とはいえ言うほど読書量が多いわけではないのですが、
リーチと同時に河井寛次郎のエッセイ2冊を読了しました。
そして火曜日のひなまつりに、ひなをまつる気持ちゼロの日本民藝館へ
吶喊(突撃、のかっこういい言い方)いたしました。
東大の近くにあるんですね。
日本民藝館は、東大の西門を出てまっすぐとろとろと歩いていると、
突如角に出現する不思議な建物です。
旧柳宗悦邸と向かい合って立っているこの建物は、
昭和のコンクリートと瓦屋根、木造建築がうまくかみあった、
一見質素ですが細かいところに気配りのあるあたたかい建築物です。
さんざん書いた「アーツ・アンド・クラフツ展」に今展示物を
貸し出しているせいか、現在は大津絵という、江戸時代に東海道大津宿の
名物となった絵をメインにした展示を行っています。
大津絵の画題は、ある程度決まっているようで、仏画のほかに雷神さまや、
藤娘が有名です。個人的には顔が隠れているところがまた色っぽい女虚無僧も
いちおしなのですが、無名の画家達の腕は、シリアス・写実を目指したものでは
腕のほどがちょっとアレかなあと思ってしまいますが、
逆にへんなものほど完成度が高い、鬼とかなまずとか、
綺麗に書こうと思わないものは筆致がのびのびしていて見る人をまったく緊張させません。
こうした人を緊張させないところが、日本民藝館のつぼだと思います。
普段着を買うときと、ブランド物を買うときを考えてみると、緊張、という
意味がお分かりいただけるかと思います。
ブランド物って、使うにしろ飾るにしろ質草にしろ、覚悟がいりますよね。
ところが西友とかのセールで、一品900円ほどで売られているものは
わりとのびのび割り切って使うと思います。
こういうものを主に誰が買うのか、というと、普通の人の方が圧倒的ですよね。
日本民藝館が保存しようとがんばったのは、普通の人に使われていた
普通のものだったんです。
リーチや寛次郎に触れた後で考えると、やはり、
「人が使うものを作る、無名の匠の芸のすばらしさ」を伝えることが
そもそもの民藝運動で柳宗悦たちが目指した柱の一つだと思うのです。
だから、日本民藝館に展示してあるものは、
皆「使ってくださいね」という謙虚さを持っています。建物から中身まで全て。
(あ、ミュージアムショップは省きます。はがき以外高くて)
アイヌの首飾りから李朝の巨大な壺まで、
普通のひとたちに使われていたという誇りがあります。
絵ですらも、床の間や壁にかけられて、普通の人の吐息の下にいたんだなあと
ほっこりさせられるのです。
絵は美術品じゃない、飾りと言う道具なのだ!
なんて叫んでみたりします(実際は道具全部に友人とボケツッコミしてました)
ですが、そうしたことを、表現とか芸術とかむつかしいこと抜きで、
身近なものを普段着のまま作り、使ってゆくことは、
ほんとうに難しくなってしまったと思います。
過去のものを今と比べてどうこうするわけでは全くありませんが、
心根のたいせつな部分で、こうしたものを振り返り、感じる心はせめて
後世に伝えてゆくことが今は大切なのかなと思います。
なんだか説教臭くなりました。
あと私は、日本民藝館と東京都美術館のまわしものではありません。
念のため。
リーチと寛次郎の本に関してはまた後日書きたいとおもいます。
リーチと同時に河井寛次郎のエッセイ2冊を読了しました。
そして火曜日のひなまつりに、ひなをまつる気持ちゼロの日本民藝館へ
吶喊(突撃、のかっこういい言い方)いたしました。
東大の近くにあるんですね。
日本民藝館は、東大の西門を出てまっすぐとろとろと歩いていると、
突如角に出現する不思議な建物です。
旧柳宗悦邸と向かい合って立っているこの建物は、
昭和のコンクリートと瓦屋根、木造建築がうまくかみあった、
一見質素ですが細かいところに気配りのあるあたたかい建築物です。
さんざん書いた「アーツ・アンド・クラフツ展」に今展示物を
貸し出しているせいか、現在は大津絵という、江戸時代に東海道大津宿の
名物となった絵をメインにした展示を行っています。
大津絵の画題は、ある程度決まっているようで、仏画のほかに雷神さまや、
藤娘が有名です。個人的には顔が隠れているところがまた色っぽい女虚無僧も
いちおしなのですが、無名の画家達の腕は、シリアス・写実を目指したものでは
腕のほどがちょっとアレかなあと思ってしまいますが、
逆にへんなものほど完成度が高い、鬼とかなまずとか、
綺麗に書こうと思わないものは筆致がのびのびしていて見る人をまったく緊張させません。
こうした人を緊張させないところが、日本民藝館のつぼだと思います。
普段着を買うときと、ブランド物を買うときを考えてみると、緊張、という
意味がお分かりいただけるかと思います。
ブランド物って、使うにしろ飾るにしろ質草にしろ、覚悟がいりますよね。
ところが西友とかのセールで、一品900円ほどで売られているものは
わりとのびのび割り切って使うと思います。
こういうものを主に誰が買うのか、というと、普通の人の方が圧倒的ですよね。
日本民藝館が保存しようとがんばったのは、普通の人に使われていた
普通のものだったんです。
リーチや寛次郎に触れた後で考えると、やはり、
「人が使うものを作る、無名の匠の芸のすばらしさ」を伝えることが
そもそもの民藝運動で柳宗悦たちが目指した柱の一つだと思うのです。
だから、日本民藝館に展示してあるものは、
皆「使ってくださいね」という謙虚さを持っています。建物から中身まで全て。
(あ、ミュージアムショップは省きます。はがき以外高くて)
アイヌの首飾りから李朝の巨大な壺まで、
普通のひとたちに使われていたという誇りがあります。
絵ですらも、床の間や壁にかけられて、普通の人の吐息の下にいたんだなあと
ほっこりさせられるのです。
絵は美術品じゃない、飾りと言う道具なのだ!
なんて叫んでみたりします(実際は道具全部に友人とボケツッコミしてました)
ですが、そうしたことを、表現とか芸術とかむつかしいこと抜きで、
身近なものを普段着のまま作り、使ってゆくことは、
ほんとうに難しくなってしまったと思います。
過去のものを今と比べてどうこうするわけでは全くありませんが、
心根のたいせつな部分で、こうしたものを振り返り、感じる心はせめて
後世に伝えてゆくことが今は大切なのかなと思います。
なんだか説教臭くなりました。
あと私は、日本民藝館と東京都美術館のまわしものではありません。
念のため。
リーチと寛次郎の本に関してはまた後日書きたいとおもいます。