で、「連想」は「「連想」、これこそ子規に発した漱石の、漱石たる独自の方法」(首藤基澄「「草枕」への視角」、前掲書)であるし、「空想」も「かういふ筋の句は先生には可成多く他には少ない」(東洋城)ものもあるが、しかし、現在でもこれらの「俳句の方法」はごく一般的で、この方法を知らずして俳句を作る人はまずいない。
 
四 「草枕」=「俳句の方法」の使用例

「草枕」が「俳句的小説」であるゆえんを「俳句の方法」と対となる形で説明していきたい。もちろん、この説明は畢竟、漱石という作家(語り手)が「草枕」をどう描いた(語った)のかということで、その確認作業をすることに他ならない。
写生=「俳句の方法」の根本的なものは、正岡子規が「写実(写生)の目的を以て天然(自然)の風光を探ること、尤も俳句に適せり」「俳句大要」(新聞『日本』、明治二十八年)と唱えた「写実(写生)」である。西洋画論の「写生」なる言葉を子規に教えたのは洋画家の中村不折である。「草枕」の主人公が俳人ではなくて、画工であるのはここら当たりの事情があるかもしれない。「写生」が意味を持つのは、子規が、一八九五(明治三十)年の長編時評「明治二十九年の俳句界」(新聞『日本』)で説いているように、「非情の草木」や「無心の山河」には「美を感ぜしむる」ものがあるからである。首藤氏の『「仕方がない」日本人』(前掲書)によれば、「人情の美」を切り離して、「自然の美」に焦点を当てているのが「草枕」だということである。いずれにせよ、漱石が「余が『草枕』」(一九〇六(明治三十九)年十一月十五日)の自作解説「美を生命とする俳句的小説もあってよい」、あるいは森田末松宛書簡(明治三十九年九月九日)「草枕の主張が第一に感覚的美にある」と、「草枕」が「美」を描いた小説であることを強調している理由はここにある。
季語=「草枕」では、現代の歳時記には「春」の項に載っていない季語もあるが、「季語」がこれでもか、これでもかと出てくる。算用数字は「季語」の出語数である。

一章  雲雀13 菜の花7 桜2 山桜・春・春の日・蒲公英・春の山路・筍・春の雨・春の山1
全章  春57  春の日・春の雨・春の山・春の風・春の星・春宵・春水・春光・     春の景色・春の海・春の色・春の声・春の夜・春の昼・春の温泉・        春の草・春恨・春の雲・
全章  雲雀・菜の花・桜・蒲公英・筍・鶯・梅の花・海棠・朧・青苔・枸杞・蜜柑・蝶・燕・陽炎・牡蠣・馬鹿貝・馬刀貝・霞・落椿・水仙・花曇・葛湯・(春の)稲妻・梨花・菫・木蓮・木瓜
 
俳句では「季語」は「俳句の生命」(寺田寅彦)で、俳句は「季題を主題として詠ずる詩」(高浜虚子)と定義づけられるほど、必須の条件となっている。画工自身が詠んだ俳句の「季語」を入れたとしても、これほど多くの「季語」を使っている小説は多くない。これをもって、「草枕」を「俳句的小説」と言っても言い過ぎではないだろう。
画工が「春」に対する「心」の内を次のように披瀝している。

余が心は只春と共に動いて居ると云いたい。あらゆる春の色、春の風、春の物、春の声を打つて、固めて、仙丹に練り上げて、それを蓬莱の霊液に溶いて、桃源の日で蒸発せしめた精気が、知らぬ間に毛孔から染み込んで、心が知覚せぬうちに飽和されて仕舞つたと云いたい。[六]

画工は「春」という季節をことさら強調している。特に俳句的小説「草枕」にとって、「季語」は作品の善し悪しを決めるうえで重要な要素である。「季語」の面からいえば、那古井の旅は四季の内ではどうしても「春」でなければならなかった。というのも、画工の願望が、

たる春日に背中をあぶって、に花の影と共に寐ころんで居るのが、天下の至楽である。考えれば外道に堕ちる。動くと危ない。出来るならば鼻からもしたくない。畳から根の生えた植物のようにじつとして二週間り暮して見たい。[四]

というところにあるからである。多くの「春」の季語を散りばめた「草枕」は、「春」を背景にとして、「春」という季節の普遍的な情緒、美意識のエッセンスを堪能させてくれる。その点で、「春」という「季語」の選択は間違っていなかったというべきである。「草枕」は明治三十年の暮れの旧玉名郡天水町小天の旅をモデルにしていることは確かで、季節は「冬」である。しかし、「季語」の選択に関しては明治三十年末の久留米旅行の「春」の体験が最もよく生かされていると言わなければならない(注4)。
連想=首藤基澄氏は「子規と漱石――写生と連想――」(前掲書)の中で、漱石俳句で最も特徴的なものは「連想」であるとして、第十章の鏡が池の場面で、「余は深山椿を見る度にいつでも妖女の姿をする」で始まる文章を引用し、「連想」によって、「漱石の複雑な内部世界が見えてくる」と指摘している。「連想」は季語「椿」のイメージを深める効果があるので、首藤氏の指摘は正鵠を得ている。
取合せ=芭蕉が「高く心を悟りて俗に帰るべし」(土芳『三冊子』)と最終的には「俗」を奨励しているのは、俳句のルーツの俳諧は「俗」の文芸であったからである。しかし、その一方では「つねに風雅の誠を責悟りて、今なすところの俳諧にかへるべし」(土芳、前掲書)とあるように、「風雅の誠を責悟」ることも要請している。この「雅」と「俗」との「取合せ」が「取合せ」の基本中の基本である。第三章には「妙に雅俗混淆な夢を見たものだと思つた」と、「雅」と「俗」の語彙が出てくる。

御茶の御馳走になる。相客は僧一人、観海寺の和尚で名は大徹と云うそうだ。俗一人、二十四五の若い男である[八]

「和尚」はさしずめ「雅」というところだろう。この一文には「雅」(和尚)と「俗」が対比的に使われていることは明らかである。これは、「雅」と「俗」の「取合せ」を意識してのことである。「春」景色と髪結床の「親方」との関係も一種の「取合せ」である。

景色と此親方とは到底調和しない。

今わが親方は限りなき春の景色を背景として、一種の滑稽を演じて居る。[五]

とあるように、「春」景色という「雅」と髪結床の「親方」という「俗」との「取合せ」が俳句と同様の「滑稽」味という、思わぬ効果を生み出している。画工は春景色と髪結床の親方とは「調和」しないといってみたものの、「な春の感じを壊すべき筈の彼は、却つて長閑な春の感じを刻意に添えつゝある」[五]ことに気づく。二つの事柄を組み合わせる「取合せ」のことを二物衝突ともいう。対比はその一つであるが、二物は対立したまま終息するのではなく、「調和」を醸し出さなければならない。いわゆる「二項対立の調和」、もっと大胆に言えば「不調和の調和」(西脇順三郎「詩學」、筑摩書房)というパラドックスである。章単位でも、観海寺の場面を「雅」とすれば、髪結床の場面は「俗」ということになる。「雅」の世界だけでは古色蒼然でありすぎるが、そこに「俗」なる物を取り合せることで、なんと生き生きとしてくるではないか。
 
此夢の様な詩の様な春の里に、啼くは鳥、落つるは花、湧くはのみと思い詰めて居たのは間違である。現実世界は山を越え、海を越えて、平家の後裔のみ住み古るしたる孤村に迄る。[八]

「夢のような」那古井の里の背後に「現実世界」が揺曳している。清水孝純氏が「「草枕」の世界」(『漱石作品論集第二巻 坊っちゃん・草枕』、平成二年十二月、桜風社)の中で、いみじくも「「草枕」は対比的なものを巧みに織りまぜながら、それらを調和させ、渾然たる美の世界を作り上げている」と述べているように、「取合せ」は並べて置くだけではあまり効果がない。そこに、ある「滑稽」味や「調和」が引き出されていなくてはいけない。「草枕」はそういう意味で、「取合せ」の効果を充分に取り入れた作品であるといえる。
空想=第六章の冒頭「夕暮の机に向う」ところから、「思われる」「思えば」「考えた」という言葉を挟みながら、延々と語られ、倦むことを知らない。これこそ、「空想」の特質そのものであろう。さらに、あえてその「空想」の一例として挙げるならば、次の箇所がそうだろう。

又一つ大きいのが血を塗つた、人魂の様に落ちる。又落ちる。ぽたりぽたりと落ちる。際限なく落ちる。
   こんな所へ美しい女の浮いてゐる所をかいたら、どうだらうと思ひながら、元の所へ帰つて、また煙草を呑んで、ぼんやり考へ込む。[十]

鏡が池に落ちるところに、「美しい女の浮いているところ」を書こうと「思いながら」「考え込む」、つまり「空想」する。また、贅言を労すると、画工の感慨や芸術観、あるいは文明批評が次々と繰り出されていて、当時の漱石の知識、教養が総動員されているかのような印象が強い。この衒学的な部分がよくもあしくも「草枕」を特徴的なものにしている。衒学的な部分のどれもが「空想」の所産であるといえなくもない。もちろん、どこが「空想」で、どこが「連想」か、判然としないところがあるが、おそらくは「空想」と「連想」とがない交ぜになっているのだろう。「空想」としても、「連想」としても、これらの「俳句の方法」が使われていなかったら、「草枕」は膨らみのない、エピソードの寄せ集めに過ぎない小説となっていたはずである。
省略=五・七・五という、わずか十七文字(十七音)の言葉が一篇の詩として独立するには言いたいことを抑えて、核心部分だけを表現する。このことを「省略」という。
 
渦捲く煙りをいて、白い姿は階段を飛び上がる。ホヽヽヽと鋭どく笑ふ女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第に向へ遠退く。余はがぶりと湯を呑んだ儘の中に突立つ。驚いた波が、胸へあたる。縁を越す泉の音がさあさあと鳴る。[七]

「私が身を投げて浮いて居る所を――苦しんで浮いてる所ぢやないんです――やすやすと往生して浮いて居る所を――奇麗な画にかいて下さい」
「え?」
「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでせう」
女はすらりと立ち上る。三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、顧みてにこりと笑つた。茫然たる事多時。[九]

第七章の「白い姿は階段を飛び上がる。ホヽヽヽと鋭どく笑ふ女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第に向へ遠退く」、あるいは第九章の「女はすらりと立ち上る。三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、顧みてにこりと笑つた」といった終末部分は、いずれも「飛び上が」り、「立ち上が」った後、「風呂場を次第に向へ遠退」き、「部屋の入口を出る」といった感じで、気懸かりな立ち去り方をする。あたかも舞台劇のような、鮮やかな幕切れである。画工ならずとも、「茫然」となるのは致し方がない。この各章の終わり方はまさしく「省略」の方法が用いられているといえる。冗漫さを取り除くことによって余韻を生み、読み手の想像力を引き出し、表現したいものを鮮明に浮かび上がらせるのが「省略」の効果である。「草枕」はこれ以外の章でも例として挙げることができるので、この効果を十二分に考慮して書かれていると思われる。
切れ・切れ字=俳句では「季語」「取合せ」と並んで重要視されるのが「切れ」「切れ字」であるが、「草枕」では使用例を見いだせない。「切れ」「切れ字」は俳句独特の「俳句の方法」であるので、「草枕」という小説に取り入れようとしても取り入れることが難しかったというのが実情であったろう。ただ、「切れ」を「省略」と捉える見方もあり、そういう見方からすると、「省略」の使用例と重なる。漱石が「草枕」に中に「切れ」「切れ字」を取り込んでいるとすれば、通常、季語の部分と叙述の部分とに「切れ」が用いられることが多いので、季語の部分は那古伊の春景色、叙述の部分は各エピソード、特に那美の行動や言葉を表現していると推測される。従って、これを小森陽一氏の顰みに倣って、俳句にすると、
春那古伊那美の浮かべる憐れ顔
春の里憐れ催す那美の顔
というような句になり、「草枕」全体をイメージ化したものになる。漱石はこのイメージを全体の構想として、「草枕」という作品を書いたのかもしれない。
デフォルメ=素材や対象を変形し、誇張して表現することが「デフォルメ」である。ここでは那美の行動や言葉に注目してみたい。

「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでせう」
女はすらりと立ち上る。三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、顧みてにこりと笑つた。茫然たる事多時。[九]
                                
余は覚えず飛び上つた。女はひらりと身をひねる。帯の間に椿の花の如く赤いものが、ちらついたと思つたら、既に向ふへ飛び下りた。夕日は樹梢を掠めて、幽かに松の幹を染むる。熊笹は青い。
又驚かされた。[十]

中島邦彦氏が「那美さんを論ずることは、『草枕』全体を論ずることでもあろう。その謎に満ちた言葉と行動は、画工さえも驚かすほどなのだ」(「作中人物事典」『夏目漱石辞典』別冊國文學NO39、學燈社)と述べているように、夢うつつの時、自然の中に自己を放下している時に意想外な現れ方、立ち去り方をして、画工を驚かす那美の「言葉と行動」はデフォルメの典型であると考えていいだろう。この那美の奇矯な振る舞いという「デフォルメ」によって、那美の魅惑的な人物像を画工や読み手に印象付けている。
比喩=俳句の根本は「写生」であるが、「写生」は見えるように写そうとした結果、「比喩」表現になることがある。第七章の「流れて行く人の表情が、丸で平和では殆んど神話か比喩になってしまう」には「比喩」という語がある。第十二章の「ごろりと寐る。帽子が額をすべつて、やけに阿弥陀となる」という表現は「隠喩」である。

其上出て来た婆さんの顔が気に入つた。
   二三年前宝生の舞台で高砂を見た事がある。その時これはうつくしい活人画だと思つた。箒を担いだ爺さんが橋懸りを五六歩来て、そろりと後向になつて、婆さんと向ひ合ふ。その向ひ合ふた姿勢が今でも眼につく。余の席からは婆さんの顔がど真むきに見えたから、あゝうつくしいと思つた時に、其表情はぴしやりと心のカメラへ焼き付いて仕舞つた。茶店の婆さんの顔は此写真に血を通はした程似て居る。[二]

婆さんが云ふ。
「嬢様と長良の乙女とはよく似て居ります」
「顔がかい」
「いゝえ。身の成り行きがで御座んす」[二]

那美と永良の乙女との関係もさることながら、峠の茶屋の「婆さんの顔」を見ていると、先年見たことのある高砂の「婆さんの顔」に「似て居る」という。つまり、峠の茶屋の「婆さんの顔」を高砂の「婆さんの顔」に擬えているのである。

余は此輪廓の眼に落ちた時、桂の都を逃れた月界のが、の追手に取り囲まれて、しばらく躊躇する姿と眺めた。
   輪廓は次第に白く浮きあがる。今一歩を踏み出せば、折角の嫦娥が、あはれ、俗界に堕落するよと思ふ刹那に、緑の髪は、波を切る霊亀の尾の如くに風を起してと靡いた。[七]

「霊亀の尾の如くに」という「直喩」は漱石以外の作家でもよく見受けられ、目新しいというものではない。やはり注目したいのは「擬え」である。ここでは那美である「輪廓」の行動を「嫦娥」の行動に擬えている。その「比喩」(擬え)たるや、漱石の筆致の冴えが最もよく生かされている。これらの奇抜な「比喩」(擬え)によって、伝説や能舞台、はては中国の故事などの内容が「草枕」の世界に付与されて、内容の多重性、重層性を生み出している。
 擬人化=俳句では比較的に多く使われる「擬人化」であるが、「草枕」ではあまり使われていない。例えば、この程度である。

余は庭へ出る。茶畠の十坪余りを前に控へて、三本の松が、客間の東側に並んで居る。此松は周り一尺もある大きな樹で、面白い事に、三本寄つて、始めて趣のある恰好を形つくつて居た。小供心に此松を見ると好い心持になる。松の下に黒くさびたが名の知れぬ赤石の上に、いつ見ても、わからず屋のの様にかたく坐つて居る。余は此灯籠を見詰めるのが大好きであつた。灯籠の前後には、苔深き地を抽いて、名も知らぬ春の草が、浮世の風を知らぬ顔に、独り匂ふて独り楽しんで居る。[七]

「鉄灯籠」を「わからず屋の頑固爺」、「春の草」を「浮世の風を知らぬ顔に、独り匂ふて独り楽しんで居る」というふうに、「擬人化」している。「連想」「比喩」などと同じく、「擬人化」も凡庸な発想では月並みな表現になって、文章の味わいも半減するものになる。しかし、漱石の場合、それらの「俳句の方法」は独創的で、発想も豊かである。これはとりもなおさず、漱石の文才の豊かさを示すことになり、漱石独自の作品を作り上げる表現になっているということである。
このように、個別的に説明してきたのは、「俳句の方法」が有効かつ縦横に使われていることを知ってもらいたいためである。もちろん、特に画工が驚く場面は引用部分が同じ箇所であり、「俳句の方法」が重複しているところもある。しかし、そうであってもおかしくない。俳句では、短詩型であるがゆえに、一句の中に「俳句の方法」が幾重にも使われ、俳句を俳句たらしめ、内容に厚みをもたらしていることは忘れてはいけない。
漱石俳句の特色については、首藤基澄氏の「子規と漱石――写生と連想――」(前掲書)に指摘がある。子規の漱石に下した二字評の「活動」を基にして、

(1)「人事風光の有の儘なる姿」の表現。
(2)「感じたる物象」の「感じたる儘の趣」の表現。
(3)一定の景物」でない「心持ち」の表現。
子規の写生説は(1)が中心であった。漱石は(2)で「物と感じ」の両立を考え、さらに(3)で抽象的な「心持ち」の表現にまで踏みこんでいるのである。具象から抽象まで、連想法によって自在な世界構築が試みられようとしていたとみていい。その時、対象や方法を限定することなくいかようにも「活動」できる幅があった。
 
と分析している。つまるところは私が縷々と説明してきた「俳句の方法」を使って描いた「草枕」の特色は一言で言えば、特に「対象や方法を限定することなくいかようにも「活動」できる幅があった」とする首藤氏の漱石俳句に対する理解に尽きる。驚くべきことに、漱石俳句の特色と「草枕」の特色が一致するのである。ここにこそと言うべきか、「俳句的小説」たるゆえんがある。漱石俳句と「草枕」の特色の一致もまた、首藤氏が「子規と漱石――写生と連想――」(前掲書)の中で述べていることで、「明治二十九年の俳句界」(前掲書)において、子規が漱石の特色としてあげた言葉がそっくりそのまま「草枕」の特色を言い表しているとして、次のような考えを示している。

