例えば「もののあはれ」の「もの」。この「もの」は「ものがたり」の「もの」であり、「ものぐるほし」の「もの」であり、「美しいもの」の「もの」である。「もの」そのものは定義しにくいが、用例からある一定の概念が感得できる。
例えば「気」。これは「元気」、「気合」、「天気」、「気に入る」、「気が合う」、「陰気」などの「気」である。アトモスフェアとも違う日本独特の対人的、対自然的な気分である。
「み」という大和言葉を鍵として、「身になる」、「中味」、「実がなる」といった用例の意味空間から「精神」へと巧みに迫ったのが、市川浩の『精神としての身体』である。
(勁草書房刊。)
言葉はつねに多義的である。「心」も「身」も多義的であるから、「心身一如」が正しいのか「心身二元論」が正しいのか、すでにしてそれらが言葉であるから決定できない。つまり言葉で説明するのは直感的には不可能である。
だから、心身問題は言語的記述によっては解明できず、以心伝心のように伝えるほかないのではあるまいか?