日暮らし通信


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生きるには酸素が必要 (私の闘病記・その四)

2021年05月12日 15時40分08秒 | 日暮らし通信
発信元:  赤とんぼ



■□ 写真タイトル と 撮影場所 □■

通販で購入したオキシメーター

自宅DKにて

(2021.5.12)



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入院してからは毎日点滴していたが、それ以外に重要なのが 「血中酸素濃度値」 の安定だった。

私はこのような値があるのを知らなかったが、救急車に乗った時には78%だったとのこと、健康な人の血中酸素濃度値は96~99%だから救命士も驚いていた。

そしてこの濃度を測るのが 「オキシメーター」 と呼ばれる測定器だ。

オキシメーターを中指か薬指、または親指に挟むと酸素量と脈拍が表示される。
それが96%以上であれば正常だが、入院した頃の私の濃度は不安定だったので、その対策が酸素補給だった。

入院時は70%台だったので、最初から鼻にチューブが取り付けられて常時装備となり、シャワー使用中も取り付けが義務付られているほどで、通常4リッター/毎分の量が補給された。
これらは清浄な酸素だが、清浄過ぎて体にアンマッチなようで私はどうも体調が優れなかった。

通常ベッド上では 「屋内酸素供給系統」 から補給されるが、ベッドから離れる時はキャスター付きの 「携帯用酸素ボンベ」 に切り替えて歩行しながら補給する。
この時、屋内酸素供給系統から供給用ビニールチューブを抜いて携帯用酸素ボンベの入り口に接続、供給バルブを開いて”開”を確認、更に供給量の”4”を確認すれば、携帯ボンベと共に移動可能である。
またベッドに戻る時は逆の操作で屋内酸素供給系統に切り替えて補給する。

5月1日の朝、やっと98%の値で安定、看護師さんが酸素補給を停止した。
鼻からチューブが外れたので五日ぶりに顔もすっきりした。

26日から1日まで約123時間ほどの間酸素を吸ったことになるが、人間は生きるためには酸素が必要だが、普通はその酸素の有り難さなどは思ってもいないことだろう。

だがこの補給で鼻腔内の粘膜を損傷したようで鼻血が出たが三日間ほどで止まった。

この入院で始めてオキシメーターの存在を知ったが、我が家でも家庭常備品として必要では? と、H子さんに通販で購入するように頼んだ。

このコロナ禍でオキシメーターが売れて品薄状態が続いたようだが、今は元に戻ったようだ。

だがH子さんもあまり判らないので知り合いの看護師さんに聞いて通販で買ったのが写真のオキシメーター、家族でいつでも使えるようになりました。

今回の入院、点滴と酸素補給に助けられました。







病室はどんな雰囲気? (私の闘病記・その三)

2021年05月11日 16時28分47秒 | 日暮らし通信
発信元:  赤とんぼ
■□ 撮影場所 □■

病室にて

(2021.5.7)


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フラット状態のベッド


頭部を上げたベッド




この病院には3ヶ月間隔で通院しているので、一階外来フロアのレイアウトは少し理解していたが、三階にこのような療養施設があることは知らなかった。
実際に病室に入ってみると整った広い空間のある環境で、ゆったりとした静かな雰囲気に好感が持てた。

最初は四人部屋の通路側の区画だったが、その後、夜間、隣人の(いびき)に耐えられずSOS発信、入院三日目には隣室へ移動した。
この煩い隣人の鼾は入院中の最大級の ”困ったこと” だった。

その後は窓際の区画で過ごしたが、奥側の区画は少し狭く感じられた。

私有持ち物などは備え付けのラック内に収容できるが、移動式の備品入れもあり、貴重品用に鍵付きのセキュリティを持った引き出しもあった。

ベッドはリモコン操作可能で、ベッドの高さを上下する、ベッドの頭部を上下する、そして足部を上下する機能が使えた。

だが全て便利である訳でもない。
実際にはベッド上で寝た状態から立ち上がることが面倒で、身を横にしてからベッドの手摺りを頼りに立ち上がらないと起きることがでなかった。

このような時に天井から吊り輪のような補助器具があればもっとスムーズな立ち上がりが可能になるだろう。

それと不便なのがスイッチ操作。
私のような小男ではベッド上から操作パネルまでひと動作動いて手を延ばさないと届かない遠い位置で、これまた面倒な動きが必要だった。。

それと壁のパネル上では幾つかの照明スイッチが分散しているのも気にかかるが、私の病状を考慮してもこのように整った雰囲気の中で静養することができたことは幸いだった。

一つ不満あり。レンタルテレビを時々見たが、残念ながらBS放送が視聴できない。いつも楽しみに見ている番組もあったので期待外れだった。
千円で購入したテレビカードで15時間使えるそうだが、実際には三時間ほどしか見なかった。

