古伊万里江戸後期物万歳

古伊万里江戸後期ものの魅力。

富永 源六(源六焼)

2009年08月23日 09時28分52秒 | 明治伊万里染付
さて、来週は、いよいよ国政選挙ですね。

どうなる事でしょうか?

いま、地方都市の旧繁華街は、衰退の憂き目にあっていますよね。

まあ、車社会ですから、仕方ないといえば、仕方ないのですが、よく考えてみれば、
旧繁華街は、江戸時代より栄えていた繁華街です。

旧繁華街ちかくも、空き地が多くなり、昔のように駐車場には、苦労しないですぐ停められるようになりました。
それでも、客離れは、止まりません。

これは、よく考えるれば、大きな時代の転換点に、きているのかも知れませんね。


地方の八百屋や、個人スーパーが廃業となり、
そのあとにコンビニが出来ていて同じ商品が同じ価格で、営業時間も長く、きわめて便利ですが、
わたしは、そのコンビニもやがて、客離れが進むと見ています。

そのうちに、どこで買っても、学校給食みたいな、画一した品揃えに、満足できなくなるような気がします。
ただ、それに気がつくのに、多少時間がかかるような気がします。


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これは、佐賀県嬉野(うれしの)市嬉野町の内野山地区で明治後期から大正期に製造され、
国内外で高く評価された、源六焼です。





創始者の富永源六は、安政6年2月7日生まれで、瀬戸や京都などへ視察に行き技術を学び、
国内向けの実用品や輸出用の磁器を作り、当時人気を博したと言います。


朝顔の絵付けが上手いですよね。
最初は、プリントかと思いましたが、間違えなく手書きです。





源六焼は1888年ころに富永源六が始めたそうです。

絵付けをした上から透明の釉薬(ゆうやく)をかける「釉下彩(ゆうかさい)」という技法が用いられ、
多彩な色合いが良好な状態で保たれるのが特徴。欧州の貴族らに愛され、
国内外の博覧会で賞を獲得するなどしましたが、
昭和9年ころに、廃窯したという説と、戦後の混乱などで窯元の経営が行き詰まり、
昭和40年代廃業したという説があります。

いずれにしても、今となっては、なぞの多い窯で、当時の人気から、贋物も当時からあったそうです。
時代のついた贋物ですから、いまとなっては、厄介でしょうね。




富永源六は、晩年、嬉野村の村長をへて、佐賀県議会議員にまでなり、大正9年ころに、没しているようです。





  直径、約30cm高さ、約5cm。  明治時代中ごろ






コメント (19)
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