院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

オートメーション見物が好き

2013-12-14 06:24:30 | 技術
「業界初」にとことんこだわるドーナツづくり 北川製菓


 蕎麦やどら焼きなどの食品を店頭のガラス張りの部屋で実演販売している店を多く見かける。職人が蕎麦を切っていく技や、どら焼きの皮が焼けていく様子がとても面白い。

 別に焼きまんじゅうなどのオートメーション作業を見せながら販売している店が浅草にあった。少年の私は飽かずに見ていた。

 子どものころから工場見学が好きで、今でも好きだ。オートメーションをレポートしたテレビ番組があるから、好きな人は多いのだろう。

 オートメーションでは巧みにまんじゅうの成形や飲料の瓶詰が行われるので、よくぞ考えたものだと感心する。たぶんLSIの中ではもっと巧みな作業が行われているのだろうが、LSIは中身が見えない。オートメーションは具体的に視覚で理解できるから面白いのだ。

ギターはジャズに向かない

2013-12-13 05:30:45 | 音楽
 ジム・ホールやウエス・モンゴメリーと聞いて誰だか分かる人は相当なジャズ通である。

 いずれもジャスギターの最高峰で、往時には大いに持てはやされた。だが、私には彼らの演奏が少しも面白くなかった。上手だが心に訴えないのである。

 演奏を譜面に起こすと、良い演奏をしている。そのため私は、ギターという楽器がジャズに向かないのだと考えた。だが時はジャズギター全盛期で、若造だった私は「ジャズギターはつまらない」とは大声で言えなかった。

 私がジャズにはまったころから50年近くたってみると、やはりギターはジャズには向かないことがはっきりした。それが証拠に、現在まで残っていない。ウエス・モンゴメリーの「オクターブ奏法」は神技と言われていたのだ。今それを見直そう聴き直そうという空気は微塵もない。

 ジム・ホールが83歳で死去したとの報に接して思い出した次第。

Pat Metheny & Jim Hall

(お爺さんのほうがジム・ホール。あまりに地味だと思われませんか?同じフレーズをピアノやトランペットでやったら、ずっと引き立つはずです。)

紅葉に感動したころ

2013-12-12 03:53:32 | 心理

(オリンパス・フォトパス、ブルーキャンパスさんの作品。)

 紅葉は美しい。初めて紅葉に感動したのは中学生のころである。正確には紅葉ではなくて黄葉だが。

 東京のお茶の水だったか信濃町だったか、とにかく「スクール・オブ・ビズネス」(「ジ」ではなく「ズ」と書いてあった)という専門学校前の道の銀杏並木がみごとに黄葉していたのだ。空が紺碧に晴れていた。

 銀杏の黄葉はそれまで何回でも見てきたのに、その時なぜ特別に感動したのかは分からない。怖いほど心に染み入った。

 当時、写真に凝っていた私は、ぜひその光景をフィルムに残したいと思った。だが、カラーフィルムは目が飛び出るほど高価で、かなわなかった。コダック社のエクタクロームというプロが使用するカラーフィルムは一本4,000円だった。大卒初任給が2万円程度の時代である。

 黄葉は今でも美しいと思うが、あの13歳のころの銀杏並木が格別に美しかった。文化や芸術や学問、そして異性にも目が開かれた年頃だったからかもしれない。

(銀杏は鎌倉時代に日本に入ってきたとされている。それ以前の日本人は銀杏の黄葉を見たことがないことになる。だからか、古歌には詠まれていない。)

続・未だに迷う俳句の語尾

2013-12-11 06:02:23 | 俳句
    酔ひさうな浮桟橋に鯊(はぜ)を釣る  拙句

 この俳句をある俳句サークルで提示し、みなに問うてみました。おおむね好評でした。ここは原句どおり終止形「釣る」でなくてはならないようです。「釣り」と川柳的に止めてはよくないという意見が大かたでした。