……漱石俳句の特色がそのまま「草枕」の世界の特色をなし、詠む者を強く刺激する。あえていえば、俳句よりも「草枕」の方が密度が濃いといってもいい。

私はこれらの首藤氏の炯眼な指摘を踏まえて、俳句的小説「草枕」をさらに各種の「俳句の方法」(レトリック)を示して、漱石俳句と「草枕」の特色の一致を跡付ける作業をしたに過ぎないのではないかとさえ思っている。
「草枕」は名文句が多く、画工と那美の小説問答も印象深い。画工は小説の読み方として、「初から読んだつて、仕舞から読んだつて、いゝ加減な所をいゝ加減に読んだつて、いゝ訳ぢやありませんか」[九]と那美に教える。これを俳句的観点からみると、この小説の読みが決して人を食っていないことがわかる。「草枕」は煩を厭わずに言うと、「俳句の方法」が駆使されている。そこで、一章、一場面が俳句の一句に近い世界と考えたらどうだろうか。「草枕」でよく話題になる峠の茶屋の場面、風呂場の場面、髪結床の場面、鏡が池の場面、観海寺の場面、最後の場面など、その代表的な場面が鮮やかに脳裏に浮かぶのはそれら場面が俳句の一句のような世界を持っているからである。ということは、「草枕」の一章、一場面は、それぞれが独立した世界であるということである。もしそうであれば、「草枕」そのものがどこから、どこを読んでもいいことを証明した小説ということになる。この常識を覆す読み方ができる小説を書くことはかなり実験的なものであったに違いない。それを可能にしたのが「俳句の方法」を縦横に駆使したことにあったのである。従って、次の「余が『草枕』」という文章はこれ以上の自作解説はないと言わざるを得ない。

私の『草枕』は、この世間普通にいふ小説とは全く反対の意味で書いたのである。唯だ一種の感じ――美くしい感じを読者の頭に残りさへすればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない。さればこそ、プロットもなければ、事件の発展もない。

美を生命とする俳句的小説もあつてよいと思ふ。

小説に「俳句の方法」を応用したことに驚嘆し、余計な詮索はせずに、「プロットもなければ、事件の発展もない」一章、一場面に俳句的感興を催し、「唯だ一種の感じ―美くしい感じ」を読み取り、「美を生命とする俳句的小説」として味わっていればよいのかもしれない。ただ、そういってばかりいられないのが研究者である。

……此方面の消息を解する人ならでは殆んど小説と認めざる程の変調なものに候幸に一二好事家の眼にとまりて、主意はこゝにあるぞと之でも鑑賞の特典に浴すれば小生の本望に候                (明治三十九年八月三十一日書簡)

「此方面」とは俳句の「方面」である。ここで注目したいのは、俳句の「方面の消息を解する人」に「主意はこゝにあるぞと之でも鑑賞の特典に浴すれば小生の本望に候」とあるように、特定の読み手、つまり俳句の「方面の消息を解する人」に期待していることである。確かに、俳句の「方面の消息を解する人」がいたにはいて、「主意はこゝにあるぞ」と理解した人もいたかもしれない。例えば、首藤氏もそうであるが、俳人協会新人賞受賞者で、「鷹」同人会長の奥坂まや氏は「草枕」の愛読者で、私が「草枕」がいかに「俳句の方法」(レトリック)を使っているかを説明すると、俳人として大いに同感できると言ってもらった

⇒夏目漱石「草枕」 そのⅡ に続く

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『風浪』のモデルと改稿=木下順二

2007年03月03日 17時08分59秒 | 論文

初出 「方位」25号 三章文庫 2007・3・3

『風浪』のモデルと改稿

                       永田満徳

一 寄贈資料

平成十九年、熊本近代文学館では、生前の多大な文学業績を讃えて、木下順二追悼展を企画し、文学講座を計画した。その文学講座の講師の依頼があり、資料を集めていたところ、木下順二から寄贈を受けた膨大な資料があるという。それは近代文学館の光岡明前館長が木下順二の資料の散逸を危ぶみ、寄贈を求めたことに応じて、およそ二年前、平成十六年十二月、木下順二自ら資料を整理し、寄贈したものである。『風浪』資料はきちんと整理され、『風浪』創作ノートと書かれた箱の中に入れていた。箱の中には『風浪』関係資料が三点(その一つは三冊のノート)入っている。

その一つは、『五十年記念 熊本班追懐録』という冊子である。その冊子の左上に「1935 福田先生より」の書き込みがある。福田先生は福田令寿氏のことで、ジェーンズの孫弟子にあたるとされる。大正十五年にまとまられた『五十年記念 熊本班追懐録』は文語体のかなり長文の文章で、海老名弾正をはじめ、ジェーンズの教え子たちから直接見聞きしたジェーンズに関するエピソードを丹念に調べ上げ、その人間像、教育内容を復元している。『熊本班追懐録』の第二章には横井小楠を淵源にする「熊本洋学校の背景」として、勤王党・学校党・実学派が手際よく紹介されている。

『風浪』というのは全体として一八七七年、西南戦争の前夜――私は元号反対論者ですから、天皇暦というのは使いたくないので、主として西暦で申します
けれど――その頃の熊本というのは、ご存じのように昔から藩の伝統を引き継いだ学校党というもの、それから横井小楠の系譜の実学党というもの、それから極右の神風連、それからジェインズの学校――これは学校党の政策の一つとしてつくられた学校ですが――その中から熊本バンドという、奉教趣意書というのを書いて花岡山でクリスト教の宣言をしたグループも出てきます。ただしクリスト教の宣言なんですけれども、奉教趣意書というのは意外に、何ていうのかな、国家意識といいますか、それが強くて宗教的要素が非常に少ない文章なんですが、とにかくそういうグループが出てきた。そういういろんな傾向のグループの、青年の群像がいろいろ悩むということを書いた芝居です、「風浪」というのは。「ジェーンズとハーン記念祭講演」(『ジェーンズとハーン記念祭~報告書~』平成四年七月二〇日・熊本日日情報文化センター)

この木下順二の熊本の明治初期の認識は『熊本班追懐録』の「熊本洋学校の背景」の記述とも一致していて、『熊本班追懐録』が『風浪』を構築する際に大いに参照されたものと推察される。木下順二は『熊本班追懐録』の奉教趣意書の署名者部分ではその名前の頭に○を付けているが、『風浪』では洋学校関係者が最も多くモデルになっていることと関係があるのかもしれない。そのほかの個所でも傍線が多く引いてあり、『風浪』の基礎資料として重要である。

 二つは、A5ノートサイズの『神風連資料一』である。「昭和十四年」の書き込みがある。かなりの手書きがしてあり、神風連の事跡を多く調べていたことがわかる。この資料は、一九三九年十二月一日に熊本騎兵第六連隊に現役入営と決まっていた前日、十一月三十日木曜日午後二時に、『神風連』という題で一七二枚を書き上げた、「神風連の努力は結局はむなしいものだったということを一生懸命に書いた」(「座談会 歴史と文学」『文学』)一九百五十六年六月)ものであろう。『神風連』という題の戯曲は原『風浪』の意味を持つが、惜しいことにこの『神風連』という題の原『風浪』作品は存在しないので、この資料との関係は今ところはっきりといえない。

今回、最も注目すべきは次の三つ目の資料である。B5ノートサイズで三冊あり、いずれも『風浪』取材の資料で、カメラ好きであった順二らしい、写真資料である。ノートの表紙には『Janes旧邸』『花岡山』『近沢侃(すなお)氏邸』と書いてある。そのノートに貼ってある写真の保存状態はよく、中には昭和二十八年当時の様子が窺える貴重な写真もある。それぞれのノートから、写真資料が1953(昭和28)年の調査で、Janes(ジェーンズ)邸が8月21日、近沢氏邸の調査が8月24日、花岡山が8月24日の取材であることからもわかった。つまり、写真資料は8月21日から24日にかけてのものである。

もちろん、『風浪』の第一幕に「花岡山」、第三幕に「古城にある洋学校教師館」という記述があるところから、「古城にある洋学校教師館」はJanes(ジェーンズ)邸であり、「花岡山」は花岡山であることが今更言うまでもないこととされてきていたが、今回の新資料の出現で、そのいずれのモデルも実地調査されていること、そしてそのときの写真資料が残されていたことでそれぞれのモデルが確証された。この点で大きな収穫であった。が、それ以上に驚くべきことは「近沢侃(すなお)氏邸」と書いてあるノートの方で、『風浪』の山田蚕軒の屋敷がこれまで考えられてきた竹崎茶堂の日新堂ではなく、「近沢侃(すなお)氏邸」(資料1 カタカナ書きは木下、以下同じ、上の写真の右側は木下)であることがわかった。この新事実はこの写真資料の持つ意味として強調しすぎることはない。幸い、近沢侃(すなお)氏邸は現存していて、現在の徳富旧邸・大江義塾跡(資料2)である。徳富旧邸(大江義塾跡)は昭和三十七年に熊本市に寄贈されて、徳富旧邸(大江義塾跡)として公開されている。ちなみに、写真資料ノート『近沢侃(すなお)氏邸』は「近沢侃(すなお)氏邸」という表題の下には「(実学党士族・家)」とペン書きしてある。そのノートをさらにめくると、ページタイトルが「写真位置」とあり、近沢邸の見取り図(資料3)が鉛筆で描いてある。ところどころペン書きがしてあり、見取り図には①・②・・・と番号が振ってあった。その番号は写真の位置を示すもので、次ページからは近沢邸、及びその周辺を写した写真が貼ってある。表紙も含めて18ページほどであるが、それぞれの写真には簡潔で、要を得た説明が施されている。

  二 初演と出版

しかし、『風浪』第一稿(「人間」)は一九四七(昭和22)年に発表され、単行本『風浪』(未来社)は一九五三(昭和28)年二月に刊行されたことを知っている者にとっては不思議に思われる。なぜなら、この調査(写真資料)が『風浪』の第一稿の刊行後であり、少なくとも『風浪』第一稿の取材ではないということになるからである。

そこで、『風浪』の初演がぶどうの会によって、一九五三(昭和28)年九月二〇日から二二日まで、第一生命ホールにおいて、第九回勉強会としておこなわれていることに注目したい。

木下 ああ、そうだったかな。最後の書き直しの時のことはおぼえてるな……春にね、九州熊本のわが田舎のね、幕末以来の家のなかに閉じこもって書き直した記憶があるな。春から夏にかけてかな。そして、その書き直した原稿は、祖父江(昭二)君たちがやってた「文学評論」にのっけた。単行本としては新潮社と『角川文庫』(共に五五年)ですね。対談『木下順二作品集 Ⅵ』(未来社・‘62)

この文章からも、昭和二八年の春から夏にかけて、『風浪』の書き直しを行っていることがわかる。いずれにしろ、この調査(写真資料)が初演と出版とは深く関わっていることはまちがいない。

敗戦の翌年それに手を入れ始め、一九四七年三月号の「人間」に、全六幕、二九三枚の作品として発表することができた。五三年、ぶどうの会が初演するに当って、全六幕の第一幕を削り、全体に手を加えて全五幕とした。それがここに収めたものである。その際に削った第一幕は、『木下順二作品集 Ⅵ』(未来社)に、「風浪補遺」として収載してある。あとがき『木下順二戯曲選Ⅰ』(岩波文庫・1982・7)

つまり、初演準備のための調査である。『風浪』では洋学校も主な舞台の一つであるためか、写真資料の『Janes旧邸』の冊子は、ドアや天井、欄間など細かいところも写真にとってあり、明治当時のものかどうかを確認するメモが記してある。『花岡山』の冊子にしても、「花岡山頂カラ万日山ヲ望ム」のページでは万日山には段々畑がないことを気にしている。なぜなら、『風浪』で「万日山の段々畑」と事実と異なるからである。この取材で、木下順二がいかにモデルと初演舞台つくりとの参照に腐心しているかを想像できる。ここに、リアリズム劇作家としての木下順二の素顔が表れている。実際の初演舞台((資料4)を見ると、徳富旧邸(大江義塾跡)とはよく似ている。これらことからも、この調査が初演の舞台つくりのためのものであったことはもう疑う余地がない。

以上のことを踏まえて述べると、一九五三(昭和28)年九月の「ぶどうの会第九回勉強会」の上演台本(第二稿)のために「全体に手を加えて」(木下・既出)書き改めた。そして、この改稿が一九五四(昭和29)年一月に理論社から刊行された第三稿(最終稿・決定稿)の『風浪』であるということである

もしそうであれば、当然、この調査の結果が上演台本(第二稿)に影響し、第三稿(決定稿)に現れているはずである。第一稿の第二幕と第三稿の第一幕との比較とを比べてみよう。第三稿では第一稿の第一幕が削除され、第一稿の第二幕(以下、第一稿)と第三稿の第一幕(以下、第三稿)が同じ場面である。なお、傍線は筆者である。

第一稿の第二幕

前幕より一月ほど後、明治八年初夏の或る晴れた午後。

熊本西郊、花岡山の頂きに近い木崎蠶堂の屋敷。   

實學黨の長老木崎蠶堂が、しっかりした木組みだ(ママ)のただっ廣い士族屋敷を奉還金で買い取って、こここの高みに引き直したこの家の二十に餘る部屋部屋は、主人の奉ずる「實學」主義に從い、二三を残してすべで或いは養蠶の作業部屋に、或いは製茶の火室に使われて、例えば、右手に見える十畳敷きの書院の間も、部屋一杯に組まれた蠶棚のあいだから、奥の床の間に掛けてある實學黨總本山横井小楠の――「明堯舜孔子之道盡西洋器械之術何止富國何止強兵布大義於四海而巳 小楠」――という書幅がやっと覗いて見えるという状態である。(以下十七行ほど省略)

第三稿の第一幕

明治八年初夏のある晴れた午後。

熊本西郊、花岡山の中腹にある蚕軒山田嘉次郎の屋敷。しっかりした木組の農家を蚕軒が買いとって建て増しした不恰好な藁家(わらや)である

右手に半分見えている部屋には一杯に蚕棚が組まれている。

その次の正面の部屋は茶揉み室に使われているが、本来は書院の間として改造された部屋であり、正面にりっぱな床の間。そこに「明尭舜孔子之道尽西洋器械之術何止富国何止強兵布大義於四海而巳 小楠」というりっぱな軸がかかっている。

その次の部屋は蚕軒の居室で、ガラス入りの額縁のワシントンの肖像画、台付ランプ、ガラスの花立、置時計、胃腸薬マグネシアのびん、古風な手まわしミシンなど。

左手から奥の方へ見渡せる庭は、僅かの面積を残して悉く耕され、馬鈴薯(ポーテートー)、玉蜀黍、赤(トメー)茄子(トー)、甘藍、落地生(落花生)などが試作されている。

その奥の地続きには茶畠、桑畠、それからりんご、さくらんぼ、西洋ぶどう、西洋梨、あめん桃(どう)などの果樹園、それらの更に奥、谷一つ越えた向うには、晴れた初夏の青空を劃って、層々たる万日山の段々畠が、一面の麦の緑におおわれている。

第一稿の第二幕と第三稿との変更は明らかである。登場人物の名称変更はもちろんのこと、舞台設定が大幅に変わっている。特に、「士族屋敷」が「農家」に、「二十に余る部屋部屋」がなくなり、「建て増しした不格好な藁家」になっている。近沢氏邸の関係者の私家本「カタルパの木陰で」という文章によっても、徳富旧邸(大江義塾跡)が「もと百姓家だったようで、雨が降る時は藁からポタポタ雨もりがしていたという話」で、第三稿の「農家」「藁」家の文字と重なり、まさしく現在の徳富旧邸(大江義塾跡)が近沢侃(すなお)氏邸であることを示している。徳富旧邸の間取りが第三稿の「建て増しした」という記述とも合致している。つまり、徳富旧邸(大江義塾跡)の取材がそっくりそのまま第三稿に生かされているのであるということができる。

この調査には大江志乃夫氏と森田誠一氏が同行していた。森田氏は写真資料『花岡山』には大江氏とともに「熊本ノ政治ノ研究会」という肩書きが書いてあったので、もしかしたら地元に詳しく、熊本大学の助教授でもあった森田氏に道案内といった程度で同行してもらったのかもしれない。木下順二と森田氏は東京帝国大学の文学部の同級であった。ちなみに、大江氏とは当時木下文書を調べていた大江氏が木下順二の母から順二が自分の息子であると知らされてからの付き合いで、この調査の夏休みの頃であるということである。木下順二を含めた三人のうち、現在、存命の方は大江志乃夫氏だけである。そこで、2007年1月18日にこれまでのことを確認するために、大江氏に連絡を取ってみた。大江志乃夫氏からの証言は次の通りである。

※木下さんは当時書き改めていて、具体的なものが必要だった。

※木下さんは大江義塾タイプにしたかったと言っていた。

※木下さんは調査する前から、近沢私邸(大江義塾跡)を知っていた。

この証言をまとめると、演出家岡倉史朗氏とともに初演に向けた舞台のイメージを作り上げていく中で、「実学党・家」の「具体的な」モデルとして、木下順二の脳裏には近沢私邸(大江義塾跡・徳富旧邸)があった。そして、舞台の内容上、「大江義塾タイプ」がふさわしいと思っていたということである。第三稿の山田蚕軒邸のモデルが現在の徳富旧邸(大江義塾跡)でなければならない理由がここにある。しかし、これだけの理由で事足りるのだろうか。

  三 改稿の意味

ここで思い出したいのは、第一稿のモデルは明らかに竹崎茶堂とその茶堂が行っていた塾「日新堂」であるということである。

官をやめた竹崎律次郎と順子は、熊本の高田原町から郊外本山村に屋敷を求めて移りました。養子吉勝(熊太改)節子夫婦も子供を連れて横嶋から出て來て其處に同居する事になりました。本山村は今の本山町です。それは白川を中にして熊本停車場に近く、北西の二方を白川が矩形(かねなり)に流れ、南東は宇土下益城まで打つづく平(へい)蕪(ぶ)で、昔は静かな士族村でありました。順子の長姉三村にほ子夫妻は大分前から其處に住んで居ました。藤嶋もと子も高田原から其處に移つて居りました。小楠門下の太田黒惟信、嘉悦氏房、醫師内藤泰吉、其他も前後して其處に住むで居たので、本山村は實學村の觀がありました。此處に引越した竹崎律次郎夫妻は、家塾日新堂を興すと共に、手廣い屋敷に多く茶を植ゑて、製茶など盛にやらせたもので、律次郎が茶堂の號もそれから出ました。櫨と桑と楮(こうぞ)は以前から肥後でも奨励したものでしたが、殖産興業の上に眼早い律次郎は今後の一大國産であるべきを豫想して、躬(み)づから範を示したのであります。.律次郎は一時白川(はくせん)の雅號を用ゐて居ました。肥後が白川縣となつたので、白川の號を癈し、以後は専ら竹崎茶堂を名のるやうになうました。竹崎茶堂先生の名は、家塾日新堂と共に當時の肥後に響いたものであります。日新は大學の「日日新又新」からとつたのです。

徳富健次郎『竹崎順子』(傍線筆者)

この徳富(蘆花)健次郎の『竹崎順子』と『風浪』の第一稿とは多くの語句が一致する。木下順二自身、「私は横井小楠の家の複雑な家族構成を参考にしてつくったと記憶するが、その際大いにお蔭を蒙ったのは徳富健次郎述『竹崎順子』であった」(『本郷』)と述べていることからわかるように、木崎蠶堂とその屋敷が『竹崎順子』を参考にして形づくられたことは異論のないことだろう。