このような環境で13日間過ごしたが、やはり家が恋しくなる。いつも 「Mはどうしているだろうか?」と、恋心に似たような感情がよぎるが、Mのことや家庭内のことはH子さんが小まめにフォローしてくれるので助かる。
そのお陰でMは元気で過ごしていると聞いて多いに安心していました。

だが、一日の私のメインの仕事はベッド上で受ける点滴のみ。後は自由時間と言ってもいいように暇がある。
その暇をどうする? 実は私はそれなりに準備したことがあるが、その話しはまた別のブログでご紹介しましょう。





生まれて始めての点滴 (私の闘病記・その二) 

2021年05月10日 11時42分55秒 | 日暮らし通信
発信元:  赤とんぼ
■□ 撮影場所 □■

入院先の病室にて

(2021.5.5)


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点滴剤の本体


私はこれでモニターしていました




私が何故、肺炎を発症したのか? は、私にとっては重要な疑問である。
私なりには街医院で投与された 「脈拍降下剤」 が血圧低下を招き、それが肺炎の原因となったと思い込んでいるので街医院医師への微妙な感情が残る。

先日、入院先の担当医師にその件を確かめる 「薬との因果関係はありません」 と否定されたが何となく釈然としなくて私の気持ちは複雑だ。

治療といえば絶対安静だが、薬の投与も重要な要素で、その中でも点滴は初日から続いた。


最初は日に4本の抗生物質 (1本100ml) が注入されたが、四日後には昼食後と夕食後1本となり、減った分は内服薬に変更された。

ところでこの点滴は腕に差し込んだ針付きのチューブに高い位置にある液体本体からのチューブを接続し、正常ならば難無く滴下するが、時には体内の針先で液漏れが発生し、すぐに皮膚が腫れ上がり、同時に私は痛みを感じることになる。

この場合は処置が必要で、他の腕に新しい針を刺して別の注入口を探してセットすることになる。
この処置、見ているとどの看護師さんも技術的に高いレベルにあるようで見事に注入行為が再開される光景を見ていると安心度が保証されるような気持ちになる。

しかし、このような状況だから点滴が始まる時に異常が起きないか? と、いつも不安な気持になった。

私の血管も老化して細いので看護師さんが注入箇所を探すのに苦労している姿は毎回だった。
滴下する(しずく)の量も微妙で私の腕の位置で滴下量が変化するので、一定量の滴下が止まらないようにと自らコントロールする日が何日もあった。

この点滴剤のラベルを見ると [生理食塩液 生食キット 100ml] 『フソー』 とある。
所謂、 「抗生物質剤」 であるが、一回 100ml の注入時間は条件がまちまちだが、その平均は46秒だったが、最速は22分、最長は89分だった。

私は生まれて始めての点滴で最初は緊張したが思ったよりも楽に受け入れることができた。注入途中でトイレへ行くことも可能だが、その必要も無く続けられた。

入院三日後には医師から 「レントゲン写真もだいぶ良くなった」 とのコメントは嬉しい言葉だった。さらに 「快復は順調だよ」 との言葉に勇気を与えられた。

退院する前日まで26回抗生物質を点滴、その量は260cc、この薬のお陰で命拾いしたのかと思うと針を刺し込む時の痛みなどは忘れてしまう。

だが今でも私の両腕の背側も腹側も無数の赤い点が残っている。
実際に点滴した箇所は8箇所だが、その他は何れも注入できなかった場所、看護師さんも苦労したことでしょう。






・・・入院・・・そして退院 (私の闘病記・その一)

2021年05月09日 12時31分11秒 | 日暮らし通信
発信元:  赤とんぼ
■□ 撮影場所 □■

市北部の路上にて

(2021.5.8)


