goo

川越まつり会館、氷川神社の縁むすび風鈴!

2019年08月10日 | O60→70(オーバー70歳)
7月31日のTBS「ひるおび」で、川越の氷川神社が出ていました。先週、川越在住の同級生女子に案内していただいたこともあり、思わず画面に惹きつけられました。縁むすび風鈴の音色も吹き飛ぶような猛暑ですね。

氷川神社、川越といえば「川越おまつり会館」も印象的でした。下から見上げる山車の高さに圧倒され、しかも、江戸城の門をくぐることができるように、3階建ての部分がストンと下がる仕掛けになっていたり、車輪の大きさ、山車の重量感にも度肝を抜かれました。

これら29体の山車が、街に繰り出すのですから、一度は川越まつりを見学してみたいと思いました。ちなみに、起源や由来はつぎのとおりです(パンフレットから引用)。


〜起源は370年前〜

城主が勧めた氷川祭礼川越まつりは、慶安元年(1648)城主の松平伊豆守信綱が氷川神社へ祭礼用具を奇進し祭礼を奨励、同4年(1651)に御輿が氏子の町を渡御したのが始まりと言われています。

川越まつりは元来、氷川神社の例大祭で、神社の神事祭式と氏子の上下十ヵ町が中心になって行う余興の町方祭礼行事から成立したものでした。
しかし、その後、祭りの様式は大きく変遷。文政9年(1826)の氷川祭礼絵巻では、神幸祭を先頭に列をなして川越城へ向かう笠鉾形式の山車と踊り屋台などの付け祭りが克明に描かれています。天保15年(1844)の祭礼絵巻では、全ての山車が一本柱型式に統一され、勾欄に人形を乗せているのがわかります。

さらに文久2年(1862)の一枚ずりの番附絵では、南町と志義町が、早くも二重鉾の江戸型の山車になっています。明治以降になると踊り屋台や底抜け屋台が次第に姿を消し、祭礼の運営は山車を主体とした現在の形になっていきます。
goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。