院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

義務教育の強迫性

2013-04-09 01:38:24 | 教育
 父親の世代の小学校での話だが、昼の弁当の時間に校庭でぶらぶらしている子どもがいたという。なぜかというと、その子の家は貧乏で弁当を持って来られなかった。つまり、昼食を抜いていたのだ。

 そこで私は不思議に思う。教育費のほうが弁当代より、よほど高いはずである。それなのに、学校がその子にとった態度は、教育はするが飯は食わせないということである。飯よりも教育のほうが重要なのだ。

 学校がどんな子どもにも漏れなく教育を授けるという姿勢は、すさまじいほどである。壺井栄の小説『二十四の瞳』を読んで私が驚いたのは、美しい師弟愛に対してなぞではなく、女教師がトランクひとつで単身島にまで押しかけてくる熱意に対してである。熱意というと聞こえがよいが、要するに、しつこさというか、強迫性というか、とにかく異常なまでの執念である。

 学校のこの姿勢は現在でもある。小学生が一人しかいない離島にも教師が一人派遣されて、一対一の授業を行っている。なぜ、ここまで熱心なのだろうか?飯よりも教育を重視するのはなぜだろうか?

 建前としてはすべての子どもには平等に教育を受ける権利があるからである。だが、現実を見ると必ずしも平等ではない。経済的な理由や他の理由で高校や大学に行けない少年少女は山ほどいる。ところが、義務教育だけは徹底的に不平等が排除されているのだ。

 高校大学での教育の成果を、仕事に結び付けている大人は多くはない。作家の曽野綾子さんは、二次方程式は人生で一度も役に立ったことはないと言っている。だから義務教育だけは、どうしても不平等であってはいけないのだろうか?義務教育の不平等は絶対に許さないという国家の強い意志を感じる。

 飯を犠牲にしてまで教育に力を入れてきたから、今の日本の繁栄があるのかもしれない。繁栄には異常な執着が必要なのだろう。だが、異常さを要求してくる社会(それは国際競争に打ち勝とうとする社会だ)、そのような国際競争社会とは、参戦するに値するものなのだろうか?

 小学校教師なる者は、赤紙(辞令)一枚でどこにでも駆けつける熱狂的愛国者のように見える。