暇に任せてネットでご先祖を手繰って行ったら肖像画にぶち当たって
明治時代以前のご先祖とご対面してしまった。
元亀元年6月28日(1570年7月30日/グレゴリオ暦8月9日)の姉川の戦いの時は
主君・京極のお殿様より出向を命じられて浅井長政の家老として近江の一城を
任せられていたので戦場に向かい、「討取った首の事一 首二百九十五」。
まあもちろん家臣・家来と併せてだろうけどむごいことを・・・
そのとき浅井家が負けたんでコロリと寝返って織田信長側の木下藤吉郎傘下に付き
信長の時代は三重県松阪市の城をもらっていたようで、安土桃山時代は近江牛・
松阪牛と牛肉の旨いところばかり辿ったみたい。
まあ世渡り上手でやり手でずる賢く生き延びる性質まではどうも受け継がれなかったようだ。
明智の謀反の後は丹波・播磨・備前・讃岐と廃藩置県まで武家で通したみたい。
画像のご先祖はずうっと何代も前の人だけどその息子のまたその娘が嫁いだ先で
生んだのが小堀 政一(こぼり まさかず)。
大名、茶人、建築家、作庭家。備中松山藩第2代藩主、のち近江小室藩初代藩主。
一般には小堀 遠州(こぼり えんしゅう)の名で知られる人。
妙心寺麟祥院の春日局霊屋(慶長年間、うち溜りを移建)、氷室神社拝殿(慶長年間、内裏池亭を
移建)、大覚寺宸殿(慶長年間の内裏の元和期増造の際に中宮宸殿となる)、金地院東照宮、同茶室、
同方丈南庭(鶴亀庭)、南禅寺本坊方丈南庭、大徳寺竜光院密庵席(みったんせき)、孤篷庵表門前の
石橋、同前庭、同忘筌席露地(建築は寛政年間に焼失後、旧様式を踏襲して復元された)、仙洞御所南池庭のいで島およびその東護岸の石積み部分などである。
また加賀大聖寺藩長流亭も手がけていると言われるオジサン。
こちらは分かれていった血なんだけれど、こっちの方の子孫で居たかったような気もします。
A4で十数ページ分、PDFファイルと画像ファイルもかなりの数を拾ってきました。