 実際、「釣る」で投句した名古屋の結社誌でも、この句はわりに高く評価されました。

 そこでさらに俳句サークルで、次のような止め方がよく見られるがどうか?と問いました。私が気に入らない止め方です。

    酔ひさうな浮桟橋に鯊釣りて

 言い切らないで、釣り以外にも何かしているような雰囲気を(何もないのに、あるかのごとく)匂わせているから好きではないのです。

 次のような例(拙句)も提示しました。次の句の「見えて」が文法的に「釣りて」とまったく同じことなのかは自信がありませんが。

    (1)夏霧の影絵に見えし漁船団

    (2)夏霧の影絵に見えて漁船団

 次のようなご意見をいただきました。

A夫さん:釣りて(いることだなぁ)のカッコ内が省略された詠嘆型。

B子さん:「て」は「現在」のテンス(時制)を示している。「見えし漁船団」だったら「過去」。「見えて漁船団」だったら「現在」。「見えて(ゐる)」のカッコ内が省略されている。

C夫さん:「釣りし云々」は過去に見えるが助動詞の連用形。

D子さん:「・・苦しきことのみ多かりき」の終止形「き」は過去・回想。だから連体形「多かりし云々」も過去・回想。

 むろん私は(1)が好きで、(2)は思わせぶりなのでイヤなんです。好き嫌いと文法論議が錯綜していて頭がこんがらがってくるのですが、好き嫌い、文法どちらでも皆さまはどう思われますか?

 同じサークルの別の方の俳句・・

    戦争を知ってゐる歯が抜けて冬  甘納豆

 この句だったら「抜けて冬」のほうがよくて「抜けし冬」では駄目だと思うから、私はますます混乱するのです。

メガソーラー構想、はや崩壊!

2013-12-10 06:09:58 | 経済

(Wikipedia "Hokkaido Electric Power Company" より引用。)

 北海道電力がメガソーラーを歓迎しなくなったという。それでメガソーラーを開発している不動産業者が困っているというニュースを聞いて、今年5月に私が心配していたことが早くも現実になったかと驚いている。

 5月に私は、メガソーラーに投資するファンドを疑った。売電は儲けが出ない制度だと思ったからだ。初め政府は売電価格を高く設定した。これは任意だからいくらでも高く設定できる。でも、電力が一般の市場にさらされたら値下がりして、10年後にはファンドは損をするだろうと予言した。

 プロのファンドは政府が税金を投入した「公定価格」が通用している間に(税金から)儲けて、あとで電力価格が市場経済に曝されて暴落したら知らん顔だろうとも述べた。(ドイツがそうだった。)

 それに対して、ソーラーシステムの専門家と思われる方から、文献まで提示した恐縮するほど詳しい反論をいただいた。私は文献を細かく調べてからその意見にさらに反論した。(それらについては本欄の「メガソーラーを疑う」を参照されたい。)

 この討論の決着を見るのは何年も先だろうと思っていたら、北海道電力が不動産業者の立てた(まともな)計画で電力を買ったら利用者の電気料金を値上げしなくてはならなくなるなぞと言い出したのだ。(不動産業者は素人向けのファンドで開発を行おうとしたと推察される。難色を示した北海道電力はむしろ良心的である。)

 これでプロのファンドは手を出さなくなるだろう。(プロはすでに織り込み済みのはずである。)素人はもう、メガソーラー売電ファンドに手を出すべきではない。ソーラーパネル付き住宅を購入する人は、売電で儲けようと思わない方がよい。まさか、わずか半年で先の討論の決着を見るとは思わなかった。

(5月に詳しくご説明くださったSさん。北海道電力の挙動に対する私の理解が間違っていたらご指摘ください。)

昭和40年代の公害問題

2013-12-09 05:50:36 | 環境

asahi.com より引用。)

 小学生のころ、NHKの「私の秘密」というクイズ番組を家族みんなで見た。司会の高橋圭三アナウンサーをビッグスターにした高視聴率の番組である。当時、私は東京に住んでいた。

 著名人が回答者で、あるとき回答者の一人渡辺紳一郎さん(写真右から2番目、新聞記者)が、話の流れは忘れたが、女性の出演者に対して「あんたの鼻くそは黒いだろう?」と言ったので驚いた。