木下順二と徳富家とは近くはないが、親族で、当時の木下順二家と近沢氏邸(徳富旧邸)とは歩いて5、6分のところにあった関係で、近沢氏邸(徳富旧邸)をよく知っていたはずである。どうして初稿から近沢氏邸(徳富旧邸)をモデルにしなかったのか。当たり前だが、初演の舞台にふさわしくなかったからである。その大きな理由は「日新堂」はすでになく、記念板があるのみであったためである。初演の舞台のイメージを得るためには具体的なものが必要だったといわなければならない。そこで、竹崎茶堂と同じく実学党の徳富一敬(淇水)縁りの徳富旧邸(近沢氏邸)が浮かび上がってきたということであろう。

第三稿の山田蚕軒屋敷の「藁家」に注目すると、木下順二の写真資料『近沢侃(すなお)氏邸』に「モト「屋根ブキ」(ワラブキ)ヲ淇水ガ瓦ニシタ」というメモ(資料5)がある。木下順二はこの写真資料にも写っている近沢侃(すなお)氏氏から聞いてかして、ノートにメモをして、第三稿に「藁家」と書いていることは確かである。徳富旧邸(大江義塾跡)が「藁」葺きの「農家」でなければならなったということである。このことは木下順二の「大江義塾タイプ」にしたかったという思いと関係する。つまり、たまたま徳富旧邸(大江義塾跡)が「藁」葺きの「農家」であったというばかりでなく、「士族屋敷」か、「農家」かは、第一稿から第三稿への改稿が「風浪」の内容にかかわる問題であることを示している。

そうはいうものの、「近沢侃(すなお)氏邸」と表紙にはその文字の下に「(実学党士族・家)」とペン書きしてあった。近沢侃(すなお)氏邸をあくまでも「士族・家」のモデルとして取材している。このことは竹崎茶堂は士族ではなく豪農であり、徳富旧邸(近沢氏邸)は農家であったことと齟齬を来すのではないかという疑問が起こる。実は、木下順二によれば、明治の「熊本の雰囲気」を「非常に感覚的にナショナルだし士族的ですね。或いは豪農層的といっていゝのかもしれないけれども」(「対談 熊本バンドをどうとらえるか」『熊本展望』田水社、一九七八年・四月)というときの「士族」は文中の「豪農層」と同じく下層の士族の謂いである。思えらく、『風浪』はそういう下層「士族」=「豪農層」に焦点を当てて、「明治というものを本質的には悲惨な時代だったというふうに規定する人が多いけれど、(中略)むしろあの中では、自分の中のエネルギーが解放された時代と考えて、日本の封建制では見られなかったエネルギーを、はじめてそこで発揮したのではないか。(中略)明治の解放されたエネルギーは評価しなければならない」(「演劇の本質」『現代演劇講座』第一巻・三笠書房・一九五八・十一 )という「明治のエネルギー」を描いたとみるのが妥当であろう。その「士族」階級=「豪農層」に「明治のエネルギー」をみたからこそ、山田蚕軒の屋敷のモデルは徳富旧邸(大江義塾跡)でなければならなかったというわけである。

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三島由紀夫『豊穣の海』 ―世界解釈とその行方―

2000年12月01日 10時55分00秒 | 論文

初出:熊本大学大学院修士論文 平成12(2000)年12月1日

一部掲載:「三島由紀夫の晩年」

  第37号 首藤基澄先生退官記念特輯号 (「国語国文学研究 」 熊本大学文学部国語国文学会 編・2002年2月23日 発行)

 

『豊穣の海』

―世界解釈とその行方―

           永田満徳

―目次―

序章 『豊饒の海』における内と外

第一章 世界解釈の小説

 一 『豊饒の海』の自注自解

 二 世界解釈と人間の活動

第二章 作品外の現実

 一 不如意な現実

 二 不如意さからの脱出

三 政治活動の意味

四 初期構想の急変の謎

第三章 『豊饒の海』の作品世界

 一 『春の雪』論―感情とその行方、及び『奔馬』論―行為とその行方

 二 『春の海』『奔馬』における「ニルヴァーナ(涅槃)」

 三 『暁の寺』論―認識とその行方

 四 『天人五衰』論―自意識とその行方

 五 『豊饒の海』における「ニルヴァーナ(涅槃)」

終章  三島由紀夫の晩年

 

【目的】

本文は三島由紀夫の畢生の長編小説『豊饒の海』第四巻をひとつの作品として論じたものである。早熟の才能をほしいままにしてきた三島が精魂を傾けて書き上げた作品である。三島の集大成的な意味を持つばかりではなく、近代小説の一つの到達点を示す意味でも重要な作品である。自注自解の内容を踏まえながら、作者の意図を探ってみたい。

【要旨】

【序章】「『豊饒の海』における内と外」

   つい数日前、私はここ五年ほど継続中の長編『豊饒の海』の第三巻『暁の寺』を脱稿した。(中略)人から見れば、いかにも快い休息と見えるであらう。しかし私は実に実に実に不快だつたのである。(中略)一つの作品世界が完結し閉ぢられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になつたのである。私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私にとつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた。

(「小説とは何か」『波』第十五号・昭和四十五年五月)

「暁の寺」脱稿後に不快感を表明し、「作品外の現実」と「作品世界」とに分けていることから、この時期に活発化してくる、いわゆる政治活動と『豊饒の海』という作品との内外を視野に入れて考察すべきである。

【第一章】「世界解釈の小説」

 一 『豊饒の海』の自注自解

作品理解の基礎的作業として自注自解の内容を検討してみると、

三島  (中略)絶対主義的なものを各巻で描いてゐるんです。それが結果として最高の相対主義的――それは唯識だと思ふんです――に溶かしこまれて行くのです。

とあるように、『豊饒の海』は作家になって以来考え続けてきた〈世界解釈〉を意図したもので、最終的には唯識論哲学の元に「ニルヴァーナ(涅槃)」に到達する物語であることがわかる。ただ、初期構想では「第一巻『春の雪』は王朝風の恋愛小説で、言はば『たおやめぶり』あるひは『和魂』の小説、第二巻『奔馬』は檄越な行動小説で、『ますらおぶり』あるひは『荒魂』の小説、第三巻『暁の寺』はエキゾチックな色彩的な心理小説で、いはば『奇魂』、第四巻(題未定)はそれの書かれるべき時点の事象をふんだんに取り込んだ追跡小説で、『幸魂』へみちびかれてゆくもの、といふ風に配列」(「『豊饒の海』について」)することを考えていた。しかし、この構想が破綻を来たしているのは第三巻「暁の寺」からで、特に第四巻「天人五衰」は、初期構想とおよそ懸け離れた自意識過剰な主人公安永透が登場している。

 二 世界解釈と人間の活動

三島のこの意図は、

Ⅰ 身体 A 動物的・即物的・無言語=無意識的         身体の世界=無言語領域    

Ⅱ 心  B 記述的・分別的                  心の世界=有言語領域

     C 間主観的・二項対立的

     D 逆説的・詩的

Ⅲ 魂  E 非二項対立的・非二元的・無言語的・超個的・超意識的  魂の世界=無言語領域

という高尾利数氏(「ブッタとは誰か」・柏書房・二〇〇〇・三)の人間の活動のモデルが参考になるばかりではなく、この人間の活動そのものを描くことにあった。

【第二章】「作品外の現実」

 一 不如意な現実

〈肉体〉の不如意を克服し、身体の世界、つまり無言語領域を垣間見た三島にとって、新たに乗り越えなければならない心の世界、〈老い〉の不如意、そして〈裏切り〉の課題が浮上してくる。一言で言えば、「暁の寺」の、

生きるといふことは、運命の見地に立てば、まるきり詐欺にかけられているやうなものだつた。そして人間存在とは?人間存在とは不如意だ、といふことを、本多は印度でしたたかに学んだのである。

と言う一節に尽きる。老いや裏切りなどの〈不如意な現実〉に苦しむ作家像が浮き彫りにされる。

 二 不如意さからの脱出

創作も含めた心の世界を地で行きながら、その世界からの脱出を「葉隠」・唯識思想や身体の世界に誘う自衛隊の体験などに急速に接近していくことで、精神的危機の回避を図ろうとした。

三 政治活動の意味

かくて集団は、私には、何ものかへの橋、そこを渡れば戻る由もない一つの橋と思はれたのだ。               (「太陽と鉄」『「批評」」・昭和四十年十一月)

四 初期構想の急変の謎

やがて楯の会の先鋭化とともに三島の精神もまた閉塞化していくことになるが、そのような作品外の活動が『豊饒の海』の初期構想の変更に影響を与え、作品外の精神状況が登場人物の造型に投影することになった。

【第三章】「『豊饒の海』の作品世界」

各巻のキイワードを人間の活動のモデルに当てはめると、『豊饒の海』はまさしく人間の活動の記録である。

 一 『春の雪』論―感情とその行方、及び『奔馬』論―行為とその行方

「春の雪」の清顯の感情や「奔馬」の勲の熱意が物語の展開上重要であり、清顕の死への情熱は〈何か〉を媒介とするものであるのに対して、勲の死への熱意は最初から明確に存在するものである。勲の熱意はもともと「荒ぶる魂」を持っているのに対して、清顕の情熱は勅許という外部の存在なくしては成り立たない。〈何か〉という漠然とした期待が明確な意志へと変わるところに第一巻と第二巻においての最大の違いがある。

三島 昔から唐・天竺といはれてゐました。ぼくのいまの小説(新潮)連載中の「豊饒の海」)も、唐・天竺的な大きい文化圏の上に立つたものを書きたいと思つてゐた。ところが唐が「唐くれなゐ」になつちやつたから、ハッハッ。で、いまはもつぱら天竺を研究してゐます。日本文化の源流を求めりやみんな天竺へ行つてしまひますね。それは、もう、みんなあすこにあります。

三島 (中略)それに源流をたどる気持は、ぼくのなかに非常に強くあるわけです。二・二十六事件をやれば神風連をやりたくなる。神風連をやれば国学をやる。国学をはじめれば陽明学をやりたくなる。(『毎日新聞』昭和四十二年十月二十一日)

この両者に通底している身体の世界とその無言語領域である「血まみれ」「血みどろ」といった源流意識が清顕や勲の成算を度外視した行動に走る原動力であった。『豊饒の海』第一・第二巻は、理屈で割り切れぬ、内部から発するものに突き動かされる人間の内面劇として、きわめて輪郭の明らかな小説になっている。

 二 『春の海』『奔馬』における「ニルヴァーナ(涅槃)」

谷崎氏のかかるエロス構造においては、老いはそれほど恐るべき問題ではなかつた。(中略)老いは、それほど悲劇的な事態ではなく、むしろ老い=死=ニルヴァナにこそ、性の三昧境への接近の道程があつたと考えられる。小説家としての谷崎氏の長寿は、まことに芸術的必然性のある長寿であつた。この神童ははじめから、知的極北における夭折への道と、反対の道を歩きだしていたからである。(「谷崎潤一郎」論)

「劇的空間」を各人の性向のままに生き抜き、それがそのままニルヴァーナ(涅槃)であるということである。

 三 『暁の寺』論―認識とその行方

三島 でも、あれは初めから頭にあったんです。あそこで生まれかはり哲学をブッておかないと、第四巻がわからなくなつてしまふんです。第四巻では、もうなんにも説明なしに、ただエピソードだけが羅列されてゐるんですよ。この第四巻の世界は、第三巻の前半が前提にならなきや展開できない性質のものなんです。だから、ぼくは読者に目をつぶつてもらつて、第三巻の前半でギューギュー思弁的なことを聞いてもらひ、それを一度忘れてもらつて、第四巻ではカタストローフまで一気に読んでもらはう、といふ気があつたんです。最後まで読んでいただくと、その意図がわかつてもらへると思ふんですがね。

「もう、この気持ちは抑へやうがない」「三島由紀夫 最後の言葉」『図書新聞』・昭和四十六年一月二日)

一部で詳述されるインド体験の中で特に重要なベナレスで感じた「つねに目前にくりかへされる自然の事象」である輪廻転生というのは、死が完全な終わりであることを意味せず、生の絶対的一回性を大きく相対化するものである。ここに三島が仏教の空観と相対主義を結びつける理由がある。

現在のこの世界は、本多の認識が作つた世界であつたから、ジン・ジャンも共にここに住んでゐた。唯識論に従へば、それは本多の阿頼耶識の創つた世界だつた。

「暁の寺」では、心の世界、有言語領域の典型である本多の認識に焦点が当てられる。本多繁邦の認識の世界は清顕や勲とはまったく対照的で、徹頭徹尾理性、知性、理智の世界、つまり心の世界である。「たえず世界を要約していなくては不安な心、まだ記録されていない現実は執拗に認めまいとする頑なな心」をもつ「癖」があり、「一旦理知をとおすことなしには、決して外界に接しない性質」を持つかぎり、理智の世界から抜き出すことができないといってよい。その認識の呪縛とその脱出や癒しに努力するにもかかわらず、認識という心の世界とその有言語領域の限界に気づき、無言語領域と有言語領域との対立が決定的となる。

 四 『天人五衰』論―自意識とその行方

本多はすでに老境。(中略)四巻を通じ、主人公を探索すれども見つからず。つひに七十八歳で死せんとするとき、十八歳の少年現れ、宛然、天使の如く、永遠の青春に輝けり。(中略)

   本多死なんとして解達に入る時、光明の空へ船出せんとする少年の姿、窓越しに見ゆ。

      (「バルタザールの死」「『豊饒の海』ノート」『新潮』昭和四十六年一月号)

この「天人五衰」の構想に関するコメントにはある共通する語感が含まれている。前者は〈解達〉であり、後者は〈ニルヴァーナ〉であって、ともに仏教思想に淵源する概念である。三島由紀夫はあきらかに登場人物のいずれにも仏教的な世界に昇華する役割を担わせていると言っても過言ではない。

「天人五衰」は、登場人物のすべてが〈自意識〉のもたらす悲喜劇に翻弄され、究極的には同じ本多家の住人になることになる本多繁邦・秀・絹江の三者の物語ということになろう。登場人物が涅槃の中に入るという初期の構想は、透にしても、絹江にしても、〈自意識〉の呪縛から、例えば透のように盲目となることによって断ち切り、絹江のように自殺未遂によって〈自意識〉を逆手にとって解脱、言い過ぎであれば、その契機をつかんだと見てよい。しかしながら、本多は老いて死の認識によって解脱の端緒を他の二人以上に直接的につかむが、結局は〈自意識〉をあらわにするだけである。このように自意識を手掛かりにすると、「天人五衰」は登場人物の自意識からの脱出とその果てに、有言語領域の徹底化された世界を描き出したものであることがわかる。

 五 『豊饒の海』における「ニルヴァーナ(涅槃)」

三島由紀夫の自注自解の中で特に触れられることの少なかった『豊饒の海』における「ニルヴァーナ(涅槃)」とは、無言語領域、有言語領域の違いこそあれ、人の生を一つの枠に見立てて、その中での各種の生き様をさぐり、その徹底化の果てに見えてくる清顕・ジンジャンの彼岸、勲の昇天、本多・透の認識の無を描くことにあったといわなければならない。これこそが世界解釈とその行方に他ならない。

【終章】「三島由紀夫の晩年」

つらつら自分の幼時を思ひめぐらすと、私にとつては、言葉の記憶は肉體の記憶よりもはるかに遠くまで遡る。世のつねの人にとつては、肉體が先に訪れ、それから言葉が訪れるのであらうに、私にとつては、まづ言葉が訪れて、ずつとあとから、甚だ気の進まぬ様子で、そのときすでに観念的な姿をしてゐたところの肉體が訪れたが、その肉體は云ふまでもなく、すでに言葉に蝕まれてゐた。  (「太陽と鉄」『「批評」」・昭和四十年十一月)

三島の晩年は、無言語領域と有言語領域との対立の中で、「作品世界」では有言語領域の侵犯というかたちで幕が下ろされ、「作品外の現実」では無言語領域への参入というかたちで終焉を迎える。三島の晩年に浮かび上ってくるのはこの二種対立する言語領域に佇立する文学者の肖像である。

 

〔本文〕

 序章 『豊饒の海』の内と外

 三島由紀夫の畢生の長編小説『豊饒の海』第四巻は、その第一巻「春の雪」が昭和四十年九月号に雑誌『新潮』に連載され始めて、ちょうど第二巻「奔馬」の四十二年二月号の連載と見合うかたちで、いわゆる政治活動の走りとも言うべき自衛隊への体験をその年の四月十一日に果たしている。そして、昭和四十五年十一月二十五日は最終巻「天人五衰」の擱筆の日付と自決の日付とが一致していることは周知の事実である。これは三島由紀夫の晩年はこの『豊饒の海』の執筆と政治活動を抜きにしては語れないことを示している。この両者の関係を如実に述べているのは、昭和四十五年五月発行の『波』第十五号の「小説とは何か」という文章である。

 つい数日前、私はここ五年ほど継続中の長編『豊饒の海』の第三巻『暁の寺』を脱稿した。(中略)人から見れば、いかにも快い休息と見えるであらう。しかし私は実に実に実に不快だつたのである。(中略)一つの作品世界が完結し閉ぢられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になつたのである。私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私にとつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた。

三島は最終行動の実行へと専心しつつあったが、自決の前日まで、『豊饒の海』を執筆していて、決して文学活動を放棄したわけでなかった。この作品内外の相克は実に恐るべきものがあったろう。『豊饒の海』を書くことは、作品内外の「二種の現実の対立、緊張」(「小説とは何か」)を作り出すべく努め、そこに身を置いて書くのを常としてきている三島由紀夫にとっても、「今度の長篇を書いてゐる間ほど、過度に高まつたことはなかつた」(「同右」)というように、なお一層対立、緊張を強いるものであった。それでも、第二巻「奔馬」では、それがうまく噛み合っていた。「怖いみたいだよ。小説に書いたことが事実になって現れる。そうかと思うと、事実の方が小説に先行することもある」(小島千加子『三島由紀夫と檀一雄』構想社・昭和五十五・五)とあるように、「楯の会」の結成、およびその活動と「奔馬」の内容とは不思議に噛み合い、見事に相乗効果を上げて進んでいたから、「奔馬」の執筆時はむしろ精神的には高揚していて、作品内外の分裂はそれほど気にならなかったにちがいない。しかし、第三巻「暁の寺」の執筆を初めて間もなく、作品内外の均衡は崩れていくことになる。このことは〈実に〉という言葉を三度も使って強調しなければならなかった〈不快〉感とは無関係ではない。この「暁の寺」脱稿後の不快感は世界解釈の意図のもとに書かれようとしている『豊饒の海』という作品が残り、「作品外の現実」が「紙屑」になってしまったことに対しての言葉である。ここには明らかに「作品世界」と「作品外の現実」とはそれぞれ別のものとして捉えられている。「暁の寺」脱稿後に、この両者をことさら区別して考えなければならない事情が三島にあったということである。つまり、この事情は三島由紀夫の晩年を、『豊饒の海』の執筆過程と政治活動の軌跡という作品の内と外=〈二種の現実〉を視野に入れて考察すべきことを示唆している。

