5月4日(金) 晴 名鉄御嵩駅からJR武並駅まで
第8回です。名鉄御嵩駅から歩き始め、御嵩町と瑞浪市の境界を通過し、細久手宿、大湫宿を経て恵那市のJR武並駅までを歩きました。当初の予定では大井宿まで行こうと思っていましたが、脚が痛くなりましたし、このまま歩き続けるのは無理だと判断し、深萱からJR武並駅に向かいました。
歩き始め。御嵩町を歩きましたが、かつては御嶽宿だった場所です。中山道みたけ館や御嶽宿の本陣跡がありました。この辺りには宿場町の雰囲気が残っていました。そして、国道21号線沿いを歩き、しばらく歩くと、中山道が国道から山の中に入って行く道になって行きました。山の中の道では街道らしさを感じましたが、往来する人が少なく寂しい道でした。
今回、通過した宿場は細久手宿と大湫宿です。字は違いますが、どちらもクテの字が入っています。クテの意味には、湿地とか沼地の事を指すと聞いた事が有ります。大きなクテや細長いクテがあったのでしょう。
ゴールデンウイークの最中の日であり、何人もの「街道歩きの人」とすれ違いました。単独の人。ご夫婦。色々の人々が街道歩きを楽しんでいました。
名鉄御嵩駅 ― 御嶽宿本陣跡 ― 御嶽宿わいわい館 ― 栢森の一里塚跡 ― 和泉式部廟所
― 耳神社 ― 謡坂の石畳 ― 謡坂の一里塚跡 ― 一呑の清水 ― 御殿場 ― 津橋
― 山内嘉助屋敷跡 ― 鴨之巣一里塚 ― 秋葉坂三尊石窟 ― くじ場跡 ―
細久手宿本陣跡 ― 旅籠大黒屋 ― 奥ノ田一里塚 ― 弁天池 ― 八瀬沢立場跡 ―
琵琶峠東口 ― 烏帽子岩・母衣岩 ― 大湫宿高札場 ― 神明神社の大杉 ― 茶 店
― 大湫宿本陣跡 ― 旧森川訓行家住宅 ― 十三峠入口 ― 尻冷し地蔵 ― 三十三観音
― 権現山の一里塚 ― 炭焼立場跡 ― 大久後立場跡 ― 深萱立場跡 ― JR武並駅
瑞浪市役所経済環境部商工課発行
中山道ウオーキングマップから引用しました。
名鉄御嵩駅
(07:54)
名鉄御嵩駅で下車しました。
ここから、中山道歩きをスタートします。
御嵩駅から東を眺めました。
誰も居ない街道。
それでも曲がりくねった道には街道らしさを感じさせます。
わいわい館の南側。
御嶽宿の標識が設置して有りました。
御嶽宿わいわい館
(07:59)
御嶽宿わいわい館の前を通過します。
商家竹屋です。
中山道を人や物資が往来し、大きく賑わいをみせていた頃の商家として、宿場内での役割を果たしてきたのでしょう。
栢森の一里塚跡
(08:10)
名鉄御嵩駅から中山道を歩いて来て、中山道が国道21号線に変わる交差点に石柱が立っていました。
この石柱。まだ、新しい時代の標識です。
それに、この場所が栢森の一里塚跡のようです。
和泉式部廟所
(08:26)
国道21号線を歩いて来て、ここから山の中に入っていく場所です。
ここには右 中街道と、刻まれた指示標識が有りました。
そして、この和泉式部廟所が有りました。
説明板には鬼岩温泉で湯治していたが、この地で亡くなったと書かれています。
(08:36)
中山道が、いよいよ本格的に山の中に入っていくところです。
注意を喚起するこんな看板が設置して有ります。
往来する外国人が多いのか、英語の表記が載っています。
あの、先の方に進んで行きます。
街道筋らしい田園風景です。
(08:53)
牛の鼻欠け坂です。
ここから登り坂になります。
路面に雑草が生えています。
今の時期だから丈が短いのですが、盛夏となると、生い茂る。そんな事にならないだろうか。
ここでウオーキングシューズから登山靴に履き替えました。
耳神社
耳神社に来ました。
珍しい神社です。
耳神社の由来が添えて有ります。
謡坂の石畳
(09:11)
復原された石畳。
街道らしさを感じます。
前方に街道歩きのお二人が見えます。
言葉を交わしましたら、浜松から来られたご夫婦です。
武並駅から歩き始め、昨夜は大黒屋に泊まったのだそうでした。
今日は太田宿まで歩き、明日は岐阜に向かうと話していました。
謡坂の一里塚跡
(09:25)
草が繁っていますが、コンモリとした塚の型をしています。
昭和48年に地元有志の手で復原したと刻まれています。
一呑の清水
説明板に旅人の喉を潤したと書かれています。
(09:34)
中山道の石柱が建ってます。
ここから登り坂になります。
ご夫婦とすれ違いました。
武並から来て大黒屋に泊まったのだそうでした。
御嵩駅まで行くと言っていました。
(09:40)
前方から男性、一人が歩いてきます。
この男性も大黒屋に泊まったのだそうでした。
群馬県から来たと言っていました。
前方からご夫婦が歩いてきます。
こちらのご夫婦も大黒屋に泊まった人たちでした。
こちらのご夫婦。神奈川県の相模原市、橋本から来たのだと言っていました。
