院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

専門医制度始まる

2017-09-12 02:44:52 | 医療

(臨床研修風景。(医)天神会新古賀病院のHPより引用)。

 一般のかたがたには意外に知られていないが、医学部では学生はまだ科別にわかれていない。すなわち、すべての科を勉強するのだ。その量は膨大で、秀才でなくてもよいがある程度の頭と努力が必要になる。

 こうして6年間の医学部生活が終わると国家試験がある。それに受かって初めて医師免許があたえられる。だが、まだ一人前とは認められない。その後2年間の臨床研修がある。やはり2年間で全科を回って上級医について患者を受け持つ。(私の時代には臨床研修医制度はまだなく、いきなり科別にわかれた。)

 臨床研修中に研修医はどの科に進むかを決める。科が決まったらその科の「専攻医」となって、さらに5年間の習練を積む。こうして、ようやくその科を標榜できる「専門医」になれる。(この制度は現在、構築中である。)

 私の時代には、こうした教育研修システムがなかったので、自発的によく勉強する医者とそうでない医者との間には雲泥の差ができた。平成の初めころ、マスコミや国民から医者がひどく叩かれた時代があった。叩かれるべきは不勉強な医者であるべきところを、医者全体が叩かれた。

 いまこうして卒後7年間の習練が義務付けられると、不勉強な医者は「専門医」になれない。だから医者の質を一定程度以上に保つには、卒後習練の義務化はよい制度である。

 ただし問題もある。ストレートで行っても医学部を卒業できるのは24歳である。その後の7年間は女性にとって出産の時期である。卒後の習練に忙しくて出産できない、あるいは結婚さえできない女性が増える恐れがある。

 むかし、私たちの世代の医学生は女性が10%程度だったが、現在では40%以上になっている。女性の医学部志望が減ると、またむかしのように女性が10%しかいない時代が来る恐れがある。(むかしの女医は結婚出産のことなぞ考えていなかった。じっさい一生独身の女医も少なくなかった。彼女らは、その覚悟で医学部に来ていた。)

 ※私の俳句(秋)
    さわやかや襟旗めかせバイクの娘(こ)
    
    

蔵があるお宅

2017-09-11 10:51:31 | 生活
 お金が儲かることを俗に「蔵が建つ」という。私が居住する地域には蔵をもっている家がけっこうある。(米蔵とか酒蔵のような特定の用途に使用するのではなく、燃えては困るお宝を収蔵するための蔵だ)。


(平福の土蔵群。ウィキペディアより引用)。

 上の平福の蔵町には商品がしまってある。きょう話したいのは、そういう蔵ではなく、大事なものを入れておく個人の蔵についてである。

 下の写真は拙宅の向かいの家。右側に蔵がある。手前の流れは川ではなくて農業用水路だ。この家も元来農家で、おじいさんがビニールハウスでせっせと仕事をしている。息子さんの仕事は知らないが、もう農業ではないだろう。

 この蔵はいつからあるのだろうか?新しく蔵を建てる人は少ないから、むかしからあるのだろう。何がはいっているのだろうか?


(向かいの家の蔵。筆者撮影)。

 蔵を壊したり整理したりするときに、思わぬお宝が出てくることがある。(これを蔵出しという)。そこをねらって骨董商が全国から群がる。さいきんは、そのようなことが少なくなったので骨董商は新しいお宝を発見できなくなったと嘆いている。

 まれにだが蔵に住んでいる人がいる。なぜだかは知らない。新築の家に蔵のデザインをほどこした人が少し離れたところにいる。なかなか見栄えのする家である。ちょっと遠いので写真は撮っていない。

 私は蔵が欲しいとおもっているけれども、入れておくものがないので蔵は建てていない。そのうちに観光用以外の蔵は絶滅するだろう。

 ※私の俳句(秋)
    秋深し蔵ある家の朝支度

外来生物はそんなにいけないか?

