![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/8a/362d5d4f6eeb3a0bf28f712a4acd000d.jpg)
暁星に入学してからの、じぶんが貴族や富豪の御曹子でなく、一介の月給取りの息子であるという劣等感、そうした二の次のわが運命に対する絶望感とで、どうにもならない自分を、ともかく支えてくれたものは、儒教精神の貧しくてもその志を改めない顔回への憧憬であった。
【191ページ】
僕は美術学校はほとんどゆかなかったので、3ヶ月で退学になった。すぐまた慶応の英文科に入学した。野口米次郎、広瀬哲士、向軍治などが教えていた。
【194ページ】
ついに、僕は病床に就いた。二十歳の頃のことだった。
人はみな、その頃の僕を狂人扱いした。僕じしんが、今日ふりかえって考えてみても、あんな若者が今日までよく生きのびてこられたものだとふしぎにおもう。あんな青年は、その後、僕の周囲には一人もいなかった。明日のプランというものがまるでなかった。どういうことをしたいという先の見通しもない。計画的なことは、無意味であり、すべて下らない辛抱であった。
【217~218ページ】
群馬県の鹿沼から入った山地で、仕事をはじめることにした。金の取引がすむと売り方の百姓たちが、田舎の遊郭のようなところへ僕を招いて、飲めや歌えの大騒ぎをした。----
1918年、僕が23歳の年もくれると、鉱山の仕事もおよそ先が知れてきた。この仕事で金を失ったばかりでなく、その他にえたものといったら、百姓たちの奸智(かんち)と陋劣(ろうれつ)さを知ったこと位だった。
[Ken] 171ページの「顔回」は、孔子の弟子の一人で、随一の秀才と将来を嘱望されていましたが、若くして亡くなり孔子を嘆かせました。顏回は名誉栄達を求めないで、暮らしぶりは極めて質素に孔子の教えをひたすら理解・実践したことから、悩み多き金子光晴さんが若い時代の憧れになったのでしょう。それから、「慶応の英文科に入学」したとのことですが、これまたすぐにやめていますので、慶応大学での永井荷風さんのような現在に残る影さえもありません。
また、194ページの「よく生きのびてこられたものだ」という気持ちについては、私も若い頃を振り返ってみると深く共感させられました。
217ページからの「百姓たちの奸智と陋劣さ」については、自分がその中で生まれ育ちましたので、「そうしなければ生き残れなかった」という同情を含めて納得させられました。(つづく)