  第一章 世界解釈の小説

 一 『豊饒の海』の自注自解

『豊饒の海』については三島自身多くのことを語っていて、各々の論者は自注自解の役割をするこれらの文章を自分の論に必要な部分のみ拾い出してつまみ食いするといった具合である。三島の自注自解の文章を素直に受け取り、そのすべての言説を作品と照らし合わせて、その異同を明らかにした論がいまだにないのが不思議である。もちろん、作者が意図を超えた読みの大切さがわからないでもないが、作者の作品解説と作品との関係を考察することは作品理解の基礎作業として必要なことではないか。従って、作品の考察は自注自解を跡付けていくことになる。

 三島由紀夫は「『豊饒の海』について」毎日新聞・昭四四・二・二六)のなかで、「小説家になつて以来考えつづけていた『世界解釈の小説』が書きたかつたのである。幸ひにして私は日本人であり、幸ひにして輪廻の思想は身近にあつた」と述べている。それが『豊饒の海』で、輪廻思想を頼りに世界解釈の小説を書こうとの意気込みで書かれていることはまちがない。いずれも雑誌『新潮』に連載された。第一巻「春の雪」が昭和四十年九月号から四十二年一月号までの十七回、第二巻「奔馬」が昭和四十二年二月号から四十三年八月号までの十九回、第三巻「暁の寺」が昭和四十三年九月号から四十五年四月号までの二十回、第一巻から第三巻まで一度も中断することなかった。第四巻「天人五衰」は連載中初めて二ケ月の休みを置いて、昭和四十五年七月号から四十六年一月号まで七回掲載された。

 では、どのような世界解釈の小説を書こうとしたのか。三島由紀夫自身の解説を見てみたい。

三島 〈中略〉それはいま書いてゐる「豊饒の海」のモチィーフでもあるんで、あの作品では絶対的一回的人生といふものを、一人一人の主人公はおくつていくんですよね。それが最終的には唯識論哲学の大きな相対主義の中に溶かしこまれてしまつて、いづれもニルヴァーナ(涅槃)の中に入るといふ小説なんです。

 三島  (中略)絶対主義的なものを各巻で描いてゐるんです。それが結果として最高の相対主義的――それは唯識だと思ふんです――に溶かしこまれて行くのです。

三島 でも、あれは初めから頭にあったんです。あそこで生まれかはり哲学をブッておかないと、第四巻がわからなくなつてしまふんです。第四巻では、もうなんにも説明なしに、ただエピソードだけが羅列されてゐるんですよ。この第四巻の世界は、第三巻の前半が前提にならなきや展開できない性質のものなんです。だから、ぼくは読者に目をつぶつてもらつて、第三巻の前半でギューギュー思弁的なことを聞いてもらひ、それを一度忘れてもらつて、第四巻ではカタストローフまで一気に読んでもらはう、といふ気があつたんです。最後まで読んでいただくと、その意図がわかつてもらへると思ふんですがね。       (「三島由紀夫 最後の言葉」『図書新聞』・昭和四十六年一月二日)

三島 一番考へてゐたのは、第二巻(「奔馬」)なんか、国家主義運動みたいなのが出てくるでせう。それだけで反発する人がゐますけれど、三巻まで読んでほしかつたんです。といふのは、現世の人間がこれが極致だと思つて考えへたことが、三巻で空観のはうへ、空のはうへ溶け込まされちやうふ。その残念無念といふのは、書いてる人間も残念無念。それを設定するにはどうしても戦前の日本ですね。そこに第一巻、第二巻を放り込んで、第三巻で、空が一度生じたら、それからあとはもう全部、現実世界といふのはヒビが入つてしまふ。現実世界の崩壊と、戦後世界の空白とが、これもまた次元がちがひますけれども、それが一種のメタファアになるといふふうにして書いていきたかつたんです。

三島 僕にとっても、戦後世界といふのは、ほんたうに信じられない、つまり、こんな空に近いものはないと思つてゐるんです。ですから、仏教の空の観念と、戦後に僕が持つてゐる空の観念とがもしうまく適合すればいいんですけれどもですね。小説としてはもう完全に下り坂になるわけです。そこからはもう「絶対」も何にもない。

三島 それを僕は四巻で主人公を悪魔的な、小悪魔ですけれども、さうしたんです。それ以外にないやうな気がしたんですね。しかし、それも成功するかしないかわからないんです。つまり、非常に僕は姑息な手段だと思つてゐるんですよ。つまり、空を支へるのが、空観といふ形で、悪魔の仕業のやうに考へるわけね。             (「文学は空虚か」『文芸』・昭和四十五年十一月)

第一巻「春の雪」と第二巻「奔馬」では〈現世の人間〉の〈極致〉とされる〈絶対的一回的人生〉を送る主人公たちが登場し、第三巻「暁の寺」では戦後世界が持っている空の観念と仏教の〈空観〉とを一致させることによって戦後世界の空白と現実世界の崩壊とが一種のメタファアとして描かれ、第四巻「天人五衰」では第三巻の延長線上にあって、小悪魔的な主人公が登場し、空観を体現しながらカタストローフに至るというのである。

ただ、初期構想では「第一巻『春の雪』は王朝風の恋愛小説で、言はば『たおやめぶり』あるひは『和魂』の小説、第二巻『奔馬』は檄越な行動小説で、『ますらおぶり』あるひは『荒魂』の小説、第三巻『暁の寺』はエキゾチックな色彩的な心理小説で、いはば『奇魂』、第四巻(題未定)はそれの書かれるべき時点の事象をふんだんに取り込んだ追跡小説で、『幸魂』へみちびかれてゆくもの、といふ風に配列」(「『豊饒の海』について」)することを考えていた。しかし、この構想が破綻を来たしているのは第三巻「暁の寺」からで、特に第四巻「天人五衰」は、

本多はすでに老境。(中略)四巻を通じ、主人公を探索すれども見つからず。つひに七十八歳で死せんとするとき、十八歳の少年現れ、宛然、天使の如く、永遠の青春に輝けり。(中略)

 この少年のしるしを見て、本多はいたくよろこび、自己の解脱の契機をつかむ。思えば、この少年、この第一巻よりの少年はアラヤ識の権化、アラヤ識そのもの、本多の種子なるアラヤ識なりし也。 本多死なんとして解達に入る時、光明の空へ船出せんとする少年の姿、窓越しに見ゆ。

    ( 「バルタザールの死」「『豊饒の海』ノート」『新潮』昭和四十六年一月号)

というもう一つの初期構想ともおよそ懸け離れた自意識過剰な主人公安永透が登場している。それでも、三島は、次のような発言を繰り返している。

三島 〈中略〉それはいま書いてゐる「豊饒の海」のモチィーフでもあるんで、あの作品では絶対的一回的人生といふものを、一人一人の主人公はおくつていくんですよね。それが最終的には唯識論哲学の大きな相対主義の中に溶かしこまれてしまつて、いづれもニルヴァーナ(涅槃)の中に入るといふ小説なんです。

三島  (中略)絶対主義的なものを各巻で描いてゐるんです。それが結果として最高の相対主義的――それは唯識だと思ふんです――に溶かしこまれて行くのです。

(「もう、この気持ちは抑へやうがない」「三島由紀夫 最後の言葉」前掲書)

第一巻「春の雪」・第二巻「奔馬」と第三巻「暁の寺」・第四巻「天人五衰」とを大きく隔てるのは戦前と戦後だが、絶対主義と相対主義との相違も企てられている。最終的にはその最高の相対主義である唯識論哲学に溶解し、いずれもニルヴァーナ(涅槃)に到達する小説であると言い張っている。この自注自解が「最後の言葉」と銘打ってあることもさることながら、結末部は昭和四十五年八月に書き上げられていたということであるから、『豊饒の海』の結末部がすでに決定されていた時点での弁であることは留意していい。

   二 世界解釈と人間の活動

各巻は主人公が二十歳で死ぬまでの数年間に限定されていて、その限られた空間をあたかも短距離走者が駆け抜けるように生き抜く「劇的な時間」が明確に打ち出されている。その「劇的な時間」をいかに生き抜くべきかが『豊饒の海』に課せられた課題であったろう。そういう意味では、『豊饒の海』がニルヴァーナ(涅槃)に到達する小説であるという三島の主張は首肯できる。高尾利数氏の「ブッタとは誰か」(柏書房・2000・3)を参考にして言うならば、『豊饒の海』はまさしく人間の活動のモデルを示そうとした作品であるからである。

高尾氏によれば、人間の活動は、

Ⅰ 身体 A 動物的・即物的・無言語=無意識的         身体の世界=無言語領域    

Ⅱ 心  B 記述的・分別的                  心の世界=有言語領域

     C 間主観的・二項対立的

     D 逆説的・詩的

Ⅲ 魂  E 非二項対立的・非二元的・無言語的・超個的・超意識的  魂の世界=無言語領域

の三段階に分類される。この分類は、高尾氏によれば、次のように説明される。

Aのレヴェルはまだ言語が発生していない段階で、ちょうど人間以外の動物の世界といってよい。何が何だかわからない状態で、何の区別のつかず、当然ながらまだこの意識もない言語以前の世界なのである。Bのレヴェルでは「記述的」と呼ぶのが適切で、ここで初めて「言(事)分ける」ことができるようになり、仏教でいう「分別の言葉」である。この言葉は人間が次第に成長して意識を持つようになり、記憶が生じ、その結果いろいろなものを区別することができるようにならなければ生まれてくるものではないから、Cのレヴェルである「心あるいは知性」が生じてきた段階でしか発現しない。このレヴェルは言うまでもなく、定義上客観と主観とを分け、二項対立的な言葉で表現する有言語の世界である。DのレヴェルはCとEのレヴェルとの間に位置するもので、Cの叙述的有言語の世界がどうしも分別・対立・区別の相にあるために、Cのレヴェルの言葉で心や知性を越えるEの段階を表現しようとすれば逆説であったり、あるいは極端に象徴的であったりして非日常の言葉を用いるほかはないという世界である。最後にEのレヴェルであるが、このレヴェルの世界は単なる知性や悟性では捉えられないもっと高くて深い相である。禅宗では「不立文字」などというように、いわゆる分別知というレヴェルを乗り越えた「魂」の段階なのである。

ここで注目したいのは、AとEとがともに無言語領域であることである。

そもそも病弱で自家中毒症状を呈し、級友たちから「アオジロ」と呼ばれ、腺病質で痩せこけていた少年期の三島にとって、自意識過剰で、自尊心が人一倍強かったがゆえに、肉体的劣等感は想像以上であったことだろう。その極みは兵役検査で不合格になったことであった。ボディ・ビル、ボクシング、剣道へと進むのも、兵役検査で不合格の烙印を押されたというという屈辱の反動であったことはまちがいない。驚くべき克己によって、貧弱な肉体は運動神経だけはあいかわらず欠いていたものの、頑健な肉体へと著しく変貌した。ボディ・ビルを始めてわずか一年で「薄紙を剥ぐやうにこの肉体的劣等感は治つて、今では全快に近い」(「ボディ・ビル哲学」『漫画読物』昭三一・九)と書くまでになっていた。年齢には関係なく、過激でない運動はということで剣道ひとつに絞っていきはすれ、肉体ほど不如意なものはないという考えは遠い過去のものとなっていた。このような文筆活動以外の身体の世界の経験に基づいて「肉体」の世界における「語りえぬもの」、つまり無言語領域を畢生の作品『豊饒の海』で表現したいと強く思ったにちがいない。というのは、井上隆史氏の言葉(「『豊饒の海』における世界解釈の問題」『國語と國文学』平成六年9月号)を借りれば、「言葉以前の領域」にまでも遡り、「未だ混沌たる世界における生の多面性」を「統一的世界像を打ち出すことができれば、それによって一つの世界解釈が成し遂げられる」からである。それは作品外の活動においても、作品内においても、〈世界解釈〉のできる位置を見定めることができる自負に支えられていたと思われる。三島の生そのものが世界解釈であったといってもいい。

第二章 作品外の現実

    一 不如意な現実

肉体的劣等感を克服し、身体の世界、つまり無言語領域のすばらしさを垣間見ることによって肉体の不如意の問題を解決した三島にとって、新たに乗り越えなればならない心の世界の課題が浮上してくる。それは老いに対する不如意であった。かつて拙論「三島由紀夫の〈老い〉の問題」(『方位』・一九九四・九)の中で、〈老醜〉に対する嫌悪感の根を乳幼時期祖母の病室の中で過ごした経験にもとめ、「この経験は乳児体験であるだけに後々までも根深く痕跡を残し、『人間がもし老醜と自然死を待つ覚悟がなければ、できる限り早く死ぬべきである』という認識を育てた」とまとめて、この時期、特に昭和四十二年頃に〈老醜〉に対する決別を決意したと指摘したことがある。「天人五衰」には〈老い〉というものが最も多く記述され、最もその課題が示されているのは、「老いてはじめて、本多はこの世に生まれ落ちてから八十年の間といふもの、どんな喜びのさなかにも絶えず感じてきた不如意の本質を知るにいたつた」からである。ここでも〈老い〉は〈不如意〉とまったくの同義語として扱われている。

三島由紀夫にとって不如意な現実はこの〈老い〉というものばかりではなく、一連の事件もあった。昭和四四年夏頃に合い次いで起こった「楯の会」脱会事件、つまり『論争ジャーナル』の共同創設者だった中辻和彦が他の数名の会員とともに脱会したあと、その一週間後には早大生で「日学連」と呼ばれた右翼的学生組織の中心人物、昭和四三年三月から三十日までに同じく滝ヶ原分屯地にて行った体験入隊の学生隊長を勤め、右腕的存在であった持丸博が脱会したことは少なからず〈裏切り〉の問題を三島に突き付けずには置かなかった。拙論「『蘭陵王』論」(『方位』・一九九〇・七)で触れているように、結尾の一文にその影響が認められる。「奔馬」では裏切りのため大きな挫折を強いられ、獄中に繋がられた主人公が「人間は或る程度以上に心を近づけ、心を一にしようとすると、そのつかのまの幻想のあとには必ず反作用が起つて、反作用は単なる離反にとどまらず、すべてを瓦解へみちびく裏切りを呼ばずには措かぬのだらうか?」と述懐していることも無視できない。「剣」(昭和三十八年)でもこの種の裏切りが重要な鍵となっていることからも、〈裏切り〉という問題は三島にとっては決してないがしろにできないものであることを物語っている。梅津齊氏もまた、まさしく「『裏切りの季節』―三島由紀夫の変容」と題した論文(「方位」・二〇〇〇・三)のなかで、詳しくはその論文に譲るとするが、これまで述べられることの少なかった演劇面からこの「『挫折』 や『裏切り』 というキーワード」で三島由紀夫の晩年を切り込んでいる。福島次郎氏の「三島由紀夫―剣と寒紅―」(平成十年三月)によると、「三島さんが、死ぬ直前に、『自分は、親しくしていた数人から、一度に裏切られた』ということを、激越な文章で東京新聞に書いていると雑誌で読んだときに、やっぱりという気持がした」という。というのは、三島との関係を偽名で本人には見せない約束で『日本談義』に発表したのを荒木精之が三島に送っていたことがわかり、そのころから三島の表情が険しくなったそうだが、その原因を自分の裏切りに求めているからである。ことの真偽はどのようであるとしても、この当時の三島周辺には〈裏切り〉というままならぬ現実が渦巻いていたのである。この不如意な現実の葛藤こそ、心の世界とその有言語領域での出来事であったといえよう。

このような〈肉体〉や〈老い〉の不如意、そして〈裏切り〉を一言で言えば、「暁の寺」の、

   生きるといふことは、運命の見地に立てば、まるきり詐欺にかけられているやうなものだつた。そして人間存在とは?人間存在とは不如意だ、といふことを、本多は印度でしたたかに学んだのである。

という一節に尽きる。この一節は、〈人間存在〉の〈不如意〉という現実に直面しながら、「文」と「武」の間の「極度のコントラストと無理強ひの結合」(「果たし得てゐない約束―私の中の二十五年」『サンケイ新聞』・昭和四十五年七月七月日)を過激に実践し、泥沼のような状況になり、悪戦苦闘する事態に陥っていた当時の三島の状況とみごとに符合していると言わなければならない。

二 不如意さからの脱出

 そうはいっても、当時の三島由紀夫をこと細かく検証してみると、この人間存在の不如意に対処するのに本人自身が自覚的であったかは定かではないが、いくつかの努力が払われていたことがわかる。

 まずは、昭和四十二年九月に「葉隠入門-武士道は生きている」(光文社)を刊行していることである。「戦争中から読みだして、いつも自分の机の周辺に置き、以後二十数年間、折にふれて、あるぺージを読んで感銘を新たにした本といへば、おそらく『葉隠』一冊であらう」と述べているほどの本である。三島はその説明で「合理主義的人文主義的思想が、ひたすら明るい自由と進歩へ自分の目を向けさせるといふ機能を営みながら、かへつて人間の死の問題を意識の表面から拭ひ去り、ますます深く潜在意識の闇へ押し込めて、それによる抑圧から、死の衝動をいよいよ危険な、いよいよ暴発力を内攻させたものに化してゆく過程を示している。死を意識の表へ連れ出すといふことこそ、精神衛生の大切な要素だといふことが閑却されてゐるのである」と述べている。〈死〉という生の遮断によって保障される精神の自由を「精神衛生の大切な要素」に数えている。三島好みの逆説といえばいえるが、しかしこの逆説に「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」という有名な一句に対する彼ならではの解釈が窺える。そして、いみじくも田中美代子氏がその「解説」で「三島由紀夫は、何にもまして思索の人、観念の人であった。それ故、その果て知れぬ思念の深海の水圧に耐えかねて、時には自己を軽やかな外気に向かって解き放ちたいと願った」と言っていることから、『葉隠』への親近は、〈精神衛生〉の上からも、〈自己を軽やかな外気に向かって解き放ちたい〉という気持ちからも必要であった。実はこの『葉隠』について、ステイシ・B・ディは精神医学の立場から、「『葉隠』の基盤をなす心理精神的力は、副交感神経的様式のものであり、単に二十一世紀を生き抜くための英知であるばかりでなく、日本のみならず、西洋、その他の地域でも過去五十年の間、意識的であれ、無意識的であれ、抑圧されてきた文化を解放し、すべての若者に対し教育上の有益な門戸を開き、それを向上させるための英智でもある」(「西洋から観た『葉隠』の驚異」『葉隠シンポジウム』葉隠研究会・平成四年十一月)と述べて、『葉隠』に副交感神経的働きを認め、〈抑圧されてきた文化を解放〉するものであるという、驚くべき見解を示している。実践行動の行き着く先に「死」を覚悟する知行合一の哲学「陽明学」などを推奨して行くのも、それらが「葉隠」と同じく、副交感神経的様式の思想であったからである。

