諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

足柄山の金太郎のモデルは坂上田村麻呂で間違いないと思う。その2

2016年12月23日 10時32分58秒 | 伝説

続きです。

金太郎の伝承は各地に残されています。中でも生まれた場所の一つとされている静岡県小山町の金時神社は金太郎の産湯とした「ちょろり七瀧」がある。さらに金太郎親子が信仰したと伝わる第六天社がある。何故に金太郎親子が第六天魔王を信仰していたのか気になります。

以上は殆どウキペディアの丸写しですが、一番重要な点は金太郎こと坂田金時なる人物の存在が大変疑わしい事です。

坂田氏は元々は地名から発生し600年頃から名乗る人が出ていたようです。多分、坂になっている田圃を持っていた人なのでしょう。因みに「吉田さん」は葦が生えた田圃を持っている人を意味します。良い田圃じゃなくて悪い田圃です。貧乏なお