いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

プロ化とドーピング。 professionalism and doping

2016-06-23 20:01:23 | 日記
 (1)リオ五輪が予定どおり開催されるのか、開催国のブラジル大統領が弾劾裁判にかけられることが決まって職務を代行する副大統領にも別の疑惑が及んで、1か月半に迫ったリオ五輪がこれで本当に開催できるのか不安視されていたが、この期に及んで開催中止の話も聞かないのでなんとか開催国としてはやり抜くことのようだ。

 日本では次の20年東京五輪に引き継ぐ五輪旗の受け取り者(都知事)も決まっていない。そこへきて国家的なドーピング疑惑のロシアに対して国際陸連がロシア陸上選手のリオ五輪出場を認めない方針を示して、またまたひと騒動が起きている。

 (2)ロシアの陸上競技は米国、中南米の強豪国と覇権を争う一方の強豪国であるだけに、ロシア選手のリオ五輪出場が不可能になればそれだけで興味、関心を奪う(ロシア自ら招いたものではあるが)ものだけに注目されていた。

 ようやくIOCは直接薬物使用疑惑にかかわらないロシア選手に対して、全競技で外国のドーピング検査を受けることを条件にロシア代表としてリオ五輪に出場する裁定を下した。

 (3)世界的なドーピング不正防止の意識の高まりの中で、ロシアの国家的なドーピング疑惑に対しては当然のように国に対して国際的に厳しい対応、措置が取られてきたが、関与していないアスリートにまで連帯責任を取らせることには報復主義の犠牲者として回復の機会が検討されてきた。

 IOCが一定の良識のある判断、裁定を示したのは評価できる。禁止薬物を使用して記録向上、更新を狙うことにはスポーツの公平、公正な精神性、興味、関心を純粋に作為的に阻害するものとして、唯一といってもいいくらいに絶対的に排除してきた。

 (4)そもそも人種、環境、トレーニング、栄養管理ついでにいうなら文化、伝統でアスリートの身体能力はネイティブ(native)な違いが存在して、有利、不利は避けられないところだ。

 極めて高い身体能力を持つジャマイカのボルト選手は100メートルレースで9秒58の世界最高を記録しているが、日本人アスリートは最高レベルの選手でもようやく10秒を切ることができるかどうかの段階でとてもまともに勝負、太刀打ちできていない。

 (5)トレーニングや努力の領域ではなくてネイティブな身体能力の問題であり、スポーツの公平、公正の精神性を問題にするならハンディがあってもいいようなものだが、パラドックス(paradox)として未到、未知の世界に挑戦するスポーツの純粋性、夢、可能性からみればそれも興味、関心を薄れさせるものでよろしくない。

 むしろハンディを乗り越えて不利を有利に変えて頂点を目指すことも人類の夢、願いであり希望でもあるわけだ。

 (6)元来自然な世界人類スポーツの祭典の五輪にテレビ情報時代にあわせて商業主義が持ちこまれて、前人未到の記録向上、達成を目指して五輪プロ化(professionalism)がはかられてIOC自体がスポーツの公平性の環境を作為的になし崩しにしてきたものだ。

 そもそもスポーツに公正性は別にして公平性(fair mind)などあるのかといえば前述のようにむずかしいところだ。公平性はかえって興味、関心をそぐ反作用もある。

 (7)その行き着くところが禁止薬物効果を使用しての手段を選ばない未到の記録更新ということになる。それはIOCが目指した理念、方向性とは違いはない。
 そこにはアスリートの医学的、健康上の副作用、将来にわたっての健康被害の問題があるので、厳格な規制が求められている。

 そこに導いたIOCの自己矛盾もある。

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