2017-09-11 00:53:17 | 環境

(ブラックバス。ウィキペディアより引用)。

 たとえば琵琶湖で外来生物であるブラックバスやブルーギルが問題になっている。琵琶湖のアユを絶滅させるというのだ。エサがなくなれば捕食者も生きていけないことは数日前に書いた。(「生態系の絶妙さ」2017-09-02)。いずれ安定した生態系になるだろう。琵琶湖のアユは減少するかもしれないが絶滅はしない。

 外来種の移入はいま始まったことではない。日本各地にある「アジサイ寺」のほとんどは毬状のアジサイを植えており、毬状のアジサイは外来種である。


(あじさい寺のひとつ大泉寺。ウィキペディアより引用)。

 ブラックバスは養殖のため明治時代に放流されたらしい。つまり、食べておいしいということだ。だったら、どんどん獲って食べるべし。


(セイタカアワダチソウ。あきた森作りサポートセンターのHPより引用)。

 さいきん話題にならないが、セイタカアワダチソウも外来種として一時騒がれた。いまでは秋の風景をいろどる植物に「出世」しており、あれを美しいと感じる人もいるほどだ。

 人為によろうが、火山や洪水などの自然現象によろうが、生態系は日々変遷していくものである。だから、在来種保護はノスタルジーに過ぎないと私は思う。(環境問題を持ち出す必要はない!)。

 ※私の俳句(秋)
    眠られぬ夜は庭に出て虫を浴ぶ

PAC3 は発射されないだろう

2017-09-10 22:51:56 | 技術

(PAC3発射台。ウィキペディアより引用)。

 PAC3ミサイルの前身PAC2は湾岸戦争のときに、イラクのスカッドミサイルを1機も打ち落とせなかった。それでPAC3が開発されたのだが、PAC3が有効かどうか疑問をもっている向きも多いらしい。

 PAC3が十分有効ならば、韓国はさらに高価なTHAADを導入する必要はなかったはずだ。PAC3の実験映像が少なすぎることもそれを傍証している。

 わが国は中国地方や四国地方にPAC3を配備したけれども、PAC3が覆う範囲は1機あたり半径30キロメートル程度だそうで、ひとつの都市を守るだけでも数が少なすぎる。その上、発射して命中しなければその無力さが敵にバレれてしまう。

 すなわち、もしミサイルが来たら撃ち落とすからね!というポーズをとっているだけだから、変に発射して外すより発射しないほうが得策なのである。


(レーガン大統領。ウィキペディアより引用)。

 ここでレーガン大統領時代のスターウォーズ計画(SDI)が思い出される。この時にはソ連からの核を積んだICBMを打ち落とすため、レーザーを初めとしたあらゆる兵器が考案され、膨大な軍事研究費が使われた。

 同じころスペースシャトルがさかんに打ち上げられ、他国の人工衛星をポイポイつまんで回収できる技術が確立した。ソ連も負けじと軍事開発に力を注いだが、なにせ予算が足りない。財政がひっ迫してソ連は軟化せざるをえなくなった。

 これを機会にソ連は崩壊に向かう。同時に冷戦が真の意味で終結した。ゴルバチョフ政権のときだった。

 アメリカでは膨大な予算がスターウォーズ計画(SDI)に使われたが、なにも実用化しなかった。ここで注目すべき点が2つある。ひとつは、レーガン大統領がSDIをぶちあげた演説(SDI演説)は、結果的に口先だけのことになった点。もうひとつは、スペースシャトルは平和利用であるかのように見えて実は高度な軍事ミッションを負っていた点である。(それが証拠に、ミッションが終わるとスぺースシャトルはさっさと引退してしまった)。

 以上のような次第でPAC3は発射されないだろうと私は思うのだが、みなさまはどう思われるだろうか?

 ※私の俳句(秋)
    虫の声一掃したるにはか雨

1円の値上げに大騒ぎしたマスコミと主婦連

2017-09-10 15:05:17 | マスコミ

(62円ハガキ。日本郵便のHPより引用)。

 このたびハガキが62円となり、20%も値上げされた。(年賀状を除く)。それが、すんなり決まって反対の声は出なかった。

 むかし、牛乳が1円値上げされるだけでマスコミと主婦連は反対の大合唱を行った。現在、たとえばスーパーやコンビニがプライベートブランドを値上げしても、大反対の声は上がらなくなった。

 わが国が豊かになったからだろうか?それともインフレを願う気持ちがあるからだろうか?

 マスコミと主婦連が牛乳の1円値上げにあまりにうるさく、山本夏彦翁をして「1円玉が落ちていても拾わないくせに・・」と言わしめた。

 政治団体としての主婦連はいまどうなったのだろうか?まだ存在しているのか?