昨日、中津川から大黒屋まで歩いて来て、今日は岐阜に向かうのだと話しました。
(09:50)
木々の中の階段。
階段を上がって行った先が「ラ・プロバンス」。
森の中のケーキ香房です。
人気が有り、遠方から訪れる人が有ります。
御殿場
(09:52)
御殿場と言う場所で、説明板が設置して有ります。
文久元年に和宮の行列が中山道を下向し、徳川家茂のところへ輿入れした。その際、一行が休憩する御殿が造られた事から、ここを御殿場と呼ぶようになったと書かれています。それに一行の行列が4,000人から5,000人に及ぶ大行列だったと有ります。
大行列。延々と続いた事なのでしょう。長い行列だと、先頭は大湫宿を歩いていても、後続は細久手宿を歩いている。そんな状態だったのかも知れません。
お着きの者の泊まる場所も足りなかったかも知れません。
街道らしさのある道です。
反面、往来する人も無く寂しい場所です。
鴨之巣一里塚
(10:44)
瑞浪市に入ってきて、鴨之巣一里塚が見えてきました。
この一里塚は街道の南側と北側に塚が有り、かつての姿をしています。
瑞浪市日吉町の平岩地区が見えてきました。
(11:14)
街道沿いの鯉のぼり。
初夏の風を受け、ゆっくりと泳いでいます。
男の子が誕生したのでしょう。
(11:34)
細久手宿に入ってきました。
細久手宿本陣跡
細久手宿本陣跡へ来ました。
細久手長寿クラブの手作り説明板。
このような説明板が何枚も設置して有りました。
加賀藩の前田公から寵愛を受けたと有ります。こんな美濃の田舎とどんな関係なのだろう。
旅籠大黒屋
旅籠大黒屋に来ました。
ここへ来る時、すれ違った人たちが泊まった宿です。
大黒屋の玄関。
玄関先の瓶に花が生けて有ります。
この玄関と右側にも玄関が有りまして、右側の玄関には左の玄関にお回りくださいと表示していました。ですから、この玄関が客人を向かえる正式な玄関でした。
(11:38)
細久手公民館の北側。
細久手宿の標識が設置して有りました。
(12:13)
前方からご夫婦が歩いて来られます。
言葉を交わしましたら中津川のご夫婦でした。
中山道を歩いておられるそうな。
これまでに、北の塩尻まで歩いたそうでして、今度は西に向かって歩き始めて、今日は武並駅から歩いて来て御嵩駅まで行くと言っていました。
(12:23)
今度は単独の男性とすれ違いました。
神奈川県の人でした。
武並駅から歩き始め、御嵩駅まで行くと言っていました。
若い男性が快調に歩いている。そんな感じを受けました。
奥ノ田一里塚
(12:26)
奥ノ田一里塚へ来ました。
この一里塚。
街道を挟んで南側と北側にこんもりした塚が有りました。
(12:38)
単独の若い男性とすれ違いました。
大井宿から御嶽宿までを歩くと言っていました。
言葉を交わしたのですが、笑顔がステキな人でした。
(12:49)
こちらは東京からのご夫婦です。
大井宿から御嶽宿まで行くまでを歩くと言っていました。
前日は中津川を歩いたと話していました。
ゴールデンウイーク中であり、効率よく中山道をたどれます。
道路での立ち話。
ステキなご夫婦でした。
弁天池
(12:51)
街道の横に有った弁天池です。
弁天様を祀って有るのでしょう。
祠が有ります。
草津宿から京都へ向かって歩いた時、南草津の狼川と言うところで弁天池を目にしました。
池に島があり、川鵜が巣を作っていました。
そんな島に弁天様のお社がありました。
規模は違うけど、弁天池と弁天様。
何故このような形になるのだろう。
今日のKオジサンの後ろ姿です。
大井から御嶽へ歩くと言う男性に撮影して貰いました。
(13:08)
後ろ姿を撮影してくれた男性です。
大井から御嶽へ歩くと言う男性。
「ちゃんと歩ける中山道六十九次 西 薮原~京三条大橋」を手にして歩いています。
京都まで歩くのだろうか。
よそ見をしていた時、通り過ぎた男性。
言葉を掛けるタイミングを逸しました。
木々の中を抜けてきて明るいところへ出ました。
前方に農村風景が広がっています。
電柱が無ければ良いと思いました。
(13:35)
私を抜いて行った男性です。
浜松から来たと話していました。
前日、赤坂宿から岐阜まで歩いたのだそうです。
そして列車で太田宿まで来て歩き始め、今日は大井宿まで行くと言っていました。
太田宿から大井宿。凄い距離を歩きます。
琵琶峠東口
(13:54)
琵琶峠の西口を見落とし、東口に着てしまいました。
入口から石段を上がってみました。
整備された街道となっています。
(14:06)
大湫宿が近付いてきました。
前方からご夫婦。それに娘さんが一緒でした。
今日は御嵩駅まで行くと言っていました。
(14:10)
大湫宿の入口に大湫宿の標識が設置して有りました。
大湫宿高札場