そして、「葉隠」などと同じように心の均衡に寄与したものに、「大乗の深層心理学」と呼ばれる「唯識」思想が挙げられる。三島が死を決意したのはいつなのか定かではないが、自衛隊の体験入隊や「楯の会」の活動等の最も切迫した只中で、死ぬことも恐れずに自然に受け入れられるようになるにはどうすればいいのかについても、説得力のある説明をしてくれる「唯識」思想に心引かれるのは当然といえば当然であったろう。この「唯識」思想が端に『豊饒の海』の輪廻転生を理論的に支えるためのみのものであれば、ドナルド・キーン氏のように、「仏教の部分は、ここにそれを絶対に加えねばならぬほど三島にとって重要に感じられたのであろう。いや、むしろ仏教を論じたこの部分こそ、三島が四部作『豊饒の海』を書かねばならぬ理由だったかもしれないのである」(『日本文学の歴史』⑮・一九九六・九)と述べて、三島が『暁の寺』において〈仏教の部分〉を重要視していること注目することはなかったはずである。確かに〈仏教の部分〉はその追求の仕方に異常すら覚える。この〈仏教を論じたこの部分こそ〉当時の三島由紀夫の精神状況の反映がある。「唯識」思想は潜在意識=深層心理を考えるフロイトなどの精神分析学の登場によって、にわかに脚光浴びるようになった。もちろん精神分析学が設定する分析装置よりも徹底しているものの、「唯識」思想の阿頼耶識が精神的治療に活用されている深層心理、無意識の問題を含んでいることから、現代の心理学者も関心を持っていることに留意する必要がある。

従って、阿頼耶識という深層心理、無意識への関心こそ、この当時の三島由紀夫がいかに精神的均衡を図らざるを得なかったかが窺い知れるということである。そしてまた、副交感神経的様式への親近は当時の三島が交感神経を高ぶらせていたことの逆証明にもなるということである。交感神経的様式が優勢である西洋文化を身をもって示しながら、副交感神経的様式が優勢である東洋文化へ接近を図っていたのである。

    三 政治活動の意味

ところで、「交感神経」と「副交感神経」という言葉は心身医学用語である。人の身体の各器官をコントロールしている自律神経は「交感神経」と「副交感神経」とに分けられるが、「交感神経」は緊張をもたらし、「副交感神経」は弛緩をもたらす働きがある。この両者がバランスよく機能し合っていれば、毎日を快適に過ごしことができる。しかしそれが何らかの事情で、一方だけが働き続けるようなことがあると、やがて自律神経失調症を招くことになる。身体の内外の刺激や環境の変化に敏感に反応するのがこの自律神経である。当時の三島由紀夫は、常に崖っぷち立たされているようなもので、副交感神経に比べて交感神経が際立って働き続けていたといってよい。そのような不安な状態で将来のことを考えるということを繰り返えせば、将来に対する思考は不安感と結合する。物事の一つの面を取る癖が一旦できあがると、どんなものでも、その面でしか捉えられないように自動化、つまり習慣化してしまうのである。「暁の寺」における破滅意識は本多の認識の反映であるとするならば、それは三島の自動化、習慣化された不安感の投影と言い換えることができる。ナチス・ドイツについて、「本来芸術に求めるべきものを、芸術では満足せず実際行為の世界に移し、生の不安を社会の不安に投影し、死との接触により生の確かめを無理やり作り出し、戦闘的行為によつて、それを証ししようとした」(「若きサムライのための精神講話」)としたと述べていることに興味を持つのは、作品との関係で生じる〈生の不安〉の処理の方法が〈社会〉に向かい、みずからの〈死〉と結び付くという、あたかも三島自身の作家工房を見せつけられた思いがすることである。

 そのような交感神経を刺激する不安な状態、つまり人間存在の不如意がますます「作品外の現実」、つまり政治活動にのめり込む契機になったであろうことは想像に難くない。というのは、「太陽と鉄」(講談社、昭和四十三年一〇月)に次のような記述があるからである。

 政治活動の第一歩である昭和四十二年五月初めての自衛隊体験で、落下傘の操縦訓練の際の「私の自意識から解き放たれてゐた」ことに始まり、訓練をすべて終えた夕方、一人で風呂に行き、宿舎に帰る途上のこと、「精神の絶対の閑暇あり、肉の至上の浄福があつた。(中略)私は正に存在してゐた!/この世界は、天使的な観念の純粋要素で組み立てられ、夾雑物は一時彼方へ追ひやられ、夏のほてつた肌が水浴の水に感じるやうな、世界と解け合つた無辺際のよろこびに溢れてゐた」と感じ、いかなる〈自意識〉からも無縁に、ただ今ここにある喜びに満たされる。それから十カ月後、富士学校での学生たちとの第一回の自衛隊体験では「肉体は集団により、その同苦によつて、はじめて個人によつては達しえない或る肉の高い水位に達する筈であつた。そこで神聖が垣間見られる水位にまで溢れるためには、個性の液化が必要だつた」(「同右」)とあるように、〈集団〉による〈同苦〉によって〈個性の液化〉され、〈神聖が垣間見られる〉ことを求めたことは、三島由紀夫の〈自意識〉の解放の問題を探るうえで重要な意味を持っていると言わなければならない。

   私一人では筋肉と言葉へ還元されざるをえない或るものが、集団の力によつてつなぎ止められ、二度と戻つてくることのできない彼方へ、私を連れ去つてくれることを夢見てゐた。それはおそらく私が「他」を恃んだはじめであつた。

 これもまた「太陽と鉄」の文章からであるが、自衛隊の体験によって得られる〈他〉という概念こそが〈自意識から解き放たれ〉る働きを果たしているのがわかる。「心臓のざわめきは集団に通ひ合ひ、迅速な脈搏は頒たれてゐた。自意識はもはや、遠い都市の幻影のように遠くあつた。私は彼らに属し、彼らは私に属し、疑いやうのない『われら』を形成してゐた」(同右)という心境は、思えば昭和三十一年の地元の夏祭りで神輿の担ぎ人の一員として参加し味わった陶酔と質を同じくしているといってよい。〈集団〉のもつ力を改めて思い起こす気持ちであっただろう。〈集団〉の一員となったことで、かえってあれほど苛んでいた〈自意識〉を〈遠い都市の幻影のやうに遠く〉に感じることができたのである。

 「実感的スポーツ論」(『読売新聞』夕刊、昭和三九年十月五、六、九、十,十二日)で、剣道の際に挙げる叫びを、私一個を突き抜けて得えられる〈喜び〉として、「渋谷警察署の古ぼけた道場の窓から、空を横切る新しい高速道路を仰ぎ見ながら、あちらには『現象』が飛びすぎ、こちらには『本質』が叫んでゐる、といふ喜び、……その叫びと一体化することの最も危険な喜びを感じずにはゐられない」と述べている。これは初めての自衛隊体験で得た〈よろこび〉と同質のものである。そして、少年時代、あれほど嫌悪していたのにもかかわらず、いまやその叫びが好きになったのはなぜだろうと自問しながら、「思ふに、それは私が自分の精神の奥底にある『日本』の叫びを、自らみとめ、自らゆるすやうになつたからだと思はれる」と述べていることは、精神の〈奥底〉=〈本質〉の叫びが自己という殻を破り、「日本」という集合意識に到達する瞬間に発せられることを言い止めている。

   この叫びには近代日本が自ら恥ぢ、必死に押し隠さうとしてゐるものが、あけすけに露呈されてゐる。(中略)それは皮相な近代化の底にもひそんで流れてゐたるところの、民族の深層意識の叫びである。このような怪物的日本は、鎖につながれ、久しく餌を与へられず、衰えて呻吟してゐるが、今なほ剣道の道場においてだけ、われわれの口を借りて叫ぶのである。それが彼の唯一の解放の機会なのだ。私は今ではこの叫びを切に愛する。(「実感的スポーツ論」)

と述べ、この〈深層意識〉は「日本」という集合意識の言い換えであるが、〈深層意識の叫び〉であるがゆえに、三島一個人を越えたものの〈唯一の解放〉につながることをいわんとしている。この巧みな比喩によって浮かび上がってくるのは三島由紀夫という個人の滅却である。三島にとって〈集団〉が意味あるものになり、「日本」という集合意識の存在を知ったことは、自己を越えて、他者も自分と同じ存在とみなす共同存在性が育つという「自己探求」の過程を示している。そしてこのことは、「楯の会」に傾注していく契機となり、結果的には日本回帰、天皇制への傾斜を招き寄せる素地となったと言っても過言ではない。

   かくて集団は、私には、何ものかへの橋、そこを渡れば戻る由もない一つの橋と思はれたのだ。(「太陽と鉄」)

 この〈一つの橋〉とはもちろん〈自意識〉とは対極にあるものであり、いわば脱自の感覚そのものである。これは近代的な自我意識を否定しようとしていることと同義である。三島の〈神聖〉的なもの、超越的なものへの志向はこの脱自の感覚とはおよそ懸隔を生じるものではないといえよう。

 このように、集団の意味の覚醒と〈奥底〉=〈深層意識の叫び〉の自覚という問題がくしくも「唯識」の深層心理的側面とも重なり合う部分を持っていることに注目しなければならない。なぜなら、自我意識のすべてを含む第七識である「末那識」を立て、さらにその奥に、究極の識、無我の流れとしての「阿頼耶識」を設定する「唯識」がまさしく自我の存在を否定する思想体系であるからである。この無我の「唯識」思想の理解と相俟って、三島の内部では超自我の必要性が否が応にも高められたとみてよい。昭和四十二年に中村光夫との対談(『人間と文学』昭和四十二年刊)で、三島は「自我固執」が「何か守る」という形の「不自然な倫理観」を「日本の近代文学全体」に与えたと批判していることからもわかるように、三島の内なる「自我」との対決のためにこの「唯識」思想を作品に取り入れたといえる。つまり、このまま自我の殻に閉じこもり、自意識だけを過剰に増殖さて行けばいずれ近代的な自我意識は根を上げて崩壊してしまうであろう。これは自意識の極限を生きた三島であればこそ、気付くことのできた自我の崩壊の未来像であり、切羽詰まった超自我への希求であったのである。

 いずれにせよ、交感神経をなだめる役目をしたものは「葉隠」や「唯識」思想ばかりではなく、このような外部への発散もまた自意識からの解放に大きく働いたということである。「唯識」思想によって自我の矮小化を知り、政治活動によって超自我の必要性を理解したことは疑いようのないことである。

   四 初期構想の急変の謎

このように三島由紀夫の晩年を見たとき、

しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた。

(「小説とは何か」)

と述べていることは意味深いことである。この〈しかし〉以後の言葉は、「春の雪」「奔馬」の執筆時においては「過度に高まつた」(「同右」)とはいえ、適度に保たれていた作品内外という〈二種の現実の対立・緊張の関係〉が「暁の寺」執筆中に失われ、〈作品外の現実〉が霧散してしまった無念さを意味している。「暁の寺」執筆の〈一年八ヶ月〉を年譜で見てみてもわかるように、昭和四十四年八月には三島の怒りを買い、『論争ジャーナル』の中辻、万代らの数名の会員が「楯の会」を脱退し、さらには最も信頼していた学生部長の持丸までも脱会するという経験や、一〇月には国際反戦デーで、「十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつては悲劇の日だつた。創立以来二十年に亙つて、憲法改正をまちこがれて自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外された(略) 日だつた」(「檄」)という痛切な経験を味わっている。これらの経験が「作品世界」と張り合う形で拮抗していた〈作品外の現実〉を〈紙屑〉化してしまったと思われる。いうなれば〈作品外の現実〉の失望と見合う言葉である。

思えらく、何もかも三島の私費でまかなわれていた私兵集団「楯の会」が昭和初期に「死のう、死のう」と叫んで切腹をした宗教団体と類似しているのは故なしとはしない。他者が介在しない、閉鎖的な集団が辿る道筋は決まって現実と遊離し、先鋭化し、死を前提にする過激な行動で終焉を迎えるからである。祖国防衛構想の破綻に始まり、会員の離脱、少数派による行動へと向かい、果ては切腹による自決は、「楯の会」が「奔馬」で描かれた勲の軌跡と追うことになる。それは三島が現実のほうを強引に「奔馬」に引き寄せたともいえる。自らの言葉で通じる範囲の集団に狭められた「楯の会」はおのずから三島の自意識内の集団にならざるを得ない。このように「楯の会」が虚構化していったとき、まったき意味の文武両道もまた虚構化の道を突き進んでいったと思われる。「楯の会」という集団そのものが生の不如意の問題になっていったのである。「盾の会」の結束の強化を取ったとしてもどうしようもないことであり、それほど当時の三島由紀夫は精神的に追い詰められていた。それはそのとき、本人が意識していなかったとしても文武両道の名のもとで量られていた精神の均衡は崩壊していくことになる。精神の解放であった政治活動が皮肉なことに精神の抑圧になってきたのである。

この時点から、とどのつまり「作品外の現実」であった政治活動もまた人間存在の不如意の一つとして襲ってきて、どちらに行くにしても八方塞がりの状態となったことは明らかである。そのような作品内外の不如意さからくる認識や自意識の問題がまず『暁の寺』に現れ、「天人五衰」に大きい影を落とすことになった。「暁の寺」ではあるが、松本徹氏が三島「自らの認識者としての在り方を極端に肥大化させ、この世界を覆いつくさずにはおれないのである」(『三島由紀夫の最期』文芸春秋・平成十二年十一月二十五日)と指摘していることに同感するのにやぶさかではない。つまり、第三巻「暁の寺」では認識の呪縛、第四巻「天人五衰」では自意識の地獄が前面に押し出されてくることになったと考えられる。「暁の寺」も「天人五衰」も初期構想を変更してでも、本多繁邦を通してどうしても引き剥がすことのできない当時の三島由紀夫自身の精神状況を書かざるをえなかった作品だったといえる。「暁の寺」脱稿後に不快感を吐露した三島が長期連載『豊饒の海』で唯一二カ月の休みを入れて書き始めた「天人五衰」ではその主人公透が本多と同じ認識者として登場し、認識者の世界がさらに徹底化されていることは無理のないことである。

このような身体の世界と心の世界の軋轢を意識的、あるいは無意識に『豊饒の海』という作品に投げ入れていることは明らかである。

 

(その2に続く)

 

 

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三島由紀夫『豊穣の海』 ―世界解釈とその行方― その2

2000年12月01日 10時45分17秒 | 論文

初出:熊本大学大学院修士論文 平成12(2000)年12月1日(その2)

一部掲載:「三島由紀夫の晩年」

  第37号 首藤基澄先生退官記念特輯号 (「国語国文学研究 」 熊本大学文学部国語国文学会 編・2002年2月23日 発行)

 

『豊穣の海』

―世界解釈とその行方―

            永田満徳

 

第三章 『豊饒の海』の作品世界

一 「春の雪」論―感情とその行方、及び「奔馬」論―行為とその行方

さて、『豊饒の海』は、

清顕が時代を動かさなかつたやうに、本多も時代を動かさなかつた。そのむかし感情の戦場に死んだ清顕の時代と事かはり、ふたたび青年が本当の行為の戦場に死ぬべき時代が迫つていた。その魁が勲の死だつた。すなはち転生した二人の若者は、それぞれ対蹠的な戦場で、対蹠的な戦士を遂げたのだつた。

この本多の述懐は、『豊饒の海』第三巻の「暁の寺」が三島の分身である本多の認識の世界のこととして語られることからこの作品を見取り図として考慮すべきである。第一巻「春の雪」は清顕の感情の戦場を、第二巻「奔馬」は行為の戦場を描いた作品だといえる。さらに同じく戦場と名付けるならば、第三巻「暁の寺」は本多の認識の戦場、第四巻「天人五衰」は透の自意識の戦場とする、各戦場の格闘とその行方をそれぞれ描いているものと思われる。

     ① 清顕の情熱と勲の熱意

第一巻「春の海」・第二巻「奔馬」では主人公の性格付けに特徴がある。第一巻の松枝清顕と第二巻の飯沼勲は、三島の自注自解にあるように、何よりも〈絶対的一回性〉を送るために、死への志向を持つ青年として造型されている。両者の物語において、清顕は無意志の青年と規定されているのに対して、勲は「神風連の純粋に学べ」というスローガンを掲げる意志を持った青年と規定されている。この規定にこそ、第一巻は「たおやめぶり」、第二巻は「ますらおぶり」という初期における最も基本的な構想の意図が込められている。三島は絶頂のうちに二十歳で夭逝する転生者の物語という共通項のなかで、全く性格の違う主人公の軌跡を描き分けることに作家的力量のすべてを賭けたと言っても言い過ぎではない。その意味では、『豊饒の海』は三島の構想力を遺憾なく発揮した作品であるといえる。

「春の雪」の構想という面で、主人公清顕という性格に注意すべきであるということすでに先田進氏が指摘している。富と権勢をほしいままにする新興貴族である松枝侯爵家の嫡子清顕は「自分にとつてただ一つ真実だと思はれるもの、とめどない、無意味な、死ぬと思えば活き返り衰えると見れば熾り、方向もなければ帰結もない『感情』のためだけに生きること」を宣言して憚らない。そのような清顕でありながら、その「感情」の底に「何か決定的なもの」を期待する心象を持つ人物として描かれている。漠然と求めている「何か決定的なもの」は聡子と洞院宮典王殿下との間の《勅許》による婚約成立によって実現する。構想の側からすれば、《勅許》という禁忌の成立ゆえに彼の感情が噴出するのではなく、むしろ彼の感情が噴出するために、禁忌の成立が必要であったといえよう。その《勅許》に至るまでの、聡子との恋の駆け引きのさまは、清顕の一方的な思い込みで、被害意識とみまごうほどである。その感情の絶え間ない感情の起伏こそが、絶対の不可能への挑戦の基盤をなしている。本多が聡子との関係に逡巡している清顕に対して決意を促すように、「行為の戦場と同じやうに、やはり若い者が、その感情の戦場で戦死してゆくのだと思ふ。それがおそらく、貴様をその代表とする、われわれの時代の運命なんだ」といみじくも言ったのも故なしとしない。清顕は感情の戦場で戦死することで、大正時代の若者を代表することになるからである。

何が清顕に歓喜をもたらしたかと云へば、それは不可能といふ観念だつた。絶対の不可能。聡子と自分との間の糸は、琴の糸が鋭い刃物で絶たれたやうに、この勅許といふきらめく刃で、断弦の迸る叫びと共に切られてしまつた。彼が少年時代から久しい間、優柔不断のくりかへしのうちにひそかに夢み、ひそかに待ち望んでゐた事態はこれだつたのだ。(中略)絶対の不可能。これこそ清顕自身が、屈折をきはめた感情にひたすら忠実であることによつて、自ら招き寄せた事態だった。

磯田光一氏は《勅許》を受けるという「障壁」によって、「情念純化」を生き抜く物語としてこの作品をとらえている。田阪昂氏は情熱が不可能の追求であるという、かなり自己流のバタイユの把握を踏まえて、「絶対不可能な事態に立ち至ったとき清顕は、『今こそ僕は聡子に恋している』と内心の叫びをあげ、生まれて初めての至純の愛の情熱をいだくわけである」と述べている。「至高の禁」を犯すほどの突出した情熱にこそ、清顕の不可解な行為の本意を読み取るべきである。「不可能」は絶対であろうがなかろうが、一つの制限、あるいは一つ障壁である。《勅許》というのは一つの制限であり、障壁である以上、行動の選択を狭める以外に行動することはできない。しかし、〈屈折をきはめた感情〉であればこそ、その障壁に隔てられれば隔てられるほど純化し、瞬発力を溜めるのは当然の成り行きである。優柔不断な性格の持ち主という設定自体は、《勅許》という障壁の出現によって劇的に興隆する感情を浮き彫りにさせる効果がある。ここで初めて、「僕はなかなかはじめないが、一旦はじめたら、途中でやめるやうな男ぢやない」という科白は暴発とも言うべき感情の急変の伏線になっていたことがわかる。

