(1)高校野球時代の清原選手は体形は頭ひとつ抜きん出てはいたが、細面でいかにも気の弱そうな顔付きだった。甲子園高校野球でもホームランを打ってもあまり喜怒哀楽を表に出さずに、何事もなかったかのように淡々と塁を回っていたのが印象的だった。
KKコンビとして高校野球の一時代をともに築いたもうひとりの桑田投手は、逆に小柄な体ながら意思の強そうな顔付きで負けん気を投球に込めて打者との真っ向勝負があざやかだった。
(2)その清原選手は巨人軍入団を切望していたが、当日のドラフト会議で巨人球団が指名したのは桑田投手の方で、清原選手はTV会見席でひとり涙していた。結果は清原選手は西武球団に指名されて入団した。
18才の人生の進路をドラフト会議で本人の意思とはほとんど関係なく球団の都合で決めてしまうことには賛否両論がある。
プロ野球経営に豊富な資金力を持つ人気球団が、人気、資金力に物を言わせて毎年有力、有望選手を確保してチーム力に大きな格差(discrepancy)が出来てはプロ野球の興味をそぐものとして批判もあり、チーム力均衡策として米国大リーグでも早くからドラフト制度が導入されて日本プロ野球もその後導入した。
(3)「プロ野球」に就職することが動機、目的であり、どこの球団に所属するかは二の次の問題(一般社会でも希望企業に就職したあと各セクションに企業戦略に従って配属されるのが一般的)だというのが日本プロ野球機構(NPB)の考え方だ。
この考え方はドラフト制度がすっかり定着した今では通常のものとなって、ほとんどのプロ野球志望選手は個々の特定の球団入団に強いこだわりは見られなくなっている。
(4)しかし清原選手がドラフト候補になった30年前はまだ特定球団への入団にこだわりのある有力志望選手も多く、今よりはドラフト結果が緊迫したものとして社会的話題として受け取られていた。
清原選手が西武球団に入団したあとの活躍は生涯プロ野球ホームラン歴代5位の成績からもあきらかで、仮に30年前に切望どおりに巨人軍にすんなり入団していたら彼の野球人生はどうなったのか考えることはある。
(5)結局は清原選手は西武フリーエージェント(free agent)資格であこがれだった巨人軍に移籍して巨人軍の一員になれたのだけれど、すでに顔付きは現在を示すようにあたりを威圧するいかつい顔付きに変わっていて細面で気の弱そうな若者の面影は微塵(みじん)もなくなっており、プロ野球選手としても体形維持ができずにケガに悩まされてすでに最盛期を過ぎていた。
もはや実力よりは話題性が優先する存在だったことが不幸だった。
(6)ひとりの人間の人生の歩む道は、成長に従って個人の能力、責任で切りひらいていくものだけに、単に社会人としての出発点の「ズレ」(discrepancy)だけに全責任を見ることは適切ではない。
ほとんどの人がそうであるように長い人生の間には成功、満足とともに挫折、失敗も経験しながらそれぞれを成長の糧(かて)として生きていくものだ。
清原選手も西武球団主力選手として日本シリーズで巨人軍を打倒して日本一になり、一塁手として勝利目前にグラウンドで見事巨人軍を見返して涙したことは有名だ。
(7)清原選手としては挫折も栄光も経験して乗り越えて、そこが分岐点(the crossroads of life)だったのではないのか。そこでの気持ちの切り替えがどうできたのか、できなかったのか。
もはや西武球団にいてやる事はやり終えた(巨人打倒)プロ野球人生で、西武球団にいる意味も意義も見失っていたのではないのか。今回の清原選手の重い不法行為はもちろん責められるべきことではあるが、18才の人生の大きな挫折感を考えると彼だけが負うべき問題なのだろうかと考えさせられる。
(8)清原選手はその後フリーエージェントで「あこがれ」の巨人軍に移籍したのだけれど、30年の人生を巻き戻してそのまま巨人軍にすんなり入団した清原選手の野球人生も見てみたかった。