 渡辺さんが続けるに、「鼻くそは本当は白いものなんだ。東京は空気が汚いから鼻くそが黒くなるんだ」という。鼻くそは元来黒いものだと思い込んでいた私には少しショックだった。

 その数年後、中学校に上がってから四日市の公害問題がしきりに言われるようになった。さらに数年後、名古屋の大学の医学部に入ってからは、公衆衛生の授業はほとんどが公害問題だった。名古屋からは四日市が目と鼻の先だったからかも知れない。

 大気だけではなく水質や騒音も問題になった。騒音は当時「ホン」という単位で表わされたが、15年前に廃止された。「ホン」の基準となる音を出す装置は、空き缶に砂を入れたようなものだった。逆さにして砂が落ちるときに出る音が「1ホン」とされた。

 上海のものすごいスモッグを見て思い出した次第。

サインの価値と美術品の価値

2013-12-08 05:09:24 | 文化
 芸能人のサインで一番価値があるのはビートルズのものらしい。5人まとめて書かれたサインは何百万円もする。

 ビートルズのサインは「書」としての価値はない。むろん学問的な意味もほとんどない。なのになぜ高価なのか、ぜんぜん理解できないわけではない。


(amazon より引用。)

 アンディ・ウォーホールのシルクスクリーンに、私はことさら美術的な価値を感じない。マリリン・モンローの顔写真にいたずらをしただけだ。ただ、彼は広告の世界で一時代を画し銃撃事件のようなスキャンダルがあったから、彼の作品が法外に高価でもけしからんとは思わない。

 美術品の価値は、しばしば作品の価値ではない。ゴッホが自分の耳を切り落とさなかったら、彼はこんなにビッグになれただろうか?みんなが言うほどに、私はゴッホの作品を素晴らしいとは思わない。

未だに迷う俳句の語尾

2013-12-07 06:44:39 | 俳句
 俳句を初めて25年にもなるのに、まだ語尾で迷うことがある。たとえば次の拙句。

    マッサージチェアが添水(そうづ)の庭を向く

 ここで添水とは、竹筒に水をためていっぱいになると水を吐きだし、竹筒が倒れてカタンと鳴る庭にある装置。鹿威し(ししおどし)とも呼ばれ、秋の季語である。


大谷ごふく店ホームページより。)

 上の例はもっともオーソドックスな終止形である。ところが川柳に多いのだが、止めない場合がある。

    マッサージチェアが添水の庭を向き

 さらに、俳句でしか用いられない用法、すなわち「し」で過去を表わす仕方がある。連体形で止めるので、文法的におかしいという意見がある。

    マッサージチェアが添水の庭向きし

 普通の過去形なら次のようになる。

    マッサージチェアが添水の庭向きぬ

 感覚的に一番良いと私が思うのは、最初の例である。なぜ最初の例が一番良いと感じるのか、未だに分からないでいる。

諸悪の根源は農耕にあり(8)

2013-12-06 05:36:04 | 文化

(角川書店刊。)

 これまでの文明批評のほとんどが、古代文明を批判的に考察してるのではなく、そのまなざしはつい最近成立したばかりの産業革命以降の工業化社会に向けられているのではあるまいか?

 確かに現代日本を見ると、第一次産業よりも情報やサービスといった産業(第三次産業?)に富が集まっているように見える。ところが、それらに従事する人々には必ずしも幸福な感覚がない。

 イギリスの産業革命の時代、機械にこき使われていた労働者がついに機械を打ち壊すに至ったラッダイト運動のようなエネルギーが、現代の抽象労働に携わるホワイトカラーにも溜まっているように感じられる。

 だが、そもそも産業革命が可能だったのは農耕文明が成熟していたからであり、産業革命の発生はじつは農耕の発明にまでさかのぼることができる。

 狩猟採集社会から農耕社会になってあぶりだされてきた疾患が統合失調症(かつての分裂病)だと喝破したのは中井久夫氏である。(『分裂病と人類』、東大出版、1982。近日復刊予定。)