「奔馬」の場合は、飯沼勲の性格は見る者の立場になった本多繁邦の視点を通して描かれる。例えば、初対面のときの目に注目して、「正面を睨んで、外界の何ものも受けつけない」ものを感じ、「『人生について、まだ何も知らない人間の顔だ』」と思い、「『降り積つたばかりの雪が、やがて溶けもし汚れもしようということが信じられないでゐるときの顔だ』」と見たように、あまりにも自分の世界を強固に保ち過ぎることへの警戒感を持ち、純粋無垢の危険さを察知している。本多の認識の正しさは、憂国の至情から昭和の神風連を決行する直前に逮捕された新聞の顔写真を見て、「決して家常茶飯に融け合わない、非日常的に澄んだその光りに深い印象を受けた目はそのまま残っている。つねに眥を決しているという感じのあの目は、正にこの日を目ざしていたのだ」という感慨を持つことによって証明される。そのような勲の姿勢で最も印象に残るのは、決起の際最も頼みとする洞院宮から尋ねられて、

はい。忠義とは、私には、自分の手が火傷をするほど熱い飯を握つて、ただ陛下に差し上げたい一心で握り飯を作つて、御前に捧げることだと思ひます。その結果、陛下が御空腹ではなく、すげなくお返しになつたり、あるひは、『こんな不味いもの喰へるか』と仰言つて、こちらの顔に握り飯をぶつけられるやうなことがあつた場合も、顔に飯粒をつけたまま退下して、ありがたくただちに腹を切らねばなりません。又もし、陛下が御空腹であつて、よろこんでその握り飯を召し上がつて、直ちに退つてありがたく腹を切らねばなりません。なぜなら、草莽の手を以て直に握つた飯を、大御食として奉つた罪は万死に値ひするからです。では、握り飯を作つて献上せずに、そのまま自分の手もとに置いたらどうなりましようか。飯はやがて腐るに決まつています。これも忠義ではありましようが、私はこれを勇なき忠義と呼びます。勇気ある忠義とは、死をかえりみず、その一心に作つた握り飯を献上することであります。

と答えているところである。ここには〈忠義〉そのものよりも事の成就如何にも関わらず、〈死〉あるのみとして、死への熱意が突出していることに特色があるといわなければならない。

純粋といふ観念は勲から出て、ほかの二人の少年の頭にも心にもしみ込んでゐた。勲はスローガンを拵えた。「神風連の純粋に学べ」といふ仲間うちのスローガンを。

純粋とは、花のような観念、薄荷をよく利かした含嗽薬の味のやうな観念、やさしい母の胸にすがりつくやうな観念を、ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念。あるひは切腹の観念に結びつけるものだつた。「花と散る」といふときに、血みどろの屍体はたちまち匂ひやかな桜の花に化した。純粋とは、正反対の観念のほしいままな転換だつた。だから、純粋は詩なのである。

「純粋」にしても、「全生命を賭けてでも、自己に燃焼し尽くしたいというそのこと自体」に他ならないと捉え、目的達成を目指す熱意そのものに生甲斐を感じる勲像を提出している。「神風連史話」にしても、勲に宛てた手紙の中で、本多は「物語の危険は矛盾の除去であり、この山尾綱紀という著者も、書かれた限りの史実には忠実でせうが、こんな薄い小冊子の内容の統一のためには、多くの矛盾を除去したにちがひありません。」(九)と述べているように、「神風連史話」は、『神風連血涙史』他の先行文献に依拠しながら多くの情報を切り捨て、また独自の記述を付加する操作によって組み立てられたものであった。その求心的な構成は、「神風連史話」を類書から質的に隔てる特徴となっている。「神風連史話」は、いわば「純化された物語」とでも言うべき性格を備えた書物なのである。「神風連史話」における神風連について、山口直孝氏は「強度の現世否定の理念と実効性の希薄な行動様式とを併せ持つ集団として表象されている」(「『奔馬』の構造―『神風連史話』の解体と再生―」『昭和文学研究』平成八・二)と述べているように、成算を度外しした、死への熱意そのものが主題となっていると見てよい。

そのような「神風連史話」に心酔する彼だからこそ、挫折という現実すら、「現実が一つ崩れたあとも、すぐ別の現実が結晶しはじめて、新たな秩序を作りだすという観念に、いつのまにか馴れはじめてゐる自分に気づゐた。その新らしい結晶からは中尉はすでに弾き出されてゐた。そしてその威丈高な軍服姿は、出口も入口もない透明な結晶体のまはりをうろうろしてゐた。勲はもう一つ高度の純粋へ、もう一つ確実性の高い悲劇へ辿りつゐたのだ」というふうに、矛盾の除去に働くのは当然のことである。「純粋」という観念はその除去の方便として機能するのである。彼は外部によって自己変革するような人物ではない。つまり、自己閉塞状況を打開する意志はまったくなく、自己本位の役割を演じ続ける。従って、処々に描かれる右翼・軍部・社会の状況は本質的に重要な事柄ではないのであって、勲の弧絶さが強調されはすれ、決して物語に決定的な影響を与えるものではない。

このように、清顕の死への情熱は〈何か〉を媒介とするものであるのに対して、勲の死への熱意は最初から明確に存在するものである。勲の熱意はもともと「荒ぶる魂」を持っているのに対して、清顕の情熱は勅許という外部の存在なくしては成り立たない。〈何か〉という漠然とした期待が明確な意志へと変わるところに第一巻と第二巻においる最大の違いがあり、通低しているには主人公の意志の問題である。ともあれ、清顕と勲はともに〈椿事〉を待望する少年の系譜に添う人物であり、その人物たちの集大成的な役割を担わされているといえよう。清顕の「情熱」や勲の「熱意」は、大正時代であったからこそ可能になったともいえよう。戦前の社会の大きな特徴である天皇という絶対者の存在を抜きにしては成り立たないからである。

     ② 「血まみれ」と「血みどろ」

ところで、清顕の「優雅」や勲の「純粋」の実質については近年疑義を挟む論が多く出されていて、むしろ清顕における聡子の「優雅」の模倣性、勲における「神風連史話」の「純粋」の模倣性が問題にされてきている。清顕の「優雅」も勲の「純粋」も彼らの内部から発し、彼らの行動を方向付けているように思われる観念は外部で提示されたものを学んで得たに過ぎない。「優雅」や「純粋」が完全に先験的に与えられたものでないことは、清顕や勲自身によって絶えずわが身が疑われていることからもわかる。それでは、彼らの内部から発せられるものは何かといえば、清顕においては「情熱」、勲においては「熱意」とか呼ばれるもので、それはいずれも利害打算を抜きにしたファナテックで、身体的活動そのものである。

そういう意味で言えば、「春の雪」においては、蓼科の存在は無視できない。聡子の乳母である蓼科は狂言回し的な存在で、清顕と聡子の間に介在し、二人の行く末に重大な影響を及ぼしていることは明らかである。

蓼科はいつのまにか、一つの説明しがたい快さの虜になつてゐた。自分の手引で、若い美しい二人を逢はせてやることが、そして彼らの望みのない恋の燃え募るさまを眺めてゐることが、蓼科にはしらずしらずどんな危瞼と引きかヘにしてもよい痛烈な快さになつてゐた(中略)

実際蓼科の役目は聡子を悪から護るためにあつた筈だが、燃えてゐるものは悪ではない、歌になるものは悪ではない、といふ訓へは綾倉家の傳承する遠い優雅のなかにほのめかされてゐたのではなかつたか?

蓼科の独自性は、〈若い美しい二人〉の運命を弄ぶことに喜びを得ようとすることにあるのでなく、人間世界の「情熱の法則」に通じ、情熱の政治的力学を知り尽くしているという自負を持っていることである。清顯に優雅の典型と思われている聡子にとって優雅の指南役は蓼科であったことを忘れてはならない。優雅のいろはに長けている彼女が、一見世俗のすべてから遊離しているかのような「優雅」の裏にある「血まみれなもの」を知悉している「血まみれなものの専門家」であることは強調してもしすぎることはない。「血まみれなもの」の源流であり、「暗い熱い血と肉にひしと包まれた形而上的な何か」である無言語的領域の子供を宿した聡子は既に蓼科の世界の住人である。つまり、蓼科は優雅のなかにある身体の世界に通暁している無言語領域の人物なのである。

そのような蓼科によって引導を渡された清顯が、密会を通して、「かねて学んだ優雅が、血みどろの実質を秘めてゐる」ことを知ることになるのは時間の問題であった。清顕の情熱の噴出はいわばこの身体の世界の住人である蓼科の導きによって行われたという他はない。

一方、「奔馬」においては、禊の錬成会を飛び出した勲の行動を「素盞鳴尊」に比され、「荒ぶる魂」だと慨嘆される場面からいって、飯沼勲自身身体の世界に親しんでいることはまちがいない。「奔馬」がこうした身体の世界「荒魂」を描こうとした作品だと言っても過言ではない。

「どうして帰らんのだ。これだけ言はれても、まだわからんのか。」

と勲は叫んだが、これに応ずる声は一つもなく、しかも今度の沈黙はさつきのとは明らかにちがつて、何かの闇の中から温かい大きな獣が身を起こしたやうな感じのする沈黙だつた。勲はその沈黙に、はじめてはつきりした手応へを感じた。それは熱く、獣臭く、血に充ち、脈打つてゐた。

死を賭した決起に参加するかどうかを試す最も重要な場面であるだけに、参加の反応を〈獣〉と比喩し、〈熱く、獣臭く、血に充ち、脈打っていた〉という「獣」的イメージで表現していることは、「奔馬」の世界が身体的世界であり、無言語の領域でることを物語っている。本多が「暁の寺」において、「民族のもつとも純粋な要素は必ず血の匂ひがし、野蛮な影がさしてゐる」と回想している場面は、飯沼勲が体現している身体の世界・無言語領域を的確につかんでいたと言わなければならない。従って、勲の考える「純粋」は「匂やかな桜の花」の観念と「血みどろの屍体」、「切腹の観念」とを直結させたものであるが、これは清顕が「優雅」の観念を「血みどろの実質」と見るのとはまったく同質のものといえよう。この結び付きようのない対蹠的な観念をみごとに結び付けることのできるキーワードは身体の世界・無言語領域以外にはない。

    ③ 「源流」意識

三島由紀夫は、神風連の事績を、

神風連といふものは、目的のために手段を選ばないのではなくて、手段イール目的、目的イコール手段、みんな神意のまにまにだから、あらゆる政治運動における目的、手段のあいだの乖離といふのはあり得ない。それは芸術における内容と形式と同じですね。僕は、日本精神といふもののいちばん原質的な、ある意味でいちばんファナティックな純粋実験はここだつたと思ふのです。

(「対談=日本人論」・番町書房・昭和41・10)

と述べ、手段と目的とが一致する希有な運動であるとして、

三島 〈中略〉絶対者に到達することを夢見て、夢見て、夢見るけれども、それはロマンティークでもあつて、そこに到達できない。その到達不可能なものが芸術であり、到達可能なものが行動であるといふふうに考へると、ちやんと文武両道にまとまるんです。到達可能なものは、先にあなたのおつしやつたやうに死ですよね。それしかないんです。だけど芸術の場合は、死が最高理念ぢやないんですよ。芸術といふのは、もうとにかく生きて、生きて、生き延びなければ完成もしないし、洗練もしない。だけど行動となると、十八歳で死んだつてよいんだからね。そこで完成しちやふ。ぼくは、ただ為すこともなく生きて、そしてトシを取つていくといふことは、もう苦痛そのもので、体が引き裂かれるやうに思へるんです。だから、ここらで決意を固めることが、芸術家である生きがひなんだと思ふやうになつたんです。

(「三島由紀夫 最後の言葉」前掲書)

と行動と芸術の違いが述べられてはいるものの、政治的というより芸術的なものといっていることに注意しなければならない。手段と目的が乖離しなければ、その分、行動はしやすくなる。「奔馬」は勲を通して、そのことを示すことになる。「ファナティックな日本精神の純粋実験」という言葉は、「神風連史話」と勲の関係からしても、「奔馬」作品そのものが「ファナティックな日本精神の純粋実験」を試みたものであるといえよう。

 この「ファナティック」なものへの嗜好は、

三島 どろ臭い、暗い精神主義――ぼくは、それが好きで仕様がない、うんとファナティックな、蒙昧主義的な、そういふものがとても好きなんです。それがぼくの中のディオニソスなんです。ぼくのディオニソスは、神風連につながり、西南の役につながり、萩の乱その他、あのへんの暗い蒙昧ともいふべき破壊衝動につながつてゐるんです。

「いまにわかります」(『図書新聞』昭和四十五年十一月十八日)

とあるように、根深いものであり、『豊饒の海』の主人公はもとより、ほとんどの登場人物が〈破滅衝動〉に突き動かされるのも無理のないことである。

三島 昔から唐・天竺といはれてゐました。ぼくのいまの小説(新潮)連載中の「豊饒の海」)も、唐・天竺的な大きい文化圏の上に立つたものを書きたいと思つてゐた。ところが唐が「唐くれなゐ」になつちやつたから、ハッハッ。で、いまはもつぱら天竺を研究してゐます。日本文化の源流を求めりやみんな天竺へ行つてしまひますね。それは、もう、みんなあすこにあります。

三島 (中略)それに源流をたどる気持は、ぼくのなかに非常に強くあるわけです。二・二十六事件をやれば神風連をやりたくなる。神風連をやれば国学をやる。国学をはじめれば陽明学をやりたくなる。

(『毎日新聞』昭和四十二年十月二十一日)

この「源流」意識と密接に関わっているのである。身体の世界といい、その世界の無言語領域というのはまさに「源流」意識そのものであるからである。

    ④ 現世離脱

 「春の雪」の「何か」を待ち望む心象は、何の変哲もない日常への脱出願望であることは論を待たない。無意志・無感動の清顕の性格付けはこの願望の対比として設定されたものと思われる。こうした志向は、現実的な規範、制約から遁れることで、初めて獲得しうる至福の世界を希求してやまない。そこでは、一切の行為が、それを規定する現実世界、社会制度等による汚れを蒙ることなく、もっとも純粋な結晶となりうるからである。死を賭しての至福世界への到達といったところで、それは、そもそも徹底した現実忌避によってのみ辛うじて支えられるという性質のものにすぎない。

このように、現実からの離脱のみが強調され、その結果その離脱の過程そのものがこの小説のストーリーとなるのである。

柴田勝二氏がすでに述べていることだが、

清顕は聡子との関係を深めることによって、さらに彼岸的な場所に自己を追いやっていくことになる。その時にこの作品は世俗からの離反の物語としての姿を現すことになるのである。(中略)もともと聡子は優雅という価値を媒介させて天皇の彼岸性へとつながっていく人間であったが、さらに現実世界に域外へ自己を追いやっていくのである。(「優雅の行方―三島由紀夫『春の雪』論―」『日本文学』平成一〇・九)

「彼岸」への志向こそ、初期構想で三島が語っている「ニルヴァーナ(涅槃)」を示している。「春の雪」における「ニルヴァーナ(涅槃)」は、時には〈情熱〉に点火しうる「感情」という「とめどない、無意味な、死ぬと思えば活き返り衰えると見れば熾り、方向もなければ帰結もない」無言語の世界を通して達成されたものである。勲の熱意はもともと「荒ぶる魂」持っているのに対して、清顕の情熱は勅許という外部の存在なくしては成り立たない。

『豊饒の海』の勲が身体の世界の住人であることは、

勲はそこに、この薄暗い電燈の下、黴くさひ畳の上に、自分の焔の確証を見た。頽れかけた花の、花弁は悉く腐れ落ちて、したたかな蕊だけが束になつて光りを放つてゐる。この鋭い蕊だけでも、青空の眼を突き刺すことができるのだ。夢が痩せるほど頑なに身を倚せ合つて、理智がつけ込む隙もないほどの固い殺戮の玉髄になつたのだ。

とあるように、反理智の立場に立っていることからも窺える。かつて寺田寅彦が「頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい。すべての行為には危険が伴うからであるけがを恐れる人は大工にはなれない。失敗を怖がる人は科学者にはなれない。科学もやはり頭の悪い命知らずの死骸の山の上に築かれた殿堂であり、血の川のほとりに咲いた花園である。一身の利害に対して頭がいい人は戦士にはなりにくい。」(「鉄塔」・昭8)と述べた文章を持ち出すまでもなく、本多のように理智的であればあれば行動の障害になるからである。

飯沼勲の世界がまさしく手段を弄せず、ファナティックに、そして動物的に行動をする無言語の世界であったからこそ、

社を背にして立つ勲のまはりに、二十人の若者が集まつた。勲はそれらの無言の目が、等しく夕日を受けて燃え立つて、身も心も天外へ拉し去つてくれる灼熱した力を翹望して、自分につかみかかろうとしてゐるのを感じた。p211

とあるように、決起の仲間に〈無言の目〉で見守られながら〈身も心も天外へ拉し去つてくれる灼熱した力を翹望〉することができるのである。〈身も心も天外へ拉し去つてくれる〉への〈翹望〉は、公判の最後の陳述において、「一身の利害」を超えて、「身一つで天に昇ればとよい」と答えていることからも、いわゆる昇天願望がより強く打ち出されている。この身体的世界を通して達成される昇天願望こそ、三島が語っている「ニルヴァーナ(涅槃)」の問題と大きく関わるものである。いわば、川端康成の「ニルヴァーナ(涅槃)」が平面的であるのに対して、三島のそれは直線的であるのである。

このように、『豊饒の海』第一・第二巻は、理屈で割り切れぬ、内部から発するものに突き動かされる人間の内面劇として、きわめて輪郭の明らかな小説になっている。

   二 「春の雪」「奔馬」における「ニルヴァーナ(涅槃)」

それにしても、三島が語った「ニルヴァーナ(涅槃)」は一般に理解されていることとは違って、彼独特の「ニルヴァーナ(涅槃)」観であるように思われる。ここにニルヴァーナという言葉を使っている「谷崎潤一郎」論の次のような文章がある。

谷崎氏のかかるエロス構造においては、老いはそれほど恐るべき問題ではなかつた。(中略)老いは、それほど悲劇的な事態ではなく、むしろ老い=死=ニルヴァナにこそ、性の三昧境への接近の道程があつたと考えられる。小説家としての谷崎氏の長寿は、まことに芸術的必然性のある長寿であつた。この神童ははじめから、知的極北における夭折への道と、反対の道を歩きだしていたからである。

