あっ、タイトルでひかないでください!そんなマンガじゃありません!
(どういうマンガだと勘違い)
:「愛蔵版 ホモホモ7」 さくら出版 みなもと太郎作 1999年
この人の作品では、『風雲児たち』が有名でしょうか。なにしろもう20年以上も
連載を続けている漫画です。
関ヶ原の戦いから始まり、明治維新で終る予定の本作は現在『コミック乱』
(リイド社)にて連載されています。最近は結構ちょんまげが減ってきた
気もしないでもないような。
『冗談新撰組』これは三谷幸喜版「新撰組」をごらんになっていた方は
どこかで耳にしたことがあるかもしれません。
コメディータッチの黒鉄ヒロシみたいな漫画家です。歴史漫画家の印象だけを
見れば、の話ですが。
昭和45年初出の『ホモホモ7』は、いっぽうで歴史のレの字すら出てきません。
女だらけのレスレスブロックと、男の威信をかけて戦う
ホモホモブロックの情報員、セブンが活躍するお話と、まとめられれば
いいのですが。
「それは、サインペンで描き殴ってあった。
実にいい加減な3等清のキャラクターと、リアルな8頭身のお姉ちゃんとが、
同じ画面に収まっていた。」(二巻 いしかわじゅんの寄稿より)
いしかわじゅんだけでなく衝撃を受ける作画です。
第一話「ホモホモ7 只今参上!」の表紙、足先がはみ出した小粋な構成の
8頭身のお姉ちゃんを左半分に(お尻がちょっと大きめで、すこし線を下めに
やわらかそうな描写はムネよりも気合が入っています)、右下の倒れる男の
手、劇画調の集中線の奥に、ホモホモ7らしき帽子を被った男の影があります。
お姉ちゃんと手よりも圧倒的に単純化された線の影に不安を覚えながら
ページをめくると、夜の街と銃声の劇画が始まります。
お、大丈夫かな、と思いながら数ページ。
ホモホモブロックの構成員がやられてしまいました。もっと腕利きの
彼を載せた車が基地へとやってきます。
集中線とブレーキのオノマトペを下に、下りてきた男、ホモホモ7。
刑事コロンボばりのくたびれたコートとガニまた、長すぎるモミアゲとネクタイが
チャームポイントのいい男!
仮にニコニコ動画でこの画像を上げたら、この時点で
「作画崩壊」のコメントが大量に流されるかと思います。
最近の魔夜峰央の作品でよく使われるような、四コマ体型とシリアスの
使い分けに手法はよく似ていると思います。ただ、魔夜峰央がコマ割自体を
一つの作品の中で四コマとシリアスにわけ、キャラクターの作画の同一化を
護っているのに対し、みなもと太郎はそんなことしません。
先のいしかわじゅんの言葉通り、劇画と3頭身が同じコマに容赦なく登場します。
でも、魔夜峰央も『パタリロ!』で、
3頭身のキャラクターと8頭身のキャラクターを同じコマでわやわやさせて
いるのに何故ホモホモ7がおかしいのか、と言うと、
『パタリロ!』の場合は、初期の作品を追うと分かりやすいのですが、
もともと同一化させていたキャラクターを、話が進むにつれ整理した結果
としての混在がなされているのに対して、
みなもと太郎は初めから混在させており、画風の統一をする気がない、
というところが、いしかわじゅんも指摘していますが斬新な挑戦だったと
いえると思います。
何よりもこれを、「少年マガジン」という大舞台で行ったのが、
みなもと太郎の面白さをのぞかせる一幕でしょう。
斬新な作風が人気に直結しない不合理なものである限りは、排除される、
そういう運命をこの作品も免れず、単行本二冊程度の分量で連載は終りました。
連載は終ったものの、こうした実験作を打ち出す根性、そして
『風雲児たち』まで続く、みなもと太郎の節回しの発端を
垣間見ることの出来る一作です。
(どういうマンガだと勘違い)
:「愛蔵版 ホモホモ7」 さくら出版 みなもと太郎作 1999年
この人の作品では、『風雲児たち』が有名でしょうか。なにしろもう20年以上も
連載を続けている漫画です。
関ヶ原の戦いから始まり、明治維新で終る予定の本作は現在『コミック乱』
(リイド社)にて連載されています。最近は結構ちょんまげが減ってきた
気もしないでもないような。
『冗談新撰組』これは三谷幸喜版「新撰組」をごらんになっていた方は
どこかで耳にしたことがあるかもしれません。
コメディータッチの黒鉄ヒロシみたいな漫画家です。歴史漫画家の印象だけを
見れば、の話ですが。
昭和45年初出の『ホモホモ7』は、いっぽうで歴史のレの字すら出てきません。
女だらけのレスレスブロックと、男の威信をかけて戦う
ホモホモブロックの情報員、セブンが活躍するお話と、まとめられれば
いいのですが。
「それは、サインペンで描き殴ってあった。
実にいい加減な3等清のキャラクターと、リアルな8頭身のお姉ちゃんとが、
同じ画面に収まっていた。」(二巻 いしかわじゅんの寄稿より)
いしかわじゅんだけでなく衝撃を受ける作画です。
第一話「ホモホモ7 只今参上!」の表紙、足先がはみ出した小粋な構成の
8頭身のお姉ちゃんを左半分に(お尻がちょっと大きめで、すこし線を下めに
やわらかそうな描写はムネよりも気合が入っています)、右下の倒れる男の
手、劇画調の集中線の奥に、ホモホモ7らしき帽子を被った男の影があります。
お姉ちゃんと手よりも圧倒的に単純化された線の影に不安を覚えながら
ページをめくると、夜の街と銃声の劇画が始まります。
お、大丈夫かな、と思いながら数ページ。
ホモホモブロックの構成員がやられてしまいました。もっと腕利きの
彼を載せた車が基地へとやってきます。
集中線とブレーキのオノマトペを下に、下りてきた男、ホモホモ7。
刑事コロンボばりのくたびれたコートとガニまた、長すぎるモミアゲとネクタイが
チャームポイントのいい男!
仮にニコニコ動画でこの画像を上げたら、この時点で
「作画崩壊」のコメントが大量に流されるかと思います。
最近の魔夜峰央の作品でよく使われるような、四コマ体型とシリアスの
使い分けに手法はよく似ていると思います。ただ、魔夜峰央がコマ割自体を
一つの作品の中で四コマとシリアスにわけ、キャラクターの作画の同一化を
護っているのに対し、みなもと太郎はそんなことしません。
先のいしかわじゅんの言葉通り、劇画と3頭身が同じコマに容赦なく登場します。
でも、魔夜峰央も『パタリロ!』で、
3頭身のキャラクターと8頭身のキャラクターを同じコマでわやわやさせて
いるのに何故ホモホモ7がおかしいのか、と言うと、
『パタリロ!』の場合は、初期の作品を追うと分かりやすいのですが、
もともと同一化させていたキャラクターを、話が進むにつれ整理した結果
としての混在がなされているのに対して、
みなもと太郎は初めから混在させており、画風の統一をする気がない、
というところが、いしかわじゅんも指摘していますが斬新な挑戦だったと
いえると思います。
何よりもこれを、「少年マガジン」という大舞台で行ったのが、
みなもと太郎の面白さをのぞかせる一幕でしょう。
斬新な作風が人気に直結しない不合理なものである限りは、排除される、
そういう運命をこの作品も免れず、単行本二冊程度の分量で連載は終りました。
連載は終ったものの、こうした実験作を打ち出す根性、そして
『風雲児たち』まで続く、みなもと太郎の節回しの発端を
垣間見ることの出来る一作です。