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20世紀の社会主義革命が、ロシア、中国、その他、すべて周辺的な資本主義国でおこったことはいうまでもありません。
しかし、それらは資本主義をその先進的・中核的な場で撃つことではなかった。先進国では、社会主義運動は社会民主主義的であるか、さもなければ、ロシアや中国のマルクス主義を導入したものでした。そして、それらは、結局、産業資本主義に対する理解が欠けていたということを意味します。産業資本を、生産点における搾取という観点でみるならば、その本質をほとんど理解できないでしょう。資本制の発展とともに、資本と経営の分離がおこります。資本家はたんなる株主として生産点から離れ、他方、経営においては、一般に官僚制が採用される。経営者と労働者の関係はもはや身分的階級ではなく、官僚的な位階制になる。ウェーバーは、資本制企業が国家と同様に官僚的なシステムを採用 したことを重視しました。
【154~155ページ】労働者という存在
こうして、生産点でみるかぎり、「資本」と「賃労働」の関係はもはや主人と奴隷の閾係ではない。個別企業では、経営者と労働者の利害は一致します。だから、生産点においては、労働者は経営者と同じ意識をもち、特殊な利害意識から抜け出るは難しいのです。たとえば、企業が社会的に害毒となることをやっていても・労働者がそれを制止することはしない。生産点においては、労働者は普遍的でありえないのです。企業や国家の利益に傾きます。それに対して、たとえば、環境問題に関して、消費者・住民のほうが敏感ですし、すぐに世界市民的な観点に立ちます。
では、労働者が狭い意識に囚われるのはなぜでしょうか。それは、労働者が「物象化された意識」(ルカーチ)に囚われているからではないし、また、労働者階級が後進資本主義国からの搾取の分け前をもらっているために、資本家と同じ立場に立つようになったということでもない。生産過程においては、労働者は資本に従属的であるほかないのです。しかし、労働者は流通過程において、消費者としてあらわれます。そのとき彼らは資本に優越する立場に立つわけです。
(ken) 私も少しは「労働者=消費者」という観点から世の中を見ていたときもありましたが、労働運動は現場の生産点にあるという教えから抜け出せずにいました。柄谷さんのように、資本に優越する立場である消費者として「不買運動」を位置づけることはできず、どうしても社会的な混乱を予測してしまうのです。そこでお手上げしてしまうのではなく、理屈としても十分に成り立つし、労働者が資本に優越する立場はそれ以外にないのですから、困難ではあっても諦めずに志向していくしかないと思いました。(つづく)