この文章は谷崎を〈長寿〉型の作家として、その秘密を解き明かそうとしたものである。三島由紀夫は〈長寿〉的な作家としての谷崎の本質を恐ろしいくらいに掴んでいる。谷崎の本質というものは谷崎の〈長寿〉が〈老い=死=ニルヴァナ〉という三者の「性の三昧境」を芸術的に昇華したところに必然的に生じるのを見抜いている。つまり、三島が谷崎を通してみた〈ニルヴァナ〉は、己の本分を尽くし、しかるべきところに落ち着いた先に到達されるものであるということである。従って、『豊饒の海』における「ニルヴァーナ(涅槃)」とは、各巻の主人公が「劇的空間」を各人の性向のままに生き抜き、それがそのままニルヴァーナ(涅槃)であるということである。

このような「ニルヴァーナ(涅槃)」観を実際の『豊饒の海』に当てはめるとどうなるか。松枝清顕の場合は、落飾した聡子に「死を賭して」会おうとした結果、ついに病に倒れた折、

   清顕はすでに自分を、松枝家という岩乗な一族の指に刺さつた「優雅の棘」だとはさらさら考えなくなつてゐた。さりとて自分も亦、その岩乗な指の一本に他ならぬと、思い直したわけではない。彼がかつてわが内に信じた優雅は涸れ果て、魂は荒廃し、歌の原素となるやうな流麗な悲しみはどこにもなく、体内をただうつろな風が吹いてゐた。今ほど優雅からも遠く、美からさへ、遠く隔たつた自分を感じたことはなかつた。

しかし、自分が本当に美しいものになるとはそのやうなことだつたかもしれない。こんなに何も感じられず、陶酔もなく、目の前にはつきりと見えている苦悩さへ、よもや自分の苦悩とは信じられず、痛みさへ現の痛みとも思はれぬ。それは何よりも癩病人の症状と似通つていた、美しいものになるといふことは。

という境地に至る。この境地は感情に生起するすべての計らいを喪失した状態を示している。感情を唯一の手がかりにした清顯がそのとらえどころのない感情を放し飼いにし、本能のままに生きた証である。〈美しいものになるとは〉という言葉は感情の戦場でつかみ取った「ニルヴァーナ(涅槃)」ということになる。従って、「奔馬」の有名な最後の場面は、勲の行為の戦場で勝ち取った「ニルヴァーナ(涅槃)」の世界である。

勲は深く呼吸をして、左手で腹を撫でると、瞑目して、右手の小刀の刃先をそこへ押しあて、左手の指さきで位置を定め、右腕に力をこめて突つ込んだ。

正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫変と昇つた。

飯沼勲の場合は、意のままに生き抜いた果てにつかんだ瞬間で、死と引き換えに幻視することができた〈日輪〉=「ニルヴァーナ(涅槃)」であったといえる。

 

(その3に続く)

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三島由紀夫『豊穣の海』 ―世界解釈とその行方― その3

2000年12月01日 10時45分00秒 | 論文

初出:熊本大学大学院修士論文 平成12(2000)年12月1日(その3)

一部掲載:「三島由紀夫の晩年」

  第37号 首藤基澄先生退官記念特輯号 (「国語国文学研究」 熊本大学文学部国語国文学会 編・2002年2月23日 発行)

 

三島由紀夫『豊穣の海』

―世界解釈とその行方―

         永田満徳

 三 「暁の寺」論―認識とその行方

初めに

「奔馬」において、徐々に露呈してきた本多繁邦の見る者としての立場は飯沼勲の行動を絶えず相対化するものであった。この立場は相対化する思想として展開される「暁の寺」にそのまま引き継がれていくことになる。本多と転生者との乖離はこの時点より決定的になるのである。

「暁の寺」は二部構成である。一部は戦時中の出来事で、インド体験を詳述し、作品全体の均衡を欠くとの批判が出るほど輪廻転生を巡る記述がある。そのインド体験で特に重要なベナレスの「喜悦」は輪廻転生と深く繋がっている。ベナレスで感じた「つねに目前にくりかへされる自然の事象」である輪廻転生というのは、死が完全な終わりであることを意味せず、生の絶対的一回性を大きく相対化するものである。死が新しい生の誕生を促す区切りであるところに、ベナレスの「喜悦」は生じている。ここに三島が仏教の空観と相対主義を結びつける理由がある。絶対的一回主義の身体的世界から相対主義の心の世界への移行を示すのがベナレスの体験であり、第三巻「暁の寺」・第四巻「天人五衰」の導入の役割をはたすことになる。多くの仏教書を読みあさり、輪廻転生の根拠を唯識論に求める。「暁の寺」を『新潮』に連載中の昭和四十四年四月(「『豊饒の海』について」)の段階で、「世界解釈の小説」を書くことを宣言しているのは、この巻でこそ自己を含めたこの世界全体を現象させている究極的な識が阿頼耶識だとする唯識論に援用しながら、本多における「世界解釈」を披瀝しようと思ったからである。

ここにこそ、三島自身が、

三島 でも、あれは初めから頭にあったんです。あそこで生まれかはり哲学をブッておかないと、第四巻がわからなくなつてしまふんです。第四巻では、もうなんにも説明なしに、ただエピソードだけが羅列されてゐるんですよ。この第四巻の世界は、第三巻の前半が前提にならなきや展開できない性質のものなんです。だから、ぼくは読者に目をつぶつてもらつて、第三巻の前半でギューギュー思弁的なことを聞いてもらひ、それを一度忘れてもらつて、第四巻ではカタストローフまで一気に読んでもらはう、といふ気があつたんです。最後まで読んでいただくと、その意図がわかつてもらへると思ふんですがね。

「もう、この気持ちは抑へやうがない」「三島由紀夫 最後の言葉」『図書新聞』・昭和四十六年一月二日)

といった真意がある。第三巻「暁の寺」における唯識論が『豊饒の海』四巻の要になっているだけに留まらず、身体の世界から心の世界への転換を示す重要さに触れていると見たい。

     ① 阿頼耶識の世界

本多の熱心な輪廻転生の研究によって未知であり、脅威であった輪廻転生は、「もつとも恐るべきことは、(あの転生の奇蹟も含めて)、すべての謎が法則に化してしまつた」ことによって、本多の認識の一部と化すのである。輪廻転生するのは阿頼耶識で、「一瞬もとどまらない『無我の流れ』としながらも、「すべての認識の根」であり、「阿頼耶識は、かくてこの世界、われわれの住む迷界を顕現させてゐる。すべての認識対象を包括し、かつ顕現させてゐる」という。つまり、迷界としてのこの世界は自己の認識が作り出したものである。本多繁邦は縷々として言葉を尽くして探索した結果、「この世界はすべて阿頼耶識なのであった」と結論づけるのである。

   現在のこの世界は、本多の認識が作った世界であったから、ジン・ジャンも共にここに住んでいた。唯識論に従えば、それは本多の阿頼耶識の創った世界だった。

ということであれば、『暁の寺』そのものが〈本多の阿頼耶識の創った世界〉であることになる。第一巻から第二巻に至る終始副主人公の役割であった本多がこの巻では主人公の座に躍り出たことを意味している。従って、このことは主人公の転調とは捉えず、清顕・勲・本多という流れにこそこの物語の一貫した意図を読み取ることができる。本多こそは、これまでの主人公に比べて、より現実に近い人物である。『豊饒の海』の最初の二巻は傑作ではあるが、三島色のあらわな、いかにも予定調和的で作り物めいている。しかし、『暁の寺』になってくると、我々の人生のように退屈で、何が出てくるかわからないほど混乱している。本多が心の世界、有言語領域の住人であるからである。

     ② 認識の世界―心の世界

   ……ここに思ひいたると、本多の目には、周囲の事物が今まで思ひもかけなかつた姿で眺められてきた。

 これは唯識論の「真の意味」を知り得たという直後の感慨であるが、その後の「暁の寺」二部の展開を見れば基本モチーフを示しているといわなければならない。昭和二十年、アメリカ軍の空襲を受けて焼け野原になった渋谷の情景に対して、本多の心はこの「焼跡」さえも「顕現」させ、「破壊者」は自分自身であったと気づくのである。この阿頼耶識は本多の理解した阿頼耶識と言ってもいいのだが、それだけに特異な認識で、「日ごと月ごとにますます破滅の色の深める世界を受け入れる」ことにしても、「刹那刹那の確実で法則な全的滅却をしっかり心に保持して、なお不確実な未来の滅びに備える」ことにしても、「一瞬一瞬の生滅」という阿頼耶識の生成面よりも破滅面を強調するのである。この作品の劇的な幕切れとなった本多の別荘炎上こそは、

  焔、これを映す水、焼ける亡骸、

   ……それこそベナレスだつた。あの聖地で究極のものを見た本多が、どうしてその再現を夢見なかつた筈があらうか。

とあるように、本多繁邦の阿頼耶識による破滅の再現にほかならない。『暁の寺』の登場人物すべてが悪意のある人物であり、破滅型の人物であるのは故なしとしない。本多の阿頼耶識による破滅意識の投影だからである。

 このように、「暁の寺」は繰り返すまでもなく、 本多の認識の織りなす世界が描かれた作品である。第四巻「天人五衰」の門跡の「心々ですさかい」という、すべてを相対化する言葉は本多の『豊饒の海』で辿ってきた輪廻転生が本多の相対的な認識世界のことであったことをみごとに喝破してみせたことになる。

ところで、本多繁邦の認識の世界は清顕や勲まったく対照的で、徹頭徹尾理性、知性、理智の世界、つまり心の世界である。「たえず世界を要約していなくては不安な心、まだ記録されていない現実は執拗に認めまいとする頑なな心」をもつ「癖」があり、「一旦理知をとおすことなしには、決して外界に接しない性質」を持つかぎり、理智の世界から抜き出すことができないといってよい。ドイツ文学者の今西もまた、四十そこそこで独身であり、かつ想像の世界をもった人物として登場する。今西は、「石榴の国」と名付けた「性の千年王国」を夢見つづけている。「石榴の国」は、「この世のものならぬ美しい児」=「記憶に留められる者」と、「醜い不具者」=「記憶を留める者」の二種類の人間によって成立する。そして、美しい人間は、記憶に留められるために、若く美しいうちに、不具者によって殺されてしまうのである。この今西の想像の二項対立的な王国は、ほとんどそのまま本多の認識の雛型であり、『豊饒の海』のテクスト内における構造説明と言っても過言ではない。今西の造型はいささか戯画化されているが、本多の二項対立的な心の世界を明確化する役割が担わされている。その意味で、もし転生者が「心の流れ」によって引き継がれていくとすれば、心の世界の徹底化された自意識の持ち主透こそは、今西の生まれ変わりといっても過言ではない。

    ③ 認識の世界からの脱出

そのような本多の世界で、本多の「認識の目を免れしむる」ものが存在する。それはベナレスの体験とジン・ジャンの存在である。本多の認識の世界を此岸とすれば、この両者は彼岸あり、『暁の寺』はこの此岸と彼岸の対立のドラマであると言っても過言ではない。

 「ベナレス。それは華麗なほど醜い一枚の絨毯だった」と認識する本多にとって、

   自分の理智が、彼一人が懐ろに秘めた匕首の刃のやうに、この完全な織物を引き裂くのではないかと恐れた。/要はそれを捨てることだつた。少年時代から自分の役割と見做した理智の刃は、すでにいくたびかの転生の襲来によつて、刃こぼれのしたまま辛うじて保たれてゐたが、今はこの汗と病菌と埃と人ごみの中へ、人知れず捨てて行くほかはなつた

というほどの反理智の世界が〈ベナレス〉であった。〈汗と病菌と埃と人ごみ〉こそが本多がいまだかつて経験したこともない、本多の日常世界と隔絶した反理智の世界である。本多は自分の理智を捨てさえすれば〈ベナレス〉という彼岸の住人に成れることを知り過ぎるほど知っていた。しかし、その不可能性を知らしめたのは外ならぬジン・ジャンであった。

 ジン・ジャンの存在また、「彼の認識慾の彼方に位」するものであった。本多にとって、ジン・ジャンは「精力」信仰の対象であるヒンズー教のカーリー女神の変形であり、あるいは密教の孔雀明王と同一化される聖的女性である。そうであるがゆえに、

   ジン・ジャンを、決して手の届かぬ(そもそも彼の手の長さと認識の長さとは同じ寸法だつたから)、決して認識の届かぬところへ遠ざける作業だつた。

といった、本多の認識の及ばぬ存在として描かれざるを得えなった。そのような存在でありながら、五十八歳の本多を「生の放つ魅惑によつて」「誘惑」するのである。ジン・ジャンが「本多を不断の生へといざなふ」のは本多が認識の不毛の世界に生きてきたからである。しかし、そのようなジン・ジャンを、

   インドのあのやうな体験から、この世の果てを見てしまつたと感じた本多は、認識の爪が届かぬ領域へ獲物を遠ざけることによつて、日だまりに横たはり、樹脂のこびりついた毛を舐つてゐる、怠惰な獣の嗜慾をわがものにしようと思つたのである。

とあるように、認識とは対極にあり、認識の及ばぬ領域に存在するものとするのである。ジン・ジャンにしても、本多のそういうインド(ベナレス)の宗教体験と見合う形で形象化されているとみてよい。ここに、本多繁邦の痛ましいほどの理智の呪縛と反理智への希求の立場が窺える。

     ④ 認識の呪縛からの癒し

 それにしても、認識という理智の対極にインドの体験があるとすれば、インド(ベナレス)の体験は本多の精神世界にある作用を及ぼしたからにほかならない。それは、

   未知にむかつて噛みつき、すべてを既知の屍に化し、その死体置き場の領域へ組み入れてしまふという認識の恐ろしく退屈な病気を、インドがかつて一度癒してくれたのではなかつたか。

とあることからもわかるように、認識という〈病気〉の〈癒し〉である。本多は病んだ精神の〈癒し〉をインドの体験で学んだことをジン・ジャンに「恋」するという形で求めようとしたともいえる。「暁の寺」第二部がジン・ジャンに対する本多の恋慕の物語という体裁を取るのは無理のないことである。ここにこれまでと違った人物造形がある。創作ノートでは本多の子を生む展開を考えていたらしい。

 しかし、自分の性を知り抜いているがゆえに、「自分の肉の欲望が認識慾と全く平行し重なり合ふといふことは、実に耐え難い事態であつたから、その二つを引き離さぬことには、恋の生れる余地はないことを本多はよく知つてゐた」から、「本多の恋は、認識の爪のなるたけ届かない遠方へ、ますますジン・ジャンを遠ざけやうとする」のである。

ジン・ジャンを水晶の裡に保つことが自分の快楽の本質だと思はれたけれど、持つて生まれた究理慾とも袂を分つことができなかつた。

 ここにしてついに、認識家からはみ出すことができない本多繁邦にとって、ジン・ジャンは〈快楽〉のもつ〈癒し〉には到底なり得ないのである。ジン・ジャンは彼岸の存在であるがゆえに、「一種の光学的存在」であり、「肉体の虹」である。「永遠の不可知」な存在になって行くばかりである。ここに、本多は「エロティシズムの極致」を認め、そこに「死」を想定するのである。

   もし恋の赴くままに認識を否定し、認識から無限に遁れ出ようとし、ジン・ジャンを決して認識の及ばぬ領域へ連れ出そうとすれば、認識の側からの反抗は自殺に他ならない。

とまで考える。無言語領域である〈認識の及ばぬ領域〉への遁走は諸刀の剣であって、認識という〈病気〉の〈癒し〉という面と、認識の〈自殺〉という面とを併せ持っている。認識という〈病気〉の〈癒し〉を求めるならば〈自殺〉しか有り得ないことになる。とどのつまり、「暁の寺」ではさまざまな努力にもかかかわらず、本多繁邦はおのれの認識家としての枠から一歩も出ることなく終わることになる。認識という此岸の敗北は歴然としている。認識がある限り、彼岸へは達しえないと悟った本多にとって、認識の中心である自意識を徹底的に味わい尽くすことが課題になってくる。そして、「天人五衰」では有言語領域での彼岸の達成というものが主題となったと言わなければならない。

終わりに

 認識という猛獣の爪は伸びるばかりで、『山月記』の李徴の自尊心と同様に、その爪を扱いかねている。本多繁邦の認識家としての苦悩は深い。現代人が陥っている認識という心の呪縛をこれほど描き切った小説がありえたろうか。心の世界とその有言語領域の限界を描くことこそがまさしく三島が意図した「世界解釈の小説」であった。ジン・ジャンはもともと第一巻の清顕、第二巻の勲と同様に中心的人物となるところが、適当なモデルが見つからなったことによって、『暁の寺』がふくらみのない小説になったという指摘(松本徹・『三島由紀夫の最期」・文藝春秋・平成十二年十二月)は妥当だとしても、むしろ本多の認識の世界、つまり心の世界とその有言語領域がどういうものであるかを開示してみせたところに意義がある。

    四 「天人五衰」論―自意識とその行方

     初めに

「天人五衰」は「暁の寺」の本多の認識、つまり心の世界にさらに錨を下ろそうとした作品である。これは『豊饒の海』を書き続けてきた三島にとって、第一巻・第二巻の身体の世界の対比として必然的に書かざるを得なかった作品でもある。次の初期構想は『豊饒の海』の展開上の内的必然によって変更されたと見ることができる。

   本多はすでに老境。(中略)四巻を通じ、主人公を探索すれども見つからず。つひに七十八歳で死せんとするとき、十八歳の少年現れ、宛然、天使の如く、永遠の青春に輝けり。(中略)

   この少年のしるしを見て、本多はいたくよろこび、自己の解脱の契機をつかむ。思えば、この少年、この第一巻よりの少年はアラヤ識の権化、アラヤ識そのもの、本多の種子なるアラヤ識なりし也。

   本多死なんとして解達に入る時、光明の空へ船出せんとする少年の姿、窓越しに見ゆ。

「バルタザールの死」(「『豊饒の海』ノート」『新潮』昭和四十六年一月号)

   あの作品では絶対的一回的人生というものを、一人一人の主人公はおくつていくんですよね。それが最終的には唯識論哲学の大きな相対主義の中に溶かしこまれてしまって、いづれもニルヴァーナ(涅槃)の中に入るという小説なんです。

           (対談「三島由紀夫 最後の言葉」昭和四十五・十一・十八)

しかしながら、この「天人五衰」の構想に関するコメントにはある共通する語感が含まれている。前者は〈解達〉であり、後者は〈ニルヴァーナ〉であって、ともに仏教思想に淵源する概念である。三島由紀夫はあきらかに登場人物のいずれにも仏教的な世界に昇華する役割を担わせていると言っても過言ではない。

     ① 〈自意識〉の構造

 「天人五衰」はたしかに他の巻と比べて作品としての破綻を指摘することが多いが、しかしこの登場人物の昇天のドラマという構想は無視することはできず、試みが半ば成功し、半ば不成功に終わったことを登場人物の〈自意識〉を手がかりに辿ってみたい。