はたして被告として法廷で涙する清原選手が同じ様に「そこ」にもいたのだろうか。
KKコンビとして高校野球の一時代をともに築いたもうひとりの桑田投手は、逆に小柄な体ながら意思の強そうな顔付きで負けん気を投球に込めて打者との真っ向勝負があざやかだった。
(2)その清原選手は巨人軍入団を切望していたが、当日のドラフト会議で巨人球団が指名したのは桑田投手の方で、清原選手はTV会見席でひとり涙していた。結果は清原選手は西武球団に指名されて入団した。
18才の人生の進路をドラフト会議で本人の意思とはほとんど関係なく球団の都合で決めてしまうことには賛否両論がある。
プロ野球経営に豊富な資金力を持つ人気球団が、人気、資金力に物を言わせて毎年有力、有望選手を確保してチーム力に大きな格差(discrepancy)が出来てはプロ野球の興味をそぐものとして批判もあり、チーム力均衡策として米国大リーグでも早くからドラフト制度が導入されて日本プロ野球もその後導入した。
(3)「プロ野球」に就職することが動機、目的であり、どこの球団に所属するかは二の次の問題(一般社会でも希望企業に就職したあと各セクションに企業戦略に従って配属されるのが一般的)だというのが日本プロ野球機構(NPB)の考え方だ。
この考え方はドラフト制度がすっかり定着した今では通常のものとなって、ほとんどのプロ野球志望選手は個々の特定の球団入団に強いこだわりは見られなくなっている。
(4)しかし清原選手がドラフト候補になった30年前はまだ特定球団への入団にこだわりのある有力志望選手も多く、今よりはドラフト結果が緊迫したものとして社会的話題として受け取られていた。
清原選手が西武球団に入団したあとの活躍は生涯プロ野球ホームラン歴代5位の成績からもあきらかで、仮に30年前に切望どおりに巨人軍にすんなり入団していたら彼の野球人生はどうなったのか考えることはある。
(5)結局は清原選手は西武フリーエージェント(free agent)資格であこがれだった巨人軍に移籍して巨人軍の一員になれたのだけれど、すでに顔付きは現在を示すようにあたりを威圧するいかつい顔付きに変わっていて細面で気の弱そうな若者の面影は微塵(みじん)もなくなっており、プロ野球選手としても体形維持ができずにケガに悩まされてすでに最盛期を過ぎていた。
もはや実力よりは話題性が優先する存在だったことが不幸だった。
(6)ひとりの人間の人生の歩む道は、成長に従って個人の能力、責任で切りひらいていくものだけに、単に社会人としての出発点の「ズレ」(discrepancy)だけに全責任を見ることは適切ではない。
ほとんどの人がそうであるように長い人生の間には成功、満足とともに挫折、失敗も経験しながらそれぞれを成長の糧(かて)として生きていくものだ。
清原選手も西武球団主力選手として日本シリーズで巨人軍を打倒して日本一になり、一塁手として勝利目前にグラウンドで見事巨人軍を見返して涙したことは有名だ。
(7)清原選手としては挫折も栄光も経験して乗り越えて、そこが分岐点(the crossroads of life)だったのではないのか。そこでの気持ちの切り替えがどうできたのか、できなかったのか。
もはや西武球団にいてやる事はやり終えた(巨人打倒)プロ野球人生で、西武球団にいる意味も意義も見失っていたのではないのか。今回の清原選手の重い不法行為はもちろん責められるべきことではあるが、18才の人生の大きな挫折感を考えると彼だけが負うべき問題なのだろうかと考えさせられる。
(8)清原選手はその後フリーエージェントで「あこがれ」の巨人軍に移籍したのだけれど、30年の人生を巻き戻してそのまま巨人軍にすんなり入団した清原選手の野球人生も見てみたかった。
はたして被告として法廷で涙する清原選手が同じ様に「そこ」にもいたのだろうか。