大湫宿の標識の近く。
高札場が復原して有ります。
神明神社の大杉
こちらは神明神社です。
戸を開けて、中を見せている様子です。
野次馬根性で近寄っていきました。
お神輿を見せていたので、後ろから近寄りました。
聞こえてきたのは、高山の方へ修理に出していたとか。
立派な神輿です。
成瀬家から預かっているとか、戴いたとか、聞こえました。
滅多に見られないものを目にしました。ラッキーでした。
直ぐに戸を閉めにかかっています。
この後ろ。
神明神社の大杉が有りました。
大杉は凄い太さが有ります。
茶 店
(14:24)
団子や五平餅を売る茶店が有りました。
ここで一休み。
五平餅を頂きます。
大湫宿本陣跡
旧大湫小学校が有った場所が大湫宿本陣跡です。
本陣跡に和宮の歌碑が有りました。
こちらから見えるのは裏側です。
こちらが表側です。
旧森川訓行家住宅
(14:36)
旧森川訓行家住宅に入ってみました。
休んで行ってと言うことで、昆布茶を出して貰えました。
女性から聞いたのはこの旧森川訓行家住宅。尾張藩から許され、塩を商っていたと言うことです。
丸森のサイトを開くと塩の販売と旅籠を商売にしていたようです。
そして、女性が教えてくれたのは木曽節の「中乗りさん」と言う言葉です。
木曽から切り出した材木を木曽川で流すのだが、川幅が狭く1本1本で流す。
材木が岸の岩に当たらないようにして、材木を下流へ流す。
丁度、木場で竿1本で操る。木場と激流では様子が違いますが、想像できました。
猿も木から落ちるではないですが、材木から川へドボンと言う事も有るのでしょう。
この大湫宿の北側に木曽川が流れています。そして、八百津で筏に組んで下流へ流すのだと説明してくれました。
長良川の鵜船。先頭に鵜匠が居て、最後尾は船頭。その間で舟を操る人が中乗りさんだと思いこんでいました。
知らない事が恥と言うか、目からウロコと言う感じがしました。
十三峠入口
(14:46)
大湫宿を出てきました。
宿場の東の外れ。
ここから十三峠が始まります。
坂道。
前方からスポーツバイクの二人が下って来ます。
(15:36)
街道の横から人々の声が聞こえてきました。
この辺り、ゴルフ場の中でした。
そして、前方をカートが横切りました。
カートが通過した後、横に行ってみました。
ゴルフ場の芝生が広がっています。
権現山の一里塚
(15:38)
権現山の一里塚まで歩いてきました。
下り坂ですが石畳の道になっています。
樫ノ木坂の石畳です。
長く続く石畳。
下るので好いのだけれど、逆に登るとなるとキツイだろうと思いました。
(16:30)
武並町の深萱に出てきました。
左手に「ここは中山道の深萱立場」の案内板が見えます。
深萱立場跡
(16:33)
深萱立場。
ここにはトイレが完備しています。
ここからJR武並駅へ向かいます。
JR武並駅に向かって歩きます。
JR武並駅
(16:54)
JR武並駅が見えてきました。
歩き始めは歩数が34歩となっていました。ガラケーのスイッチを入れ忘れていまして、入れたのが、つい先ほどです。
結果的には41,000歩余りで約30キロでした。坂を登ったり下ったりで、平地の30キロよりキツかったです。
(17:13)
武並駅で列車を待っていると、名古屋行きの快速が入線してきました。
感想
予定では大井宿のある恵那駅まで歩きたいと思っていましたが、脚が痛くなりました。それに時間的に遅くなりました。
調べておいた恵那駅の時間が17時07分でしたから、それより少し遅い時間を念頭に置いて武並駅に向かえば良いと思ったのです。予定していた時間の列車に武並駅から乗りました。
大湫宿の東が十三峠です。八丁坂とか山之神坂と名付けられた坂道が何個も有ります。また、一里塚が昔の姿をしていました。街道らしい雰囲気は有るのですが、旅人は難儀したのだろうと想像しながら歩きました。それに街道を歩いていて寂しいのです。江戸時代、女性が一人で歩いていたなら、心細く感じたに違い有りません。
細久手宿では何枚もの手作り説明板が掲げてありました。このように説明板を設置して貰えたのは有り難い事です。
ゴールデンウイーク中であり、多くの街道歩きの人たちとすれ違いました。みなさん。街道歩きを楽しんでおられるように見えました。
中山道歩きの回を重ねてきました。歩き始めた頃は足の裏にマメが出来ました。今ではマメが無くなり、足の裏の皮が厚くなったような気がします。でも、左足のスネが痛くなります。
今日の経費
名鉄新那加駅から名鉄御嵩駅まで 730円
JR武並駅からJR那加駅まで 1,140円
カップ麺 108円
五平餅 180円
旧森川訓行家住宅 志納 100円
合 計 2,258円
kオジサンの中山道旅日記 その9
5月21日(月) 晴 JR武並駅からJR中津川駅まで へ