 うつ病の発症も、狩猟採集文化から農耕文化への転換で人々の平等性がなくなったから起こったという説が、最近海外から流れてきたが、まだ説得力はない。

 ものごとを有文字文化からだけ眺めるのでなく、無文字文化にまでさかのぼって人類史的に見ることは、本質を一層深くとらえるのに役立つだろう。

 しかしながら、「なかった昔には戻れない」。ジェット機もコンピュータも存在した上での現在である。「諸悪の根源は農耕にあり」のシリーズは、ここでひとまず区切りとしたい。

(冒頭に掲げた本は石油文明批判である。資料が豊富で説得力がある。ベストセラーにはつまらない本が多いのだが、これは面白い。著者とNHK取材班の力量を感じさせる一冊だ。)

諸悪の根源は農耕にあり(7)

2013-12-05 06:03:09 | 文化

(wikipedia "Rosetta stone" より引用。)

 「礼に始まり礼に終わる」という教えは武道の基本である。「礼」がなければ、武術はただの喧嘩になってしまう恐れがある。そこに歯止めをかけるのが冒頭の教えだ。

 「礼」はもともと儒教の言葉で、社会秩序を安寧にたもつための徳目だった。だが、儒教が求めた社会秩序とはすなわち堅固な身分制度のことだった。「礼」によって上下関係をしっかりさせて、混乱を起こさないようにしようという発想だった。ときあたかも春秋戦国時代である。

 このシリーズで述べてきたように、上下関係という身分制度は農耕文明がもたらした負の遺産である。もう発生してしまった農耕文明の害毒をこれ以上発展させないようにしよう、というのが儒家のスタンスだったと言える。儒家はリアリストだった。

 「礼」という文字が発明されたのは、これも農耕文明による。文字によって今の記録が遠方や未来に渡せるようになったとき、当時の人は「大変なことになった」と感じたという説がある。現代人が原爆を発明したときに匹敵するようなインパクトが、文字の発明にはあったようだ。

 現在、世界には約3,000の言語があるが、文字をもっている言語はわずかに17言語だという。これによっても古代における文字の発明が、いかに衝撃的だったかが分かる。事実、文字の発明は複雑な法律や申し合わせを産み、人類の生活はルールでがんじがらめになってしまった。もとはもっと大らかだったのだ。

諸悪の根源は農耕にあり(6)

2013-12-04 06:05:00 | 文化

(角川書店刊。)

 狩猟採集民族には、野生動物はペットなぞではなく端的に食糧に見えた。腹がすけばどうしてもそれらを獲りに行かなくてはならない。それは朝時間どおりに会社に行くといった抽象的な義務ではなかった。

 獲れた獲物は部族内で平等に分けられた。それはルールとか掟といったものではなく、部族が生き延びるための自然な行為だった。

 「場の空気」を読む必要もなかった。普通に獲物を獲り、普通に分配するだけですべてが済んだ。空気を読んで駆け引きをするのは、余剰がある場合に必要なことであって、その日暮らしの狩猟採集民族にはそもそも余剰がなかった。

 現代では空気が読めて、相手の出方をおもんばかり、結果として余剰を多くかすめとる高度な手練手管が必要である。それは余剰があるから、すなわち現代が農耕社会だからである。

 何年か前、KY(空気が読めない)という造語が流行語大賞に選ばれた。現代においては、駆け引きや腹芸によって余剰をぶんどるための「空気を読む」という技術が尊ばれているからである。余剰にあふれた現代農耕社会では、必然的にそうなる。

 KYとはどうも嘲りの言葉のようだが、私が尊敬する人の多くがKY的なのはなぜだろうか?冒頭に示した本の表題がやはり正解なのだろうか?

