昨日は「弾圧に抗した福井の人々 『日本共産党の100年』に重ねて」。村井慶三・治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟福井県本部会長の講演を第37回総会でお聞きしました。また、総会では日本共産党の かねもと衆院予定候補があいさつ、会の吉田智明事務局長が報告をおこないました。参加者からも敦賀港特定利用港湾指定など有事への備えが進められている問題が報告されました。
村井会長の話を一部ですが、紹介しましょう。
村井氏は探究のきっかけを、かつて町議会に治安維持法犠牲者の国家賠償求める請願要請に赴いた時に、議長から「福井県内の私たちのまわりでの犠牲者について教えてください」と問われたことが始まりだった、と話しました。村井氏の探索が始まりました。
1928年昭和3年の芦原村の水道工事不正を追及した労農党員たちを、「労農党は暴力政党だ」などと弾圧、宣伝。
その年に、3.15大弾圧で福井県関係では大島英夫夫妻と乳飲み子、中野重治らが犠牲に。大島の乳飲み子は獄中で死亡、1930年に英夫が獄中死、妻は自死に追い込まれました。高田博厚は大島の福井中学(いまの藤島高校)の同級生で、彼自身も抑留されます。
1929年の4.19大弾圧で約300人を検挙。一連の弾圧で日本共産党は指導部のほとんどを奪われました。このとき、市川正一検挙の指揮をとったのが福井出身の品川主計で、戦後は讀賣ジャイアンツの球団社長などをつとめています。
1932年、労働組合も弾圧。当時の福井県の特高課長だった菅太郎は戦後、愛媛県から国会議員になっています。
1933年、2月20日、小林多喜二が虐殺されます。日本共産党福井県委員会委員長もつとめた落合栄一さんは多喜二の通夜に赴き、予備検束されます。丸岡生まれの詩人、中野鈴子さんは獄中への差し入れなど救援活動にあたりました。
高見順も検挙され拷問をうけました。敗戦日記では「暗雲が晴れた思い」と書いています。高見はその後、警職法反対運動などにも協力しました。戦争協力に反省のない、三好達治との違いは明らかです。・・・・
さて、いま、ふたたび大軍拡、戦争の足音が聞こえてきます。
戦争に加担した者たちが、平気で戦後各分野で「復権」し、政治家となって憲法改憲に血道をあげてきました。
しかし、政党では日本共産党や立憲主義にたつ野党とさまざまな民主運動、労働運動、市民運動が力をあわせて改憲許さずたたかってきました。
総選挙は秋、などとの報道があります。選挙になると「日本共産党は恐い政党」などと自民党公明党政権や統一協会、勝共連合などが大量のチラシ配布などの活動を行うことが繰り返されています。
無謀な戦争に反対、治安維持法による大弾圧を経て、反戦平和102年の日本共産党です。多くの人々を死地に追いやった勢力の末裔たちの偽りフェイクに国民を欺かせ、ふたたび過ちを繰り返させるわけにはいきません。