えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

近代浪漫派文庫・28「河井寛次郎・棟方志功」読了(2)

2009年05月13日 | 読書
前回から続き、河井寛次郎パートの紹介です。
ちょっと微妙な仕上がりになってしまいました。

:河井寛次郎 「六十年前の今」(抄)

 芸術家の目と職人の指先をもつ人だ。河井寛次郎の文章は、ただひたすら読者
へ、彼が見たものそのままを想起させるために必要な言葉だけで出来ている。
没した後、昭和四十一年に刊行された「六十年前の今」は、彼がこどもの頃見た山
陰の風景を文字に落とした随筆である。
だから書き出しに『子供達は~』や『その頃の…は~』が多く目だつ。
後半につれ、原稿用紙のフォーマットを作ってるでしょう、と疑いたくなるほど
この二つの言葉はよく登場するのだ。
それでも、これは回顧録にはならない。一つ一つが完成されたスケッチだからだ。
河井の文は、まるでつばめのように鋭角に飛ぶ。

『燕は麦畑の上を飛んだ。苗代田の上を飛んだ。菜の花や豌豆の花の上を飛んだ。
庫の白壁をかすめ、雨の斜線を切り、柳の緑を縫い、河原の砂洲に無数の影を落した。』

 燕尾服の尾を持つあの黒いちいさな鳥が、風をきって飛ぶ道筋もさながら、
そのさわやかな速さまでが完全な、ことばのリズムが響いてくる。
その一瞬のスケッチから、続いて人と風物との動きが河井のゆたかな思いに
あわせてゆっくりとあらわれる。この一連をわずかに数ページに収めてしまう、
それでいてボリュームが損なわれない、河井寛次郎の豊かさは、棟方の
芳醇さとはまた違う、削いだ簡潔さの魅力でもあるだろう。(約490字)




最近よく読む本は、
語る言葉を豊潤に持つことを、意図的に学ばなくてもできた時代の人が
書く文章たちばかりです。
きっとずっと後の時代には、それがとても幸せで、すばらしいことなのだと
価値を見出せることがまず、結構な上等として扱われてしまうように
なるんじゃないでしょうか。
言葉をただたくさん持つだけじゃだめなのです。
「豊か」で「潤い」のある、やさしい言葉がすらすらと出てきて初めて、
言葉をもつ幸せを噛み締めることが出来るのではないでしょうか。

2011年からの、小学校の英語・義務化の混乱に添えて、つくづくと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする