批評ってなんだろうと考えました。
こう、もうちょっと爽快なほうが健全でいいですよね(何が)
あと日本エッセイスト協会賞、読んだことの無い人ばかり受賞していて
びっくりしました。
:ダイヤモンド社 「続 風の書評」
百目鬼 恭三郎(どうめき きょうざぶろう)著 昭和58年
--書評の書評
「風はやんだ。著者諸君、枕を高くして眠りたまえ。」
匿名の「風」氏は週刊文春の連載を、こんな言葉で終らせた。
頭の先からしっぽまで、そっくり返った文章である。かといって
じっくり読むと可愛げがじわじわしみてくるタイプの著者でもない。
博覧強記の言葉そのものだからこそ、居丈高な発言でも納得を
持たせられる論理をもった、非常にきちんとした人なのである。
百目鬼恭三郎(1926-1991)は、朝日新聞の文芸部で編集委員を務め、
1976年から1982年まで、週刊文春に「風」名義で書評を送り出した。
本書『続・風の書評』は、1980年から1982年までの連載分を収録した
本である。舌鋒鋭い文は当時の筒井康孝や佐藤愛子など、
多くの作家を敵に回し、最後には職場の朝日新聞を半ば喧嘩ごしに
退社した。その後も文筆活動を続け、『奇談の時代』で
日本エッセイストクラブ賞を受賞している。
新聞記者の水を吸ったせいか、非常に論理的な文の書き方をする人だ。
たとえば林直道の『百人一首の秘密』という本に対し、
林の語る論を分量にしてわずか10行でざっくり、
「経済学者のお遊びとうけとっておく。」
との皮肉なまとめまできっちり筋道だっているので、
言葉が痛烈でも納得させられてしまう。
どのコラムも、対象の本の内容を簡潔に冒頭でまとめてあるため、
内容を知らずとも著者の論にすんなりと入り込めるのだ。
ただ、『風の書評』に限ってはあくまで批評であり、読み物ではない。
いうなれば間違い探しと持論の展開に終始しており、客観的に見えて
実は自己主張が激しいのだ。作家を匿名で正確に批評した上、
『岩波現代用字辞典』など人の盲点を突いた本の紹介まで続けるのは
並みの人間には出来ない。けれどそこまでだ。まとめて読み進めると、
「もう13行目だし、そろそろひけらかしが来るぞ。あ、来た」
と固定された論調が鼻につくようになる。
言葉がきついぶん、文章のマジメ一方さが痛々しい。(800字)
こう、もうちょっと爽快なほうが健全でいいですよね(何が)
あと日本エッセイスト協会賞、読んだことの無い人ばかり受賞していて
びっくりしました。
:ダイヤモンド社 「続 風の書評」
百目鬼 恭三郎(どうめき きょうざぶろう)著 昭和58年
--書評の書評
「風はやんだ。著者諸君、枕を高くして眠りたまえ。」
匿名の「風」氏は週刊文春の連載を、こんな言葉で終らせた。
頭の先からしっぽまで、そっくり返った文章である。かといって
じっくり読むと可愛げがじわじわしみてくるタイプの著者でもない。
博覧強記の言葉そのものだからこそ、居丈高な発言でも納得を
持たせられる論理をもった、非常にきちんとした人なのである。
百目鬼恭三郎(1926-1991)は、朝日新聞の文芸部で編集委員を務め、
1976年から1982年まで、週刊文春に「風」名義で書評を送り出した。
本書『続・風の書評』は、1980年から1982年までの連載分を収録した
本である。舌鋒鋭い文は当時の筒井康孝や佐藤愛子など、
多くの作家を敵に回し、最後には職場の朝日新聞を半ば喧嘩ごしに
退社した。その後も文筆活動を続け、『奇談の時代』で
日本エッセイストクラブ賞を受賞している。
新聞記者の水を吸ったせいか、非常に論理的な文の書き方をする人だ。
たとえば林直道の『百人一首の秘密』という本に対し、
林の語る論を分量にしてわずか10行でざっくり、
「経済学者のお遊びとうけとっておく。」
との皮肉なまとめまできっちり筋道だっているので、
言葉が痛烈でも納得させられてしまう。
どのコラムも、対象の本の内容を簡潔に冒頭でまとめてあるため、
内容を知らずとも著者の論にすんなりと入り込めるのだ。
ただ、『風の書評』に限ってはあくまで批評であり、読み物ではない。
いうなれば間違い探しと持論の展開に終始しており、客観的に見えて
実は自己主張が激しいのだ。作家を匿名で正確に批評した上、
『岩波現代用字辞典』など人の盲点を突いた本の紹介まで続けるのは
並みの人間には出来ない。けれどそこまでだ。まとめて読み進めると、
「もう13行目だし、そろそろひけらかしが来るぞ。あ、来た」
と固定された論調が鼻につくようになる。
言葉がきついぶん、文章のマジメ一方さが痛々しい。(800字)