くじびき はずれ の 見た世界

シニア初級者というのに世間知らず。
少年のようなつぶらな瞳?
そろそろ大人の記事を書きたい毎日です。

気になっていたスポット

2014年10月15日 23時36分03秒 | 奈良学

時々通る道すがら、気になるスポットがありました。

信号で止まった時にふと見ると整然とした感じのお寺のような佇まいである。
その信号の名称が百済(Kudara)と表示され『百済寺→』の名所・旧跡の看板があった。
ちょっと時間があったので寄ってみました。


なんだかとっても由緒あるお寺のようだった。

            

百済大寺とは、7世紀前半に創建された官寺で、再度の移転・改称の後、平城京に移転して
南都七大寺の1つ大安寺となったとされている。

        

こんな歌碑も建っていました。

宗旨は高野山真言宗だと言い鎌倉時代中期の建立となっている三重塔はかなり立派に
見えたけれども大織冠(たいしょくかん)と呼ばれ、談山神社から移築したものと伝えられる
本堂は十八帖ぐらいなんだけれど無住(住職が居ない)で小さく見えた。

隣接する春日若宮神社(右画像)によって管理されているらしい。

当地における「百済」の地名が古代から存在した証拠がないこと、
付近から古代の瓦の出土がないこと、飛鳥時代の他の宮の所在地が
飛鳥近辺に比定されるのに対し、百済宮のみが遠く離れた奈良盆地
中央部に位置するのは不自然であることなどから、この地に百済大寺
が所在したことは早くから疑問視されていたそうだ。
1997年以降、桜井市吉備(安倍文殊院の西方)の吉備池廃寺の
発掘が進むにつれ、伽藍の規模、出土遺物の年代等から、この吉備池廃寺こそが百済大寺であった可能性がきわめて高くなっているらしい。(Wikipediaより)

広陵町によって綺麗に整備されて、車窓から直接見えていた木々の北側は公園となって
公衆トイレも美しかったが、歴史的には創建の時期・経緯等は明らかでないようで
忘れられた遺産のようで寂しい気がしました。

なんでもある週刊誌に載ったそうで、三重塔の古色蒼然とした美しさに心惹かれた人が
時折り訪れてくるようでした。

但しこの付近一帯は、万葉の昔には「百済野」と呼ばれたという説もあります。
『日本書紀』には応神天皇7年9月に、高麗人・百済人・任那人・新羅人、共に来朝せり、
と記してあるとか。
その時渡来した百済人たちがこの地に住み着いて、百済野の呼ばれるようになったのかも
知れません。