 1968年、地婦連が格安化粧品「ちふれ」を(株)ちふれ化粧品から売り出した。地婦連は、主婦連とはまったく別の団体である。売り出しとうじ「ちふれ」は1ビン100円で、化粧品会社がイメージ戦略だけでいかに大枚を女性たちから巻き上げているかを証明した。

 消費者団体としての地婦連のほうは、今どうしているのだろうか?


(「ちふれ」発売の化粧品。(株)ちふれ化粧品のHPより引用)。

 ※私の俳句(秋)
    虫の音の満てる闇へと子は去りぬ 

    

住宅街の犬の声

2017-09-10 00:09:24 | 生活

(番犬。ウィキペディアより引用)。

 「猛犬に注意」というステッカーを貼った家が少なくなった。犬はあくまでもペットであって、何かの用途に使おうという考え方がなくなってきたのだろうか?

 これらの犬は、郵便や新聞の配達人を困らせていた。また、よく吠えるので、住宅街の騒音の元だった。私は犬は好きだが、住宅街の犬の声には悩まされてきた。このごろ、それが少なくなった。(犬の声には犬の感情がはいっているから、ときに機械の騒音よりも神経に障る)。

 東京でも、むかしは「犬の鳴き声公害」があった。しかし最近ではマンションは飼い犬禁止だし、広い庭がある家も少ないから犬の声はめっきり減った。喜ばしいことである。

 拙宅があるような地方都市でも「犬の声公害」は、この10年で激減した。庭のある家が多いにもかかわらず・・。やはり犬を家畜としてではなく、家族のようなものとして飼う人が増えてきたからだろうか?

 私が幼少時、犬の遠吠えがよく聞こえた。あれはなんなのだろうか?こちらの犬が遠吠えを始めると、かなたの犬が応えて遠吠えする。かくして、住宅街に犬の遠吠えが響きわたることになる。(テレビの動物映画でオオカミの遠吠えが映される。同種どうしの意味があるコミュニケーションなのだろう)。

 街から犬のフンが消えた。私の幼少時、草むらに犬のフンがあって、そこに座ってしまったことがあった。犬を飼う人のマナーが向上したのは、とても嬉しい。

 いまの私に犬を飼う気持ちはない。なぜかというと、我が家は仕事などで家を空けることが多く、誰もいない家に犬だけ一人で置いておくのは忍びないからである。

 ※私の俳句(秋)
    秋の夜石鹸のまま電話に出

交通カードの悪用

2017-09-09 12:05:49 | 技術

(交通カード、スイカ)。

 あらゆる交通系カードの相互乗り入れが可能になった。誰か知恵者が奔走して、こうしたきわめて便利な機能をカードに付与したのだろう。

 このカードはバス地下鉄JRのみならず、コンビニでも使用できる。とくに東京はレストランや商店でも使える。

 交通カードは、むかしの公衆電話ほど大きさのマシンでチャージできる。しかも無記名である。マシンはどれほどれほど複雑なのだろうか?

 たぶん、あのマシンを自作して自分でもっている者がいるだろう。そして、あらゆる品物やサービスをそれで買うだろう。無記名なのがそれを容易にしている。

 いまのところ聞かないが、今後そういう者が必ず出てくることを今から指摘しておきたい。

 ※私の俳句(秋)
    秋風や果報もあれば憂きことも

優良物件(土地)は市場に出ない

2017-09-09 00:55:17 | 経済

(全国チェーンの不動産屋。LIFULL HOME'SのHPより引用)。

 土地の優良物件とは、南道路、正方形に近いものを言う。角地なら申し分ない。しかしながら、そのような優良物件は万に一つもない。もし、そのような物件があれば、市場に出る前にコネがある人に売られてしまう。

 南道路でも南側の間口が狭く、南北に細長い土地だったりする。そういう物件なら市場に存在する。

 住居にするなら南側の道路は幹線であってはいけない。車の音がうるさいからだ。暴走族が通るかもしれない。また、店舗が開けるような幹線道路だと地価が高い。

 ここまで来て考えてしまう。そもそも土地とは個人の所有になじむのだろうか?空間や川や海のように、おおやけのものではないのか? 少なくとも石器時代はそうだった。人々はどこの土地にでも住めたし移動することもできた。土地を「所有」するという考え方は、紀元前の古代ローマ帝国時代以来、いやそれより前の農耕文明による定住化時代から出現したようだ。

 個人レベルなら、隣家との境界線争いをしている人を複数知っている。国家レベルでも尖閣諸島や北方領土問題がある。

 土地の個人所有を認めないと共産主義的だと言われそうである。だが、共産主義国家でさえも領土拡張の野心がある。

 自由主義である以上、土地の個人所有を認めなくてはならないのだろうか?個人所有とは欲望と表裏である。強欲な人ほど所有したがる。

 人間とはイヤなものだなぁ、と慨嘆するしかないのだろうか?