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私が入院した市北部の総合病院


三階の病室で13日間暮らしました




人生、時には思いもよらない突発的な事が起きる。今までの人生の中で実際に多くの出来事を経験してきたが、それが人生だと淡白に考えながら生きてきた。

しかし、その出来事に遭遇した時、(よわい)80歳を越えた私には時には命取りの危険な状態が待っていたことを知る由もなかった。

4月26日、街医院へ通院、診断の結果、驚くべきことに肺炎が発症しているとのことで、”即入院” との医師の言葉に気が動転した。

その時まず気になったのは家族のこと、もしこの肺炎がコロナと関連した場合に及ぶ影響を危惧するとともに、Mの介護をどうするのか? も気掛かりの一つだった。

その後、救急車で市北部の総合病院へ搬送されて入院、8日退院したが、この間私にとっては貴重な経験をすることになった13日間だった。

だがこのような肺炎発症は突然起るのものでも無く、原因となるべき事象が起きていたことも確かだったが、その経緯を振り返ってみよう。

私は持病治療のため街の医院に月一通院している。

4月22日、あるデータ値が高いのでそれへの対策として新たな薬 (朝昼夕内服) が処方された。
だがその薬は私の体に合わないのか、過度の血圧低下を招いてしまった。

24日通院、医師はこの事象に対して十分な対応をすることなく、内服回数を朝夕に変更して様子を見ることにした。
この時 「喉がおかしいので診てください」 と要求したが、 「今はコロナ禍なのでその部位は耳鼻咽喉科で受診してください」 と断られてしまった。
以前、風邪気味の時などには軽く診てくれたのにと不自然さが残ったが、もしその時、喉の診察が行われたら、早期に肺炎が判ったかもしれない。

だがこの血圧低下は思わぬ展開に進むことになる。
25日 (日) 朝薬内服。一時間後には血圧が低下し、意識が朦朧となった。
床に座っても立ち上がることもできず、長男夫婦の助けを借りてやっと和室で横になったが、血圧も60台まで低下、ますます表情が悪化、吐き気、震え、寒気などが頻繁に付きまとうようになった。

私は不安定な感情の中で危険を感じ、救急車を呼ぶことも考えたが、薬の効能は必ず切れる時間があるはず、そうなれば血圧も上がるはずだと期待し、ひたすら我慢するのみと必死に堪えるしかなかった。

この何だか判らない苦痛の中で私は 「死」 を身近に意識もした。だがその意識は 「Mを残して先に逝けない」 との単純な答えで消えていった。

苦しむこと約8時間、17時過ぎには血圧も110台に戻ったがふらつく体は自由の無い抜け殻のような一つの固体だった。
つくづく薬の副作用の恐ろしさを感じた一日だった。だがこの話し、まだまだ続きがある。

翌日、26日 (月) いつもなら自転車での通院だが、今日は長男が車で送ってくれた。
医師に 「昨日は死にかけました」 との状況を話したがあまり真剣に聞いているとは思えなかった。それともこの薬の副作用の事例が無いのか、あるのかはどうなのだろうか? 医師は対処策を考えていたが 「心電図検査と胸部レントゲン検査しましょう」 と検査を指示した。

ここは街中の医院だがかなりの検査設備は整っているようだ。まず心電図、そして胸部レントゲン検査と終わった。
暫くすると防護服着用の医師 (先程までは通常の白衣だった) が私に、 「肺が真っ白です。これから救急車を呼びますので入院してください」 と、口早に言った。

私はびっくり仰天したがコロナ感染も意識したので急遽防護服を着用した様子だ。医師も慌てているようだが、もう少し丁寧な説明が必要ではなかろうか?

その後、私は別室に移され、右親指にクリップ式のメーターを挟み混まれて看護師から 「このままで」 と、待機させられたがこれも何の説明も無い対応だった。

ところでこのメーターは血中の酸素濃度を測る重要な器具で 「オキシメーター」 と呼ばれるそうだが、私がこの 「オキシメーター」 のことを知ったのは、入院してからの看護師さんたちからの情報だった。

ちなみにこの医院での私の血中酸素濃度は78%、非常に危険なレベルだったそうだ。

 「オキシメーター」 で測りながらやはり気になるのはコロナ禍による感染で、特に家族を巻き込んだらどうしようか? との気持ちを抑えることが出来なかった。更に私が入院したらMはどうなるか? と苦しい想像が続いた。

12時半前、救急車出発。私は救急車のストレッチャーに横たわり総合病院へ向かった。どこの病院へ行くのか? も気ががりだったが、昔から馴染みのあるこの病院へ入院したのも何かの縁があったのだろう。

救急車に乗った時、私は特に自覚表情があった訳ではないが、救命士が引き継いだ私の酸素濃度に対しては危険性を感じていたとの事だっだ。

病院に到着後、 『救急処置室』 でいろいろと検査準備を受けた。 『肺が真っ白だ』 と言われたが医師が見せてくれた写真を見ると、左肺の三分の一が白かった。この時の酸素濃度は88%と後から知った。

また街の医院からの私の情報と胸の写真を見た救急担当医師は 「こりゃあ、コロナじゃないな!!」 と言った。その言葉に私も随分と安堵した。
専門医は簡単なデータや写真からコロナによるものかどうかの判定は可能とのことだ。

さて、私の闘病生活が始まった。いったい、如何なる治療が待ち受けているのだろうか?

その後の状況については次ぎのプログをご覧ください。