ホトトギス主宰代わる

2013-12-03 06:08:52 | 俳句

ホトトギス・ホームページより引用。虚子記念文学館。)

 「諸悪の根源は農耕にあり」のシリーズは今しばらく続ける予定だが、俳句界についてホットなニュースが入ったので、今回はそれがテーマである。

 ホットなニュースというのは、ホトトギスの主宰(家元)の稲畑汀子さんが勇退して、家元を息子の廣太郎さんに譲るということだ。

 かねてからこの欄に書いてきたように、家元が必ずしも名人上手とは限らない。それでも汀子さんがホトトギス主宰(家元)であり続けたのは、じつはホトトギス同人や会員が戦前派で、家元を尊重することに疑問を感じない世代だったからだ。同人は現在ほとんど80歳以上である。

 だが、それより下の年齢層は、家元の血脈を盲目的に尊重する世代ではもはやない。彼らが廣太郎さんを支えるかどうかは未知数である。

 汀子さんは20年ほど前から、テレビに出るたびに廣太郎さんを連れてきた。自分の跡目を継がせるためのお披露目であることは明らかだった。それをホトトギス・シンパの人々(現在70歳くらいの戦中戦後世代)さえステージママだマザコンだと陰口を言っていた。

 現在の同人が死に絶えれば、陰口を言っていた世代の人たちが同人となり、廣太郎さんをたてまつる派とそうでない派に分裂するかもしれない。

 少なくとも私の俳句友達は、「俳句結社って、主宰を教祖とする宗教団体みたいだね」と言っていた。

諸悪の根源は農耕にあり(5)

2013-12-02 05:45:05 | 文化

(wikipedia "mesopotamia" より引用。)

 先祖に古代文明をもつ人々は、自分たちはむかしから文明人だったと自慢するが、なに野蛮だっただけである。

 ピラミッドのような巨大建造物や大都市の建設は富の蓄積がなければ不可能だった。富の蓄積は食料の保存によってもたらされた。保存できるのは穀物だった。それは農耕によって得られた。穀物を支配するシステムの頂点に「王」をいただく国ができた。

 王から奴隷に至るまで、その文明にはヒエラルヒーが必ず存在した。絶対的多数の奴隷が巨大建造物を作らされた。なんの役にも立たない巨大建造物のために、どれほどの奴隷が首をはねられたり、使い潰しにされたことだろう。残酷で野蛮である。

 弓矢しか持たぬ狩猟採集民族を野蛮だというが、彼らはみな平等で奴隷なぞいなかった。獲物は均等に分けられた。餓えるときはみんなで餓えた。これを野蛮というか?

(民主主義国家は首相や大統領を頭目として奴隷はいない。その代りに「勤労(仕事)は美徳」とされる。「みんなで奴隷になりましょう」というわけだ。勤労(仕事)は苦役だから、美徳にまつり上げておかざるを得ないのだ。)

諸悪の根源は農耕にあり(4)

2013-12-01 05:06:07 | 文化

つり人社のホームページより引用。農耕でこのような雑誌はあっても数少ない。)

 釣りやハンティングは趣味である。すなわち遊びである。

 わが国では銃への忌避感から最近ではハンティング人口は減ってきたが、私が子どものころには猟銃を持っている人がたくさんいて、隣りのおじさんから獲物のカモやウサギをいただいたこともある。

 現在では釣りは国民的なホビーで、関連雑誌、釣り道具、釣り船などを合計すれば一大産業をなしている。

 狩猟採集時代にはハンティングや釣りは遊びではなく仕事の部類だった。獲物を獲得しなければ即、生命が脅かされる環境だった。だから狩猟は切実な行為だったし、獲物が得られれば喜びは格別なものだったに違いない。そのため当時、狩猟採集は農耕ほどには苦役ではなかった。

 現代の農耕社会でも、人間はただちに食べられる獲物を本能的に狙うのではないか?だから、ハンティングや釣りはめくるめくほどに面白いのではないか?

 農耕は半年先の収穫をイメージする気の長い営みである。だから、本当は生物としての人間に適した作業ではなかったのではないか?農耕の発明により「仕事は苦痛」という考え方が生まれたのではないか?

 農耕が発明されるまでは、上述のように生きていくための狩猟採集という行為はけっして純粋な苦役ではなく、遊びのような感覚を帯びていた。現代人が釣りにこれほど惹かれるのは、狩猟採集時代の本能的な喜びが呼び起されるからだと思われる。

 すなわち、農耕の発明によって「仕事」という苦役も同時に発明されたのだ。