 〈自意識〉に注目する所以は、登場人物のすべてが〈自意識〉のもたらす悲喜劇に翻弄され、〈自意識〉を、本巻の思想的背景として全編に散りばめられた仏教思想、なかんづく〈唯識論〉と密接にかかわらせているからである。三島によれば、〈唯識論〉では「識」というものを八つの層に区分する。最初の五つは眼・耳・鼻・舌・肌のいわゆる五感である。第六の「意識」は、それらを統合する身体感覚であり、第七の末那識はそれらすべてを実態であるかのごとくに錯覚させる、それ事態は虚妄にすぎぬ〈自意識〉である。「天人五衰」は究極的には同じ本多家の住人になることになる本多繁邦・秀・絹江の三者の物語ということになろう。この三者に共通するものこそ、強烈な〈自意識〉である。例えば、本多と秀の場合、

   本多と少年の目が会つた。そのとき本多は少年の裡に、自分と全く同じ機構の歯車が、同じ冷ややかな微動を以て、正確無比に同じ速度で廻つてゐるのを直感した。どんな小さな部品にいたるまで本多と相似形で、雲一つない虚空へ向つて放たれたやうな、その機構の完全な目的の欠如まで同じであつた。

とあるように、それはまたまさしく「本多の自意識の雛形」であると言ってよい。最初に出会った瞬間、すでに本多と透の両者には〈自意識〉を介在させたところで〈相似形〉をなしていた。この本多と透との〈自意識〉の〈相似〉はむろんのこと、

   彼は自分より五つの年上のこの醜い狂女に、同じ異類の同胞愛のやうなものを感じてゐた。

二人の硬い心、一方は狂気によつて保障され、一方は自意識によつて保障されてゐる

とあるように、透と絹江もまた〈同胞愛〉という共通項があり、狂気という〈自意識〉によって透と関わりを持つことになる。しかし、この三者の関係を〈自意識〉によって括るとしても、その〈自意識〉の質には微妙な違いがある。透と絹江は若さの〈自意識〉とでも言えるものであって、本多は老いの〈自意識〉とでも言うべきものである。また、絹江は狂気の働きで〈自意識〉を逆手にとることによってその無傷性を保持している。それに対して、本多と透は、

   この少年こそ純粋な悪だつた!その理由は簡単だつた。この少年の内面は能ふかぎり本多に似てゐたからである。(中略)その生涯を通じて、自意識こそは本多の悪だつた。この自意識は決して愛することを知らず、自ら手を下さずに大ぜいの人を殺し、すばらしい悼辞を書くことで他人の死をたのしみ、世界を滅亡へみちびきながら、自分だけは生き延びやうとしてきた。

とあるように、〈自意識〉の持つ〈悪〉に染まっている。透のその〈悪〉は若さゆえに、よく言えば純粋で、悪く言えば無自覚でさえあるが、本多のそれは、老年に至る人生の経験によって〈自意識〉の〈悪〉を十分認識しているだけに質が悪いと言える。そして、老いによる〈自意識〉の無残さは本多に象徴されていて、特に本多における老いの〈自意識〉の問題が章を追うごとに浮かび上がってくる仕組みになっている。

 このように、登場人物すべてに〈自意識〉による汚濁の痕跡が見受けられ、本巻の主眼が〈自意識〉の諸相を描くことに置かれ、本巻が〈自意識〉の物語と見まがうばかりである。

     ② 〈自意識〉からの脱出

 そもそも、この〈自意識〉は〈見る〉という行為と切り離せないもので、透ほど〈見る〉ことに執着している者はいない。

   眺めることの幸福は知つてゐた。天賦の目がそれを教えた。(中略)もはや見ることが認識の足枷を脱して、それ自体で透明になる領域がきつとある筈だ。/そこまで目を放つことこそ、透の幸福の根拠だつた。透にとつては、見ること以上の自己放棄はなかつた。自分を忘れさせてくれるのは目だけだつた。

   不可視のものを「見る」とはどういふことか?それこそ目の最終的な願望、見ることによるあらゆる否定の果ての目の自己否定なのだつた。

 これらの記述からもわかるように、〈認識〉が〈自意識〉と置き換えられるならば、〈見る〉、つまり〈自意識〉の徹底が究極的には〈自己放棄〉、ないし〈自己否定〉をおのずから招来することを期待することになる。これは〈自意識〉からの脱出ということができる。それほどに〈自意識〉の〈足枷〉にがんじがらめになっていることを示している。言わば、その〈自意識〉からの開放の過程そのものがこの小説の筋の展開となっていることはまちがいない。

それぞれ〈自意識〉を内在させている登場人物のうちで、〈自意識〉の温存というかたちではあるが、狂気によって〈自意識〉をそのままに転位させて、本多や透のような〈自意識〉による自壊を免れているのは絹江ひとりである。この絹江の〈自意識〉の転位は、

   絹江は狂気によつて、あれほど自分を苦しめていた鏡を破壊して、鏡のない世界へ躍り出すことができた。(中略)古い玩具の自意識を五味箱に捨ててしまつてからは、精巧無比の、第二の、仮構の自意識を造り出して、人工心臓のやうに、それを自分の内部にきちんととりつけて、作動させることができるやうになつた。

と言うほど完璧なものである。それに対して、透は〈自意識〉の〈悪〉に無自覚であったがゆえに、〈自意識〉による聖化(自殺)を試みて、ものみごとに失敗する。この失敗によって失明した透は、

   透の目が外界を映さなくなつた代りに、もはやその失はれた視力と自意識に何の関はりもない外景は、緻密に黒いレンズの表を埋めるようになつた。

とあるように、〈自意識〉の世界から隔絶してしまう。これは、皮肉にもある面から言えば、〈自意識〉の網目から逃れることができたと言える。田中美代子氏が「阿頼耶識とは、その先にある「一瞬もとどまらない『無我の流れ』」なのだった。即ち、それこそ失明後の透の姿が体現しているところのものであろう」(『天人五衰』解説・新潮社文庫・昭和五二・一一)とまで言い切っている。とすれば、透もまた、〈自意識〉の瓦解という精神の死によって「ニルヴァーナ(涅槃)」の住人になったとすれば、三島の構想通りの展開であって、よく評されるような破綻を来たした作品だという評価、または透は「贋物」であるという刻印は即刻取り外さなければならない。

 ところで、本多はどうかと言えば、その内面の軌跡を透や絹江ほどには簡単には説明することはできない。その複雑な内面を〈自意識〉の有り様で探るとすると、

   老いてつひに自意識は、時の意識に帰着したのだつた。

という記述があり、この〈自意識〉と同列になる〈時意識〉こそ、本多が老年に達して捉えることのできた〈老い〉の認識と相応するものである。この〈自意識〉の鏡に照らし出される〈老い〉はその〈醜さ〉を余すところなく露呈することになる。

   七十の声を聞いてからといふもの、朝起きてまづ見るのは死の顔である。(中略)今朝もまだ生きて射た、と朝目覚めて、第一に本多に告げるのは、咽喉のこの海鼠のやうな痰の球である。同時に、生きてゐるからにはまだ死ぬ恐れがある、と第一に知らせるのもこの痰の球である。

老いて死を感じるのは何も特別な感慨ではない。しかし、今にして本多は、生きることは老いることであり、老いることこそ生きることだつた、と思ひ当たつた。(中略)

老いてはじめて、本多はこの世に生まれ落ちてから八十年の間といふもの、どんな喜びのさなかにも絶えず感じてきた不如意の本質を知るにいたつた。

とあるように、老いることが生きることの自覚とつながる時、にわかに特異な感慨としてクローズアップされてくる。「卑俗の最大唯一の原因は、生きたいという欲望だった」と言っていたのは本多自身ではなかったか。〈老いることが生きること〉の自覚は、自分の〈卑俗さ〉をそれはそれで自覚することになる。この〈老い〉は〈死〉を意識することによって、

   死を内側から生きるといふ、この世の少数の者にしか許されてゐない感覚上の習練を、本多はおのずから会得してゐた。(中略)この世をひとたび終末の側から眺めれば、すべては確定し、一本の糸に引きしぼられ、終りへ向って足並をそろへて進んでゐた。

というように、死者の眼・末期の眼と呼ばれるものを獲得する。そして、この死者の眼は「我とは、そもそも自分で決めた、従って何ら根拠のない、この南京玉の糸つなぎの配列の順序だった」とか、「自分は今日はもう決して、人の肉の裏に骸骨を見るやうなことはすまい。それはただ観念の相である」とか考えるように、傍観者としての立場を捨て、諦念・あるいは悟りに近い感慨をもたらす。

 従って、月修寺への再訪は、この悟りの心証をつかみつつある本多にとって、

   自意識こそは本多の悪だつた。(中略)彼が悪を自覚し、悪からつかのまでも遁れ出ようとして際会した印度だつた。

という『豊饒の海』第三巻「暁の寺」の〈印度〉での経験のように、〈自意識〉の悪から身をはがす試みであったろう。というのは、およそ思考の極、認識の極に住するごとく、

   寺は冷光を放つやうになつた。(中略)あたかも彼の認識の闇の世界の極みの破れ目から、そそいで来る一縷の月光のやうな寺に他ならなかつた。

とあるように、月修寺は、〈認識〉の極みとして位置づけられていて、〈認識〉、つまり〈自意識〉の彼岸に屹立する存在であるからである。死の宣告とも受け取れる病を患っている本多にしてみれば、その月修寺へ辿る道は死出の旅路とも言うべきもので、

   本多はそういう標識を見るたびに、冥土の旅の一里塚といふ言葉を思ひ出す。この道を自分がもう一度帰るといふことは理不尽に思はれる。(中略)奈良へ二三キロ。死は一キロ刻みに迫つてゐた。

とあるように、自殺行にも似た行為であって、生きて帰らぬ覚悟で成される体の行為である。そうであるがゆえに、末期の眼よろしく克明に表現されているといえよう。これはいみじくもある言葉を思い起こさせる。日本の文学に連綿と伝えられてきた「道行」という言葉である。いずれも作品のクライマックスにあり、急に調子が高く美しい文章になり、あたりの景色や自然がよみこまれて流れるように死への道を歩むのである。渋澤龍彦が実際の道をたどってみて、あまりにも作品と違うのに驚いている(「三島由紀夫をめぐる断章」『三島由紀夫おぼえがき』・『すばる』昭和五八・七)ことからもわかるように、三島は生涯の最後の作品でみごとに古典派の素顔をのぞかせている。

     ③ 自意識家の末路

 それでも、有名な最終場面、

   この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまつたと本多は思つた。

という〈何もない〉世界の描出はいったい何を意味するのか。本多自身の諦念を表していると見る向きがあるが、否である。この虚無化した世界はまさしく本多自身の終局の〈自意識〉そのものを表象していて、彼の〈自意識〉が一向に滅びていないことを示している。なぜなら、本多の〈自意識〉の、

   邪悪な傾向は、こんな老年に及んでまで、たえず世界を虚無に移し変えること、人間を無へみちびくこと、全的破壊と終末へだけ向つてゐた。

とあるように、身の回りの世界を虚無化してしまうのである。所詮、過剰な〈自意識〉を持つかぎり、虚無の目を捨てることはできず、鈴木貞美氏が「もたらされたのは、『唯識』の本質ではなく、色即是空の認識ではないか」(「『豊饒の海』について」『解釈と鑑賞』平成四年九月号)と言っているような〈自意識〉という〈認識〉の網目にすくい込まれるだけである。ここに、三島自身が述べている「この小説の結論が怖い」(「『豊饒の海』について」昭和四十四・二)という真の意味がある。三島は本多が諦念どころか、いずれその〈自意識〉の無残な屍をさらすことを予測していたのである。

「心々ですさかい」という有名な聡子の言葉は唯識思想を語っているといわれているが、相対化視点そのものである。三島自身がそもそも仏教の「空観」と相対主義を同一視しているところに問題がある。ただ、この場面は、「最終的には唯識論哲学の大きな相対主義の中に溶かしこまれてしまつて、いづれもニルヴァーナ(涅槃)の中に入るといふ小説」という意図を込めたものと思われる。そういう作者の思惑に沿うことは危険であるといえるが、有言語の領域の徹底化された世界を描くことにあったとすれば納得がいく。

     終わりに

登場人物が涅槃の中に入るという初期の構想は、透にしても、絹江にしても、〈自意識〉の呪縛から、例えば透のように盲目となることによって断ち切り、絹江のように自殺未遂によって〈自意識〉を逆手にとって解脱、言い過ぎであれば、その契機をつかんだと見てよい。しかしながら、本多は老いて死の認識によって解脱の端緒を他の二人以上に直接的につかむが、結局は〈自意識〉をあらわにするだけである。この三者の相違はひとえに自殺という行為の有無にかかわっている。透も絹江も、未遂であるものの、自殺に踏み込んだという行為に注目するならば、この両者はまさしく行為者ということができる。これは、三島の生涯を通しての課題、「認識」と「行為」の相克という課題が終局の形で示されている。

    五 『豊饒の海』における「ニルヴァーナ(涅槃)」

それにしても、三島由紀夫にとって認識や自意識という心の世界はそれをとことん追求することによって、逆説的に認識や自意識心の世界、つまり長年の文学という有言語の問題からの離脱を企てたのかもしれない。第四巻「天人五衰」のみならず、『豊饒の海』四部作の脱稿の日付が三島自身の自栽決行日と同じ日付になっていることの意味は大きい。決行前に本巻が書き上げられていたとする説の当否は問題ではない。本巻擱筆の日付を自決の日付とした三島の意図こそが大切である。自殺という行為こそが三島において〈認識〉の桎桔から身をはがし、「自意識」のしがらみを脱ぎ捨てる道を選んだということである。自殺というのは決してゆきづまりの結果ではなく、その回避ために行われるのだという。三島にあっては人間存在の不如意による精神の瓦解という最大の危機を回避するためのものであった。その意味で、この最後のカタストローフが精神の崩壊者「本多繁邦への厳しい懲罰」(「悲しみの琴」『文芸春秋』昭和四七年)という林房雄の謂いは正しい。

従って、三島由紀夫の自注自解の中で特に触れられることの少なかった「ニルヴァーナ(涅槃)」は、人の生を一つの枠に見立てて、その中での各種の生き様をさぐり、その徹底化の果てに見えてくる清顕・ジンジャンの彼岸、勲の昇天、本多・透の認識の無を描くことにあったといわなければならない。これこそが世界解釈とその行方に他ならない。

  終章 三島由紀夫の晩年

このように見てくると、『豊饒の海』は本多の認識、透の自意識が心の世界の表象であり、

私の中の二十五年間を考へると、わたしはその空虚に今さらびつくりする。私はほとんど「生きた」とは言へない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。(中略)

   私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまふのでないかといふ感を日増しに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国が極東の一角に残るであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気になれなくなつてゐるのである。

(「果たし得てゐない約束」「私の中の二十五年」『サンケイ新聞』・昭和 四十五年七月七日)

という戦後の嫌悪感と、

私は昭和二十年から三十年ごろまで、おとなしい芸術至上主義者だと思はれてゐた。私はただ冷笑してゐたのだ。或る種のひよわな青年は、抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。そのうちに私は、自分の冷笑・自分のシニシズムに対してこそ戦はなければならない、と感じるやうになつた。

   この二十五年間、認識は私に不幸をしかもたらさなかつた。

(「果たし得てゐない約束」「私の中の二十五年」前掲書)

という戦後の内なる心の世界〈シニシズム〉との離脱とが分かちがたく結び合わされていて、みずから意志的につかみつつあった身体の世界で造形された清顯の感情、特に勲の行為が戦後失われてしまった牧歌的な「潮騒」の主人公新治の〈無知〉の系譜に沿う身体の世界との二元的対立の物語として読むことができる。『豊饒の海』の中からこの二元的対立を無知と理智、絶対主義と相対主義、戦前と戦後というふうに取り出しすのに容易であり、新たに身体的世界と心の世界、つまり無言語領域と有言語領域を付け加えておきたい。ただ、無言語領域には魂の世界もある。思えらく、三島は身体的世界の無言語領域そのものが魂の世界であると考えていたのかもしれない。

ここで、高尾氏のAの身体の世界からとEの魂の世界へと辿る人間活動の段階を『豊饒の海』に当てはめてみると、しかし一般の人間活動の段階とは違い、第一巻「春の雪」はCの心の世界とAの身体の世界の中間であるBからAの身体の世界と辿り、第二巻「奔馬」はAの身体の世界そのままの世界を描き、第三巻「暁の寺」・第四巻「天人五衰」はCの心の世界の段階で低回し、最終場面もまたCの心の世界の徹底化の果てそのものの世界を示唆しているといえよう。心から身体に、つまり有言語の世界から無言語の世界に至るという一方の人間活動を押さえつつ、有言語の世界の果てを見尽くすという特異な人間活動の理解こそ、三島の「世界解釈」の意図であったということができよう。これには、「太陽と鉄」(「批評」・昭和四十年十一月)のなかの、

つらつら自分の幼時を思ひめぐらすと、私にとつては、言葉の記憶は肉體の記憶よりもはるかに遠くまで遡る。世のつねの人にとつては、肉體が先に訪れ、それから言葉が訪れるのであらうに、私にとつては、まづ言葉が訪れて、ずつとあとから、甚だ気の進まぬ様子で、そのときすでに観念的な姿をしてゐたところの肉體が訪れたが、その肉體は云ふまでもなく、すでに言葉に蝕まれてゐた。

という特異な生い立ちに淵源が認められる。三島にとって肉体は身体と同等の意味を持つことは言うまでもない。幼児期特異な家庭環境によって人一倍有言語領域になじんだ三島にとって、無言語領域は憧憬の対象であり、無言語領域への没入はおのずから有言語領域との対立を強いるものであった。いうまでもなく、無言語領域への参入こそが昭和四十五年十一月二十五日の割腹自殺であったのである。このように考えて初めて、『豊饒の海』はまさしく無言語領域に対する有言語領域の侵犯の物語であるということができる。三島の晩年に浮かび上ってくるのはこの二種対立する言語領域に佇立する文学者の肖像である。

 

 注1 岡野守也『唯識のすすめ』(NHK出版、一九九九年・十月)参照。

  3 水島恵一『自己探求の心理学』(社会思想社、一九七七年十月)参照。

  4 保坂歴彦『死のう団事件』(角川文庫・平成十二年九月)参照。同じ著者の『三島由紀夫と楯の会事件』(角川文庫・平成十三

    四月)の「あとがき」で、この両事件の類似を指摘している。

  5 先田進「三島由紀夫『春の雪』の世界―禁忌の侵犯をめぐって―」(『日本文芸の潮流』・おうふう、平成六・一)

  6 磯田光一「『豊饒の海』4部作を読む」(新潮社、昭和四十六・一)

  7 田坂昂『三島由紀夫入門』(オリジン出版センター、昭和六〇・十二)

  8 対馬勝淑「三島由紀夫『豊饒の海』論」(海風社、昭和六十三・一)

  9 柴田勝二「模倣する行動―三島由紀夫『奔馬』論」(「近代文学論集」『日本近代文学会九州支部』、平成一〇・一〇

 本文の引用は基本的には新潮社版『三島由紀夫全集』(昭和四十八年~五十一年)に拠った。ただし、そこに含ま れない創作ノートやインタビュー等については雑誌、新聞掲載のものに拠っている。

(終了)

 

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