◇ ニッカ柏工場の木立
ニッカ柏工場が近くにある。ボトリング工場であるが、良質の地下水が得られることから
当時の竹鶴さんがこの地に決めたと聞いた。昭和40年当時のこと。新設当初は東京工
場といった。そのうちに柏工場に変わった。柏が知名度を上げたからか、柏なのに東京と
はおかしいではないかとの異論が出たのか。
それはどうでもよいことだが、設立当時から毎年4月29日に敷地内を開放してお祭りを
やっている。当初は製品のニッカウィスキー飲み放題で、呑み介の大人には堪えられない
イベントであったが、車で来る人も多く、事故でもあったのかそのうちアルコールはサービ
スしなくなった。昔は敷地内にウサギやヤギさん、クジャクの番いなどもいて子どもたちは
大喜びだった(今はいない)。
子どもが大きくなってしばらく遠のいていたが、このところ孫を連れていくといまだに結構
人気で、大変な人出だった。
昔動物を放し飼いしていた林は健在で、逆光の朝の光を受けた新緑が映えていた。
木洩れ日でハイライトになった落ち葉がまるで残雪のようになってしまった。
人物がいた方が良かったかも。
COTMAN F6
(以上この項終わり)
◇ モッコウバラ春の饗宴
COTMAN ROUGHF8
5月2日に庭のモッコウバラ(八重)が咲いた。開花期は初夏とされている。
モッコウバラの寿命は短くて、10日の今日、既に盛りを過ぎて一部は萎れ始めている。
最盛期にデッサンをし、表情をいくつか写真に収めて、2日がかりで仕上げた。
朝日を受けた花びらのクリーム色と葉の柔らかい緑が織りなす華やかな饗宴が表現できたか。
背景というか葉群の薄暗さをインディゴとペインズグレイの混色で表した。一気に塗り込めばなめらかに
できたのに、仕上がりが薄かったために二度塗りをして色合いが濁ってしまった。
いつもながらの悪い癖である。
(以上この項終わり)
◇『氷山の南』 著者:池澤夏樹 2012.3 文芸春秋社 刊
―21世紀の冒険小説いま立ち現れる―
本の帯は概ね大げさではあるが、「冒険小説」に惹かれて読んだものの、正直言って期待外れだった。
そもそも「21世紀の」という形容詞は何を意味したのか。新しいスタイルか。舞台が近未来なのか。
18歳のカイザワ・ジンはほとんど衝動的に密航者となる。船は南極の海を目指すシンディーバード号。
南極の氷山をオーストラリアまで曳航し溶かした水で灌漑を食糧難で苦しむアフリカを救おうというプロ
ジェクト。アラビアの石油王が中心となって設立した「氷山利用アラビア教会(AOIU)」が、海洋研究者・
専門技術者などを乗せて曳航氷山を探しに行くところだった。危うく海に投げ込まれそうになるが、厨房
の手伝い、船内新聞編集をする約束でなんとか海に投げ込まれる運命を逃れる。
先端技術を結集した調査船と曳航対象氷山での短期的な滞在などは冒険でも何でもない。密航直前
に出会ったオーストラリア・アボリジニの絵を描く少年を訪ね、短期間ではあるがオーストラリアの原野で
の生活を経験するが、何か説明的で体験も冒険的ではない。
シンディバード号の前に突然あやしげな飛行機が現れる。どうやら無人操縦機で機上から氷をバラま
かれた。実は「アイスイズム」という考えを信奉する団体がある。どうもこの団体が氷山曳航というプロ
ジェクトに反対する行動をとったようだ。
万物は流れる(変化するしかも悪い方に)という考えが基本にあり、この流れを食い止めるには情動
に流されない、大きな心でエゴの揺らぎを抑える。それが自分を救い、世俗の慾望からの離陸を促す。
というのがアイシストの思想なのだそうだ。
割れ目のない1億トンほどの氷山を、カーボン・ナノチューブのシートでくるんで、大きなタグボートで
曳航し始めたが、途中で割れ目が生じて曳航は不可能になった。すわアイシストの仕業か。
実は乗務していた氷山観測員は環境テロリストの一員だった。そして心理学者のジャックはアイシス
ト内通者だった。
それやこれやで、氷山曳航計画は頓挫したのだが、再度挑戦するらしい。
