(1)記録に残るか、記憶に残るかといえば、長嶋茂雄さんに王貞治さんのプロ野球の偉業と決まっていたが、昨今の国会は記録にあっても記憶にないとして、記録が否定される始末だ。
加計学園獣医学部新設にかかわり15年4月に官邸で首相秘書官が愛媛県職員と面会して「本件は首相案件」(報道)として語り、実現をケシかけたとされる愛媛県側文書が公表された事に対して当の首相秘書官が「記憶の限り会っていない」(同)と事実関係を否定した。
(2)安倍首相も友人の加計学園理事長との会食について、記録に残っている17年以前に会ったかどうかについて問われ、記録以外のことは記憶によるしかないが会っていないと答弁して愛媛県公表の文書内容を否定してみせた。
事仔細(しさい)のとおり、問題のあることについては記録に残さないというのが秘密主義だが、森友問題での財務省の決裁文書の書き換え、改ざんといい、加計問題での愛媛県職員の備忘録による文書(のちに同様の農林水産省の文書が発覚)といい報道機関のスクープによって始めて存在があきらかになって疑惑が深まるばかりだ。
(3)決裁文書というのは案件を立証するための事実関係を説明する公文書であるから、森友問題での決裁文書書き換え、改ざんは後になって何らかの意図、意思があってなされたことはあきからで、昭恵夫人にかかわる大部分の削除は決裁文書の構成に意味を持つものであり事実関係を隠そうとしたことはあきらかだ。
決裁文書の書き換え、改ざんの意図、意思、思惑については佐川前長官の国会証人喚問でも訴追を理由に語られておらずに、そのことは「問題」のあったことを認めていることになる。
(4)加計問題の愛媛県知事が公表した愛媛県文書は、面会したとされる当時の首相秘書官が記憶によるととして内容を否定して、安倍首相もこれを擁護して真っ向対立している。
ともにスクープがなかったら公にはならない文書であり、当初から公にするために改ざんされ作成された文書ではない。
行政機関の文書管理は規定がゆるやかで跡を残さないような配慮がにじむものであり、歴史の検証に耐えうることを想定していないその場限りの造りだ。
(5)政治的な意図、思惑が感じられるもので、それにしてもそれでも森友、加計文書問題は行政機関の記録文書主義がどこかでは残っていて、そして隠ぺい体質もまた同じであった。
文書作成当時、問題意識がどこまであったのかはわからないが、事実を隠そうと思えば文書そのものを作成しなかったか最初から都合よく作成したはずである。
そうしなかったところに行政機関としての主体性のない政治追随主義が伺えて、政治と行政の問題意識のギャップ、それは堕落、腐敗につながる温床になっている。
(6)行政機関の記録文書主義と書いたが、政治の世界が記録(document)でなく記憶(memory)で語られるところに真実性、確実性、証明性の欠如、限界があり、政治の私物化、堕落、腐敗をつくりあげている。
今回の森友、加計問題は日本の政治の古くからの縁故、ゆ着、利益誘導、秘密主義の弊害をいまだに示すもので、日本政治が進歩しない、成長、評価されない要因ともなっている。
(7)政治は国民の程度にあわせたものしか持てないともいわれるが、国民も熟慮しなければならない。
加計学園獣医学部新設にかかわり15年4月に官邸で首相秘書官が愛媛県職員と面会して「本件は首相案件」(報道)として語り、実現をケシかけたとされる愛媛県側文書が公表された事に対して当の首相秘書官が「記憶の限り会っていない」(同)と事実関係を否定した。
(2)安倍首相も友人の加計学園理事長との会食について、記録に残っている17年以前に会ったかどうかについて問われ、記録以外のことは記憶によるしかないが会っていないと答弁して愛媛県公表の文書内容を否定してみせた。
事仔細(しさい)のとおり、問題のあることについては記録に残さないというのが秘密主義だが、森友問題での財務省の決裁文書の書き換え、改ざんといい、加計問題での愛媛県職員の備忘録による文書(のちに同様の農林水産省の文書が発覚)といい報道機関のスクープによって始めて存在があきらかになって疑惑が深まるばかりだ。
(3)決裁文書というのは案件を立証するための事実関係を説明する公文書であるから、森友問題での決裁文書書き換え、改ざんは後になって何らかの意図、意思があってなされたことはあきからで、昭恵夫人にかかわる大部分の削除は決裁文書の構成に意味を持つものであり事実関係を隠そうとしたことはあきらかだ。
決裁文書の書き換え、改ざんの意図、意思、思惑については佐川前長官の国会証人喚問でも訴追を理由に語られておらずに、そのことは「問題」のあったことを認めていることになる。
(4)加計問題の愛媛県知事が公表した愛媛県文書は、面会したとされる当時の首相秘書官が記憶によるととして内容を否定して、安倍首相もこれを擁護して真っ向対立している。
ともにスクープがなかったら公にはならない文書であり、当初から公にするために改ざんされ作成された文書ではない。
行政機関の文書管理は規定がゆるやかで跡を残さないような配慮がにじむものであり、歴史の検証に耐えうることを想定していないその場限りの造りだ。
(5)政治的な意図、思惑が感じられるもので、それにしてもそれでも森友、加計文書問題は行政機関の記録文書主義がどこかでは残っていて、そして隠ぺい体質もまた同じであった。
文書作成当時、問題意識がどこまであったのかはわからないが、事実を隠そうと思えば文書そのものを作成しなかったか最初から都合よく作成したはずである。
そうしなかったところに行政機関としての主体性のない政治追随主義が伺えて、政治と行政の問題意識のギャップ、それは堕落、腐敗につながる温床になっている。
(6)行政機関の記録文書主義と書いたが、政治の世界が記録(document)でなく記憶(memory)で語られるところに真実性、確実性、証明性の欠如、限界があり、政治の私物化、堕落、腐敗をつくりあげている。
今回の森友、加計問題は日本の政治の古くからの縁故、ゆ着、利益誘導、秘密主義の弊害をいまだに示すもので、日本政治が進歩しない、成長、評価されない要因ともなっている。
(7)政治は国民の程度にあわせたものしか持てないともいわれるが、国民も熟慮しなければならない。