当院の私のカルテ番号は85ー00001、この番号にはそれなりの歴史があるが、私は昭和60年 (1985) 5月から6ヶ月間、この病院に入院していた。
この年、この病院は紙製だった診察券を磁気機能を持ったデジタルタイプの診察券に変更する構造改革を実施、当時の患者リストから 「ア行一番のあ」 から始まる私が85ー00001の番号を付与されたと、風の便りで聞いた。
それから36年、今も私は当院の一部診療科との定期的な通院が続いているが、当時の入院も今回の入院に類似しているようで奇遇な気がする。
昭和60年5月、大型連休が終わっても私の体調が優れず、倦怠感やだるさが続き、働くことも叶わぬ体の変調に苦しめられていた。
思い切って休暇を取り、当院呼吸器科を受診、胸部レントゲン写真を見た医師は即 「入院してください」 と一言、いわゆる 「胸部疾患 (結核)」 との診断だった。推定治療期間は約6カ月との空しい宣告だった。
「入院せよ」 との言葉を聞いた時、私の頭は真っ白になり、瞬間的に 「家族に感染していないか?」 の危惧に取り憑かれてしまった。
今回、入院した経緯も何か似ているような気がした。
結核と言う病気は国の法律により手厚い保護下にあり、家族への感染防止も保健所管轄で厳重に管理されていたので私の感染で家族全員の検査が義務付けられているのでそれに従うしかなかった
一番悔いても忘れられないのは長女のことだった。長女は名の知れた女子校に通学していたが、入学に際しある目標を立てた。
それは 「三年間、無遅刻無欠勤で皆勤賞を受賞、金融関連会社へ就職する」 との確かな目標と持っていた。
実際にそれまでにその目標は順調に積み重ねられていたが、その家族検診のためにたった一日休校することになり、長女の夢は潰えてしまった。
親としては全く謝す言葉も無い申し訳のない成り行きになってしまった。
幸いにも家族への感染が無かったことは、多くのご先祖さまたちののご加護かもしれない。
あれから36年、「歴史は繰り返す」 の格言通り、私はまたこの病院の一室で過ごすことになった。
だが当時と比べると院内の建物群は建て変わり、かつては田んぼだった南側は埋め立てられて宅地となって家が建ち並んでいる。
かつて東村山は自然豊かな農村地帯で、北川には清流が流れ、夏にはホタルが飛び交うほどの光景だったが、戦後の都市化の波に押し潰されてその自然は消え去ってしまった。
当時、結核は不治の病だったが、効能のある薬が無く、多くは通気療法だったので人里離れた郊外に病院が建てられた。 清瀬や東村山に病院が多いのもその地理的な環境のためだろう。
三階の病室から外を眺めると、ガラス窓一杯に見えるのは密集した家々の数々、ここが全て田んぼだったことを知っている人も少ないことだろう。
退院する朝、東から西に向って写真を撮った。しかし、表は空気がもやっていたようで、少しピンぼけ気味になってしまいました。
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