血沸き肉踊るというのが冒険小説だと思うのだが・・・。21世紀の小説は食わせ者だった。
池澤夏樹は1988年芥川賞受賞作家(受賞作品「スティル・ライフ」)である。
(以上この項終わり)
◇『義烈千秋天狗党西へ』 著者: 伊東 潤 2012.1新潮社 刊
―本屋が選ぶ時代小説大賞受賞作品―
天狗党の末路は悲惨である。水戸藩「天狗党事件」は開国をめぐって揺れた幕末の悲劇である。
悪人は登場しない。誰しもが国を思う赤心を持ち、その行動がぶつかりあい、多くの人が死んだ。
かつて吉村昭の「天狗騒乱」を読んだ。吉村作品らしく史実に忠実に描かれた小説であるが、伊東潤は登場
人物の個性をクリアにし、歴史小説としての深みを実現した。”歴史小説には物語性を”という著者の心が伝
わってくる。
日本の夜明けを信じて自らの信念に従い散っていった志士らの過酷な上京への道と悲惨な末路を思うと、
時代の流れにほんろうされたとはいえ、胸が詰まる。
かつてツーリングサイクルを手に入れたころ、天狗党事件に興味を持ち、天狗党の西進の足跡をたどろうと
ルートを調べ、ツーリングの準備をするところまでいったが、諸般の事情で実現できず壮途は潰えた。
また、中山道を歩いた折り、和田峠を下った先の天狗党と諏訪高島藩が干戈を交えた地で、亡くなった天狗
党兵士6人を悼む碑に出会った。
「天狗党事件」を知るためには、水戸藩の内情を先ず理解する必要がある。水戸斉昭が藩主になり藤田東湖
を登用し改革を進めると守旧派が反発、幕府を動かし斉昭を失脚させる。やがて斉昭は謹慎を解かれ10代
藩主徳川慶篤の後見として復権する。この間保守派(諸生派)と改革派(強硬に攘夷を唱える激派、やや穏健
な幕政改革を目指す鎮派)が藩政主導権を握ろうと入り乱れ、安政の大獄(井伊大老による尊攘派大弾圧と
水戸斉昭永蟄居)、桜田門の変(水戸浪士による井伊大老暗殺)へと進んでいく。
やがて斉昭が病死すると執政に就任した武田耕雲斉(激派の頭領)、藤田小四郎(東湖の子)、山国兵部など
激派の面々が長州の久坂玄瑞、桂小五郎らと呼応し朝廷を動かし攘夷を実現しようと同志を糾合する。
文久3年(1863)長州が京から追放された。幕府が約束した横浜鎖港の実行を迫るため、藤田小四郎らは筑
波山神社で決起。長州が逼塞し、いまや尊攘派の拠点となった水戸藩には尊攘派浪士が続々と参集し、当初は
62人であった天狗党も最盛期には1,400人にまで膨れ上がった。水戸藩内は激派、鎮派、諸生派が入り乱れ
主導権を争い離合集散し、幕府強硬派の介入を招くことになった。若年寄田沼意尊は各藩に天狗党追討を命じ、
自ら兵を率いて東山道を上った。水戸藩はもとより水戸光圀公の遺訓があり天狗党も主張も「上は天朝に報じ
奉り、下は幕府を補翼し」とあるごとく、敬幕尊王であり倒幕の意図は全くなかったが、幕府側の強硬派は横
浜鎖港をうやむやにするためにも天狗党を叛徒にする必要があり、むりやりに反幕の集団と したのである。
水戸藩を諸生派に奪われ幕府追討軍に追われる天狗党は、大田原・矢板・宇都宮など下野の地から上州に
向かう。諸藩は天狗党に理解を示し、軍資金を出したり、領内通過を黙認したり対応はさまざまであった。
やがて天狗党は信州和田峠を下る。諏訪藩は松本藩とともに天狗党追討の幕命に従い交戦したが敗れた。
中山道で京に上るのは困難と見た天狗党は豪雪の越前蠅帽子峠(標高976m)を越え敦賀へと向かったが、
幕府軍の追及厳しく、頼みとする一橋慶喜は幕府の天狗党追討総督となり、ついに万策尽きた天狗党は828
名が加賀藩の下に降伏した。天狗党隊員に寛容な加賀藩に対し引き取った田沼意尊は残虐な仕打ちの末に
大半の352名を処刑、残る者も追放・遠島となった。
水戸では天狗党の家族はことごとく諸生党市川三左衛門の手で捕らえられ処刑された。他藩に預けられて生
き延びた天狗党生き残りは、戊辰戦争で諸生党追討の勅許を取り付け水戸の諸生党一族を処刑するなど、水
戸藩の内紛は血で血を洗う凄惨な私刑・報復で終始した。
(参考)義烈千秋とは非常に長い年月義を守るに堅いことを意味する。
(以上この項終わり)