 ※私の俳句(秋)
    瀬の音に消されさうなる虫の声




庶民にとって不動産はいつまでも「高嶺の花」

2017-09-08 02:26:33 | 経済
trickle down (したたり落ちる)論といったか名称はうろ覚えだが、シャンペンタワーのように上のグラスが満杯になれば自動的に下のグラスにシャンペンが落ちてきて、そのようにして皆が豊かになるという、お金の流れを説いた論がある。

 だから最初は上のほうが金満になるけれども、そのお金はやがて下のほうにも回ってくる。そういう次第だから最初のうちの格差は辛抱してくれというわけだ。

 話は跳ぶようだが、私は若いころから自分の土地家屋をもちたいと思っていた。庭つき一戸建ては庶民の夢である。だが現在の給料ではまだ無理で、来年こそはと考えた。ところが来年になって給料が上がると土地の価格も上がって、また手が届かないところへ逃げてしまうのだ。

 ようやく気づいたのだが、経済構造がシャンペンタワーなら当然である。最上位の金満家はお金がたまると、下に落とす前にまず蓄財する。すなわち宝石骨董不動産などに替える。当然それらの価格は上昇する。だから宝石骨董不動産は、あまったお金が下のグラスに落ちてくるころには下のグラスにはすでに手の届かない価格になっている。

 こうして庶民には、いつになっても宝石骨董不動産は高嶺の花なのである。ところがバブル崩壊時には様子が違った。これらの財産の価格は急落した。私はその時に今の自宅を買った。買ってからも値下がりは続いた。しかし地方都市の不動産は東京の10分の1の価格だったから苦にはならなかった。

 私が今住んでいるところは、とうじは区画整理中だった。周りは農家ばかりで同じ苗字の人が多かった。入居したその年に「組長」を任命された。よそ者の私は、むかしからの人たちとうまくやっていこうと組長の仕事を頑張った。その仕事の中に肥料の斡旋があった。畑違いの仕事だったが文句を言わずに励行した。


(わが町の風景。筆者撮影)。

 写真の手前左が拙宅(生け垣が少し写っている)。車が見えるちょっと先が左右に走る幹線道路で、以前はその道路までの道は廃屋で塞がれていた。区画整理が進むと廃屋は撤去され写真のような一本道になった。その上、肥料の斡旋もなくなった。

 拙宅から東海道新幹線の豊橋駅まで車で10分余。だから新幹線を利用すれば羽田に2時間あまり。中部国際空港にも2時間半あまり。海外へ行くのに日本の大都市で一泊する必要がない。

 拙宅の以前の所有者は、バブル崩壊による投資事業の失敗で先祖伝来の土地を手放さざるをえなかった。その人の物置の撤去の遅れを許したり、資材を置かせてくれとの願いを私は受け容れた。

 そのためかどうか、もとの持ち主とは未だに薄い付き合いがある。まったく「情けは人のためならず」を実感した。最近この町には邸宅が建ち始めた。この地域は豊橋でも有数の住宅地になりつつある。

 ※私の俳句(秋)
    屋外は闇を満たせる虫しぐれ
    

日本人が「はい」と返事をしなくなった

2017-09-07 17:45:17 | 社会

(日の丸掲揚風景。(株)大清工務店のHPより引用)。

 山本夏彦翁は言った。「国民の祝日には官公庁は日の丸を掲げる。むかしは一般の家も掲げた。いまは掲げない。あえて掲げると主義主張があるように見られてしまう(大意)」。かつて私の祖父は日の丸を掲げていた。私は、そもそも日の丸をもっていない。

 周囲に合わせるのは人の常である。他と違ったことをやりたがらない。女子高生の多くがマスクをしているのに、自分だけマスクをしないと恥かしいから、ある女子高では全員がマスクをするようになった。(「女子高生にだてマスクが流行」2014-04-16 参照)。

 他と合わせようとする。人がそうしてしまうのは、集団心理学では「斉一性の力が働いている」と考える。

 小学校のときから、返事ははっきりとと教わってきた。いま「はい」とはっきり返事をする人が少ない。病院の待合室で呼ばれても、黙ってヌッと立つだけである。就職試験で呼ばれても、学生はヌッと立つだけなのだろうか?

