①、岸和田市立山直市民センター
令和3年度 山直大学公開講座 歴史講座
~岸和田藩甲賀五十人衆とは何か~
2022年1月14日(金)午後1:30~3:00
岸和田市山直地区公民館
令和3年度 山直大学公開講座 歴史講座
~岸和田藩甲賀五十人衆とは何か~
2022年1月14日(金)午後1:30~3:00
岸和田市山直地区公民館
講師・山岡邦章 (岸和田市郷土文化課文化財担当)
令和3年度山直大学、本来3月から翌年2月まで全10回開催の予定なんですが、コロナで中止で今月が第1回目で開講式、そして来月が閉講式の予定、なんともさびしい限りです。
今回は、「岸和田藩甲賀五十人衆とは何か」を探る。
岸和田の並松に「忍町」というエリアがあり、甲賀士の屋敷があったようで、あの「忍術」を使う「忍者」ではなく、軍事全般、諜報活動、砲術、火薬、薬草知識などを得意にする武士集団、武装集団が召し抱えられていました。
岸和田、岡部家は江戸時代の武家の中でも、最多の甲賀士を召し抱え、憶測ですが岡部家の大坂における軍事的役割の一環だったかもしれません。
今回は、「岸和田藩甲賀五十人衆とは何か」を探る。
岸和田の並松に「忍町」というエリアがあり、甲賀士の屋敷があったようで、あの「忍術」を使う「忍者」ではなく、軍事全般、諜報活動、砲術、火薬、薬草知識などを得意にする武士集団、武装集団が召し抱えられていました。
岸和田、岡部家は江戸時代の武家の中でも、最多の甲賀士を召し抱え、憶測ですが岡部家の大坂における軍事的役割の一環だったかもしれません。
また、「秀吉による紀州せめにみる甲賀士」
甲賀士は紀州の太田城の北、そこの築堤を任されていた岸和田の甲賀士の堤防が決壊、この失敗で武装集団としての同時の地位を失います。
でも、この紀州攻めに加わり岸和田城にいた中村一氏が近江の水口岡山城に移り、東国の要衝、東海道の要衝と共に、水口、甲賀士の支配体制を固めると、甲賀と岸和田の深い結びつきを紐解きます。
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