口調がちがいます。
でも、コラムではありません。
書ききれなかったことを先に。
T・カポーティと言えば、村上春樹が『ティファニーで朝食を』を
訳しています。ちらりと見ましたが村上春樹はアメリカの感性が上手いので
やっぱりしっくり合うのだと思います。
けどこの作品ばかりは、河野一郎のウェットな訳のほうが
合うのじゃないかと思います。
:『遠い声 遠い部屋』 新潮文庫 トルーマン・カポーティ作 河野一郎訳
カポーティが本作を書き終えたのは、二十二歳のとき、
筆をとったのは、二十歳歳のときだという。
二十歳を越して、初めて髪を巻き上げてパーティに出た私は、
巻き上げた髪のもとでこれを読み終えた。
そして巻き上げた髪をくしけずって元にもどしながらこれを書いている。
主人公、十三歳の少年ジョエル・ノックスが、離れていた
父親のもとへ戻り、そこで過ごした短い時間のうちに、
そこにあるもの全てがゆれうごき、変化する様子を
ジョエルの歩調で描いた『遠い声 遠い部屋』は、
きわめて作者の感情があふれる小説だ。
インスピレーションでも、論理でもなく、
ただカポーティの感情が、小説を組み立てる言葉のつむじから
つまさきまで裏打ちしている。
小説のストーリーが感情的、ということではなく、
あくまでそれをいろどる言葉の使い方に、
このときのカポーティの感情があふれているのだ。
『やがて夕闇が空をぼかしはじめると、ちょうどやわらかな
鐘の音が三階を知らせてでもいるように、愁いに沈んだしじまが
すべてを静寂一色に塗りこめ、にぎやかな声も夕べを急ぐ鳥のように
静まり返ってゆく。』―p25
十三歳のジョエルを取り巻くもの全ての描写が、
こうした丁寧な比ゆと、河野一郎が選ぶ古めかしい言葉で
描かれている。
その描き方はとびぬけて美しくありながら、誰よりも冷静に
言葉を見つめ、選び、話とともに組み立てた構成物であるところが
ほんとうにすごい。
そしてここで語られている一連の変化すべて、最後に……る
ジョエルの目線の先にあるものに集約される一瞬(文章なのに、
確かな一瞬があるのだ)に、
おとなになる、という瞬間へのカポーティの思い、疑問、
煩悶が取り残されている。
だから、たいがいの読み手は、十三歳のジョエルよりも十やそれ以上
もう年が離れていると思うのに、この作品がそうした人たちを
ひきつけるのは、ジョエルの変化に自分を回顧するのではなくて、
もっと近場、二十二歳のカポーティ自身のゆらぎが(特定は出来ない
けれど)ジョエルに託されているからこそなのだと思う。
でも、コラムではありません。
書ききれなかったことを先に。
T・カポーティと言えば、村上春樹が『ティファニーで朝食を』を
訳しています。ちらりと見ましたが村上春樹はアメリカの感性が上手いので
やっぱりしっくり合うのだと思います。
けどこの作品ばかりは、河野一郎のウェットな訳のほうが
合うのじゃないかと思います。
:『遠い声 遠い部屋』 新潮文庫 トルーマン・カポーティ作 河野一郎訳
カポーティが本作を書き終えたのは、二十二歳のとき、
筆をとったのは、二十歳歳のときだという。
二十歳を越して、初めて髪を巻き上げてパーティに出た私は、
巻き上げた髪のもとでこれを読み終えた。
そして巻き上げた髪をくしけずって元にもどしながらこれを書いている。
主人公、十三歳の少年ジョエル・ノックスが、離れていた
父親のもとへ戻り、そこで過ごした短い時間のうちに、
そこにあるもの全てがゆれうごき、変化する様子を
ジョエルの歩調で描いた『遠い声 遠い部屋』は、
きわめて作者の感情があふれる小説だ。
インスピレーションでも、論理でもなく、
ただカポーティの感情が、小説を組み立てる言葉のつむじから
つまさきまで裏打ちしている。
小説のストーリーが感情的、ということではなく、
あくまでそれをいろどる言葉の使い方に、
このときのカポーティの感情があふれているのだ。
『やがて夕闇が空をぼかしはじめると、ちょうどやわらかな
鐘の音が三階を知らせてでもいるように、愁いに沈んだしじまが
すべてを静寂一色に塗りこめ、にぎやかな声も夕べを急ぐ鳥のように
静まり返ってゆく。』―p25
十三歳のジョエルを取り巻くもの全ての描写が、
こうした丁寧な比ゆと、河野一郎が選ぶ古めかしい言葉で
描かれている。
その描き方はとびぬけて美しくありながら、誰よりも冷静に
言葉を見つめ、選び、話とともに組み立てた構成物であるところが
ほんとうにすごい。
そしてここで語られている一連の変化すべて、最後に……る
ジョエルの目線の先にあるものに集約される一瞬(文章なのに、
確かな一瞬があるのだ)に、
おとなになる、という瞬間へのカポーティの思い、疑問、
煩悶が取り残されている。
だから、たいがいの読み手は、十三歳のジョエルよりも十やそれ以上
もう年が離れていると思うのに、この作品がそうした人たちを
ひきつけるのは、ジョエルの変化に自分を回顧するのではなくて、
もっと近場、二十二歳のカポーティ自身のゆらぎが(特定は出来ない
けれど)ジョエルに託されているからこそなのだと思う。