ときどき、考えることがあるんですが・・・
私は、 どうして、骨董品に心曳かれたのだろう と、真剣に考えこんでしまうことあります。
考えてみれば、わたしは、もともとは骨董品にそれほど、関心があるわけではありませんでした。
その理由は、現代の優れた作家さんなら、現代の高い技術を駆使すれば、過去のコピー商品など、
たやすいことと、信じて疑わなかったからです。
たやすいことと、信じて疑わなかったからです。
おなじ人間のやることです。
時代がかわっても、おなじものが出来ないハズがない、などと単純に確信したりしました。
時代がかわっても、おなじものが出来ないハズがない、などと単純に確信したりしました。
しかし、骨董の世界に入って、贋物を見るにつけ、どうしてか時代が変わると、のり越えらえない壁があることに、
気づかざるおえませんでした。
それは、人智を超えた力が、古物に及んでいるんだと思います。
気づかざるおえませんでした。
それは、人智を超えた力が、古物に及んでいるんだと思います。
それを、たとえれば、 『時代霊の仕業』 とでもいいましょうか?
自動車や電化製品なのどの古物のデザインなどをみると、昭和30年代には、昭和30年代の雰囲気というものがありあます。
いま見るとレトロですが、当時は最新のデザインでカッコよく見えたんですよね。
自動車や電化製品なのどの古物のデザインなどをみると、昭和30年代には、昭和30年代の雰囲気というものがありあます。
いま見るとレトロですが、当時は最新のデザインでカッコよく見えたんですよね。
時代には、その時代の固有の 『時代霊』 があり、
それを意識しようがしまいが、人々の意識に深く入り込んで、影響を与えつづけています。
それを意識しようがしまいが、人々の意識に深く入り込んで、影響を与えつづけています。
ですから、今という時代は、いまと言う 『時代霊』 の影響を受けながら、生活をつづけているのはないでしょうか。
それは、個々の人が意識しようが、しまいが圧倒的な影響を受けていると言うことだと思います。
それは、個々の人が意識しようが、しまいが圧倒的な影響を受けていると言うことだと思います。
それさえなければ、古陶磁の贋物は、容易に見破られることは、ないでしょう。
江戸中期後半ころ 直径30cm 岩牡丹と獅子図