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抜き書き帳『出発は遂におとずれず』(6)

2016年07月15日 | 小説・映画等に出てくる「たばこ」
「マヤと一緒に」

【306ページ】
廊下のすみや長椅子の上で医師の出勤をまつ受診者たちは、深海の魚とかわらない。太陽の光線のとどく明るい海面に近づけばからだがくずれ、浅い海のほかの魚との顔付きのちがいのひどいことになやまなければならぬことがわかっている表情だ。私はその表情になじみ、そこで自分をそのままにあらわして居ることができると気づく。

【322ページ】
旅先の私は、いつのときもいまこうしていてよいのかという不安からのがれることができない。夕方用務の仕事から解放されたあと、それは急に強くなる。四囲を海でとざされ克服しようのない距離をあいだにはさんだ島に留守居の妻や子どもと遠くはなれたどこかに居ることじたい、どうしてもつぐなえぬあやまちででもあるかのように私に無理強いする。

[ken] 昨年の11月、12月に合計3週間ほど入院・手術したので、「受診者たちは、深海の魚とかわらない」という記述が心から納得できました。「まな板の鯉」といった表現は普通過ぎるし、やっぱり文学者の描写は奥深いと感じ入りました。322ページの感情は、現在の日本にあっては「単身赴任者」の増加によって、受け入れざるを得ない制度であるかのように普遍化しています。赴任先と自宅を「金帰月来」する多くの人たちは、家族と離れて暮らすことに慣れようとしても、潜在意識の中で「つぐなえぬあやまち」といった心情を抱えているのだと思います。(つづく)
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