 呼ばれたら「はい!」とはっきり言って立とうではないか。周りの人が返事をしなくても・・。

 ※私の俳句(秋)
    虫の声やんで日の出の気配なる

「主体」「自我」「自己」のことなど

2017-09-07 00:09:38 | 学術
   
   (第一次視覚野。ウィキペディアより引用)。

 網膜に映った像は、脳内の複雑な過程を経て後頭葉の視覚野にマッピングされる。そのため後頭葉に損傷があると像が正しく見えない。

 それでは後頭葉に結ばれた像を見ているのは誰か?と問うたのは、確か数学者の小平邦彦である。

 この「熱い」「痛い」「おいしい」etc.・・と感じる主体を、心理学では「自我」という。哲学的な厳密さを求める立場の人たちは「自己」と呼ぶ。「自己」は「他者」の存在を前提とした概念である。

 私の精神医学の恩師、木村敏先生は、統合失調症の基本障害(すべての症状がそこから出てくる根本)を「自己の自己性の障害」と考えている(と私は思う)。先生は、自己と他者がそこから分離して出てくる「場所」に注目し、そこを「間」(あいだ)と名づけた。

 西田幾多郎の流れを汲むこうした思想は西洋にはなく、最近の先生は日本よりむしろフランスで人気がある。

 ※私の俳句(秋)
    敬老会らし半吊りの秋すだれ

商売人らしからぬ商売人

2017-09-06 04:46:05 | 生活
 夫婦ふたりで営業している天ぷら屋がある。親父さんはなかなかの腕前で、おいしい。だが料理を運ぶ奥さんがいけない。にこりともしないのだ。怒っているふうでもないのだが、とにかく笑顔をみたことがない。この天ぷら屋は随分、損をしていると思う。5回行きたくても3回で「やめとこう」となってしまう。

 近くにタバコ専門店がある。その辺のタバコ屋とは全然違って喫煙関係の品が葉巻からパイプから喫煙道具までタバコ一色である。嫌煙運動が広がっている昨今、頑固な愛煙家は最終的にここに頼らざるをえないだろう。

 そこの50絡みの親父も、にこりともしない。迷惑そうに客を迎える。かつて愛煙家だった私は、いつもタバコのカートン買いをしていたのだが、それでも愛想はなかった。だから一見さんなんて洟もひっかけないという感じ。


(電車。「足成」よりサヨ氏撮影)。

 幼いころノドから手が出るほど欲しかったが得られなかったオモチャにNゲージの鉄道模型がある。駅からちょっと離れたところにNゲージ専門店があり、大きなジオラマが置いてある。

 孫が小学校半ばになったので、いつまでもプラレールではなかろうと買ってやることにした。「基本セットというようなのがありますか?」と私。親父は親切に教えてくれた。そこへ鉄道に詳しそうな青年が来た。(クハ67がどうたらこうたらと)こちらには分からないような用語で話し始めた。それに対する親父の反応の冷たいことといったらなかった。

 知ったかぶりが許せないのだろう。親父は全国の実際の鉄道に詳しい。青年が何か言っても目も合わせずその上をのことを言って、聞いているこちらがドギマギしてしまった。せっかくお得意さんになるかもしれないのに・・。

 みんな商売人じゃないなぁ。医者の私だってもっと笑顔だぞ。患者さんがネットでちょっと調べただけの知識をひけらかすのにはムカッともするが、顔にはださない。弱い立場の人をやりこめるわけにはいかない。

 天ぷら屋もタバコ屋もNゲージ屋も真正の商売人ではないようだ。接客が医者に負けるようではマズいのではないか?へつらわなくてもよいが、商売人でなくても感じの良い人はいくらでもいるのだから、見習ったらどうか?

