読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

藤島武二の「婦人と朝顔」の臨画

2021年03月26日 | 水彩画

◇ あやしい絵?藤島武二の「婦人と朝顔」

 
   clester    F6 (320×320mm)

 いま国立近代美術館で「あやしい絵」をやっています。その中の作品の一つに
藤島武二の油彩画「婦人と朝顔」があります。この絵(原画=下部に)のどこが
”あやしい”のか、よくわかりません。
 制作年が1904年と言えば明治末期。藤島武二がフランス・イタリアに留学する
前の作品です。ミュシャなどアール・ヌーヴォーの影響を受けた作者が、朝顔と
女性のモチーフで何を表現しようとしたのか。物憂い眼差し、大胆な胸元、サリ
ーのように流れるような衣装。モガ・モボが登場した大正文化の先取りとも見え
る大胆な構図です。
 残念がら私にはこうしたアンニュイは表現できませんでした。また原画にある
朝顔の垣根にある白い点の正体が不明で、結局葉叢の隙間とみて白抜きしました。

<原画>


               (以上この項終わり)

 

 

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吉川英治の『新書太閤記(三)』

2021年03月26日 | 読書

◇『新書太閤記(三)

        著者:吉川英治               1990.5 講談社 刊



 
 信長は永禄5年(1562)29歳になった。ということは3歳違いの藤吉郎は26歳
ということである。
 信長は三河上の松平元康(のちの家康この時21歳)と和盟を結び、共に美濃
に対抗する体制を整えた。
 一方藤吉郎は佐久間信盛、柴田勝家、織田勘解由など織田家の勇将がいずれ
もさじを投げた洲股城築城を成し遂げ、その城を信長に与えられ、小ながら一
城の主となった。この築城に当たっては、かねてゆかりの蜂須賀小六を「いつ
までも野武士でいるな、将来ある信長に仕えよ」掻き口説き、その手を借りて
短期築城に成功したのである。この時斎藤家に恩義のあった小六は織田家に仕
えること潔しとせず藤吉郎に仕えることとしたのである。

 信長はいよいよ美濃の斎藤義龍の居城稲葉城攻略する。難攻不落のを

 今一つの出来事はまだ28歳と若年ではあるものの優れた軍師として名を馳せ
美濃はおろか近隣各国から尊敬を受けている竹中半兵衛の獲得である。
竹中半兵衛は元来斎藤家の一角をなし岩手城の城主であったが、斎藤義龍が京
風の奢侈におぼれ我儘放埓に流れこれを諫めた安藤伊賀守を軟禁したため、娘
婿であった竹中半兵衛はわずか16名の家来と共に夜半義龍の居城に押し入り、
半兵衛の手勢千人と伊賀守の渦中二千余りで城を取り囲み、義龍は命からがら
鵜飼城へ逃げ込んだ事件があった。これを知った浅井、朝倉、武田、北畠など
が自国へ引き入れようと 誘いをかけたが半兵衛は乗らない。間もなく城は義龍
に返し、自らは岩手城を叔父に譲り、栗原山に籠ってしまった。以後どんな誘
いも追い返していた。

 藤吉郎はこの半兵衛を織田家に引き入れようと栗原山に日参するがにべもな
く拒まれる。10回以上通い雨に濡れそぼった藤吉郎をあわれと思った半兵衛の
妹おゆうの口添えで漸く面談がかなったが、やはり説得には応じない。役目を
果たせなければ腹を切るしかないとの脅しが効いたのか半兵衛は山を下りるこ
とに同意した。しかし、織田への随身はない。木下氏の下に仕えようというこ
とになった。藤吉郎の強引な駆け引きが成功した感じであるが、覚悟をもって
一戦から退いた筈の竹中半兵衛がこんなに簡単に山を下りる流れはあまりに安
直にすぎる。藤吉郎の人間性、人生観に半兵衛が共鳴し隠棲を捨てたというす
じがきであろうが。

 さて尾張の織田はどうしても因縁の斎藤義龍を倒さねば天下統一の道が開け
ない。天嶮を誇る稲葉城を攻略するために藤吉郎の一軍を放つ。藤吉郎は茂助
と呼ぶ若者の手引きで杣道から峻険の山々を越え、搦手から城内部を攪乱つい
に堅牢強固な稲葉城を落とすことができた。
 この手柄で藤吉郎は旗印(瓢印)を許され、5万石を与えられた。  
 母思いの藤吉郎は母と寧子を洲股城によび同居することになった。ついで姉
さらには胤違いの弟、妹も呼んだ。
 美濃を下し、稲葉城を岐阜城と変えて清州から居城を移した信長は次いで江
州を経て京都に入る。
 
 明智光秀の働きで、岐阜城に将軍義昭を迎えた信長は京の三好・松永党を下
し、着々と天下布武を実あるものとしていった。
 北国の雄朝倉義景は将軍家を蔑ろにし信長の下知に従わず驕っていたが、信
長は近畿、濃尾、三河の凡そ十万の兵をもって越前敦賀を攻略する。しかし近
江の浅井長政、甲賀の佐々木一角らが義景支援に駆けつけたため、信長は少数
の旗本らを連れて朽木谷から逃走した。しんがりを藤吉郎の兵に任せて。
                          
                         (以上この項終わり)

 

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