えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

過コラム:松浦理恵子「犬身」

2009年03月15日 | コラム
昔書いたコラムです。
女性作家つながりで出しました。

書き終えたのは2007年の12月となっています。
:『犬身(ケンシン)』 松浦理恵子著/朝日新聞社 2007年

「わたし、あなたのしっぽよ」(NHKみんなのうた『しっぽのきもち』より)

 ふりふりとわたしの頭のてっぺんでしっぽが揺れている。前髪をはじめ全部の髪をきゅっとひとつにまとめた髪束は、尾骶骨のないただの「ポニーテール」。でも『犬身』の主人公八束房恵はヒトでありながら犬であることを望んだ結果、毛だけのモドキしっぽなんかではない心にあわせてぶん回せる尻尾を、犬の体ごと手に入れることとなった。

 松浦理恵子という作家は、二十年近く前に文学界新人賞を受賞したのに現在まで刊行されている作品はやっと十冊と、寡作の作家だ。小説は六冊、長編は十四年ぶりらしい。その割に文体は昨今の女性作家に共通する口当たりのいい読み口なので違和感を見せない、なかなかの腕前だ。
 
 そんなさらさらした筆致で、大好きな玉石梓に犬としての名前「フサ」を与えられた八束房恵は、梓の犬として過ごす姿が描かれている。けれど、せっかく新しい器官を手に入れたのにフサはあまりしっぽを振らない。感情はことばと口を中心にした表情を中心に構成され、犬特有の無意識のしっぽの動きは文中ほとんど無視されている。『犬身』なのに犬のからだには付加的にしか触れず、鳥の皮を生で口につっこむようなねちねちした食感を押し付けるヒトの描写に力点が置かれているのだ。小説中八束房恵は「人の魂と犬の魂を半分ずつ」持っているとされているがどう転んでもフサは彼女、という代名詞にぴったりの人間で、雄犬のからだに入っているという設定をすっとばしてフサは「彼女」のまま突っ走る。その姿ははっきりと人間的だ。
 
 たぶん作者は自身、このキャラクターをどうしたいのか最後までわからなかったんじゃないだろうか。犬と人間、オスと女のはざまで迷う前に、傍観者か主観者かという物語の役割の時点でフサは宙ぶらりんだ。しっぽの振りより身の振り方を考えなければならないWeb連載、作者の焦りが犬としてのフサを失わせてしまい結果、全体続き物ながら違和感を覚えてしまう。(787文字)
コメント
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