 ※私の俳句(秋)
    いちじくの殊に熟れたる厠裏

俳文・幼き日の月

2017-09-05 02:14:51 | 俳句
 太陽はまぶしくて凝視できないが、月は見ることができる。幼少時どこに行くにも帰るにも目黒川沿いを通った。東京の道路はまだ未舗装で高いビルもなかった。家々はほとんどが木造だった。

    満月の着いてくるなり川沿ひに

 歩を止めると月も止まった。「どうして?」と私。「月はすごく遠くにあるからだよ」と父。私には意味がわからなかった。

 月の出は殊に不思議だった。登りたての月は異様に大きく、まただいだい色を帯びていた。月にせよ太陽にせよ、地平線に近いとなぜ巨大に見えるのか、ほんとうのところはちゃんと分かっていないらしい。

    汚れたる巨漢のごとし月のぼる

 父は「月でウサギが餅をついているように見えるだろう?」。私はよく見たが、そのようには見えなかった。

    満月に蟹を見るとぞ異国では

 節分には家々から「鬼は外・・」の声が聞こえた。今はビル街となって往時の声はまったくない。父は「あそこに鬼がいる」と言ったが、私にはどうしても見えなかった。豆を撒いた。もったいないから後で食べるために室内に撒いた。

    節分や大小の声家々に    

 東京の私の住むところでは月見の風習はなかった。戦後10年、まだそれだけのゆとりがなかったのかもしれない。絵本で見るススキと饅頭の月見にあこがれた。とくに饅頭に・・。

    月めでるための芒を切りにゆく

 カレーライスがごちそうだっだとは、いつぞや書いた。不安が多い幼少期でもカレーで一息ついた。(生まれてから初めての記憶は不安に彩られている、とは恩師、中井久夫氏の言葉)。

    貧しくもカレーを囲む良夜かな

 近所の子らとよく遊んだ。当時は魚屋のケンちゃんがガキ大将で、その公正な采配はのちのちまで勉強になった。彼は子どもたちの尊敬を集めた。

    遊びほうけしその夜の無月かな

    雨降るや名月のぞむべくもなく

 それから10余年後、アポロ計画の成功によって月の神秘性は激減した。

    
    (「足成」より引用。NGe氏撮影)。

「風の谷のナウシカ」のすばらしさ

2017-09-04 00:23:33 | 芸能


 上の歌手、一節太郎は、昭和38年に「浪曲子守歌」をヒットさせてから、この曲だけで生活してきた。そのような歌手は少なくない。

 アニメ界の宮崎駿にも私は同じ匂いを感じる。というのは、宮崎作品ですばらしいのは「風の谷のナウシカ」だけだと思うからだ。つづけて見た「天空の城ラピュタ」では「あれ?」と思った。面白くないのだ。

 さらに「魔女の宅急便」「紅の豚」「となりのトトロ」・・とテレビで見るうちに、毎回「今度こそは」という期待が裏切られた。「ナウシカ」が大変面白かったがゆえに「ナウシカは本当に同じ人が作ったのだろうか?」とさえ思うようになった。

 もし全部、宮崎駿が作ったのなら、一節太郎と似ているじゃないかとも考えた。宮崎はいまはもう引退してレジェンドとなってしまったから、もう名声に傷がつくこともないだろうが・・。

 「千と千尋の神隠し」は観客動員数が大量で、なにかの賞を受けたらしいけれども「ナウシカ」に比べれば「千と千尋・・」もさほどのことはなかった。

 (「趣味は説明できない」という英国の警句をご存じだろう。上記はあくまでも趣味の問題だから反論は受け付けません。)

 ※私の俳句(秋)
    虫鳴くは蜜柑の鉢の縁(ふち)あたり

「すき間産業」としてのコンドル、ヒゲワシ

2017-09-03 08:33:35 | 生物


(ヒゲワシ。ウィキペディアより引用)。

 世界には「すき間産業」のような生物がいる。大きいのだとコンドルやヒゲワシがそれである。

 コンドルは死んだ牛や鹿などの腐肉を食べてきれいにする。大型動物はこれによって骨だけになる。もう一種類、ヒゲワシは肉は食べない珍しい猛禽である。ヒゲワシはなんと骨しか食べない。

 骨を上空から落とすなどして食べやすい大きさにする。それを飲み込んで強力な胃酸で消化する。大型動物の遺骸は、こうして跡形もなくなる。そのまま土に帰るのではなく、途中の過程でコンドルやヒゲワシを養うのだから、まことに合理的である。

 火葬に使う木が少なく、土葬にするにも寒冷で穴を掘りにくいチベットの鳥葬はよく考えられている。(鳥葬にかかわれるのは、人望のある青年だけだとか。「葬らいの方法」2007-04-26 参照)。

 ※私の俳句(秋)
    耳鳴りのごとくケラ鳴く田舎宿