PCに向かうとかきたいことが全部ふっとぶので困っています。
とりあえず、ヴィルヘルム・ハンマースホイの図録が欲しいです。
売り切れでした。
目が肥えている人ばっかりでしょんぼりです。
2007年6月の文章
:「メタボラ」 桐野夏生
桐野夏生の顔を写真でみた。西川史子みたいにきれいできつくて、深い知性のある目をしているひとだった。もっと若いかなと思ったら五十を超えている。はじめは男かと思ったくらい、淡々とした文体のどこを探しても、極端な女くささはなくさばさばとした読み口だ。狭隘な関係をねちねちと追うしつこさよりも、会話の微妙な応酬と、ポイントを絞った状況説明でつづられる瞬間を、丁寧に描くことでくっきりと表現した関係性はむしろ、普段の生活に限りなく近い。よく練りこまれたこしあんみたいに、なめらかな舌ざわりだけど濃い味だ。
ふたりの主人公、昭光とギンジ。若さの弱さを微妙に持ったふたりのそばには、誰かしら人がいて本当の孤独にはなかなかならない。部屋でつぶやく独白も、常にそばには誰かが眠っていることがほのめかされている。話の合間合間に移動する場面では、きっと彼らも一人寝をしているのだろうけど。一人になる場面がほとんどなくって、独白の場面でも強くだれかれと結びついているシーンが語られる。よく見ればからめとられて動けなくなりそうなほど、登場する人たちは彼らとむすびついてゆく。ヒモと化して女の家に転がり込んだかと思えば、ゲストハウスの人間に雇われたりとめまぐるしく人は登場する。
沖縄という舞台の、言葉がもつイメージとしての暑さ、熱帯特有のまとわりつくような空気が関係をさらに深め、ふたりが関係にはめられてゆくさまは、川の流れのように、上から下へとさも当然に流れてゆく。物語を目で追う分は、ただ出会って、別れて、と、とても自然に続く。人のつながりは途絶えない。ゆるやかで絶対な流れに安心して身を任せば、さわやかな海へと広がり満足して本を閉じた。
とりあえず、ヴィルヘルム・ハンマースホイの図録が欲しいです。
売り切れでした。
目が肥えている人ばっかりでしょんぼりです。
2007年6月の文章
:「メタボラ」 桐野夏生
桐野夏生の顔を写真でみた。西川史子みたいにきれいできつくて、深い知性のある目をしているひとだった。もっと若いかなと思ったら五十を超えている。はじめは男かと思ったくらい、淡々とした文体のどこを探しても、極端な女くささはなくさばさばとした読み口だ。狭隘な関係をねちねちと追うしつこさよりも、会話の微妙な応酬と、ポイントを絞った状況説明でつづられる瞬間を、丁寧に描くことでくっきりと表現した関係性はむしろ、普段の生活に限りなく近い。よく練りこまれたこしあんみたいに、なめらかな舌ざわりだけど濃い味だ。
ふたりの主人公、昭光とギンジ。若さの弱さを微妙に持ったふたりのそばには、誰かしら人がいて本当の孤独にはなかなかならない。部屋でつぶやく独白も、常にそばには誰かが眠っていることがほのめかされている。話の合間合間に移動する場面では、きっと彼らも一人寝をしているのだろうけど。一人になる場面がほとんどなくって、独白の場面でも強くだれかれと結びついているシーンが語られる。よく見ればからめとられて動けなくなりそうなほど、登場する人たちは彼らとむすびついてゆく。ヒモと化して女の家に転がり込んだかと思えば、ゲストハウスの人間に雇われたりとめまぐるしく人は登場する。
沖縄という舞台の、言葉がもつイメージとしての暑さ、熱帯特有のまとわりつくような空気が関係をさらに深め、ふたりが関係にはめられてゆくさまは、川の流れのように、上から下へとさも当然に流れてゆく。物語を目で追う分は、ただ出会って、別れて、と、とても自然に続く。人のつながりは途絶えない。ゆるやかで絶対な流れに安心して身を任せば、さわやかな海へと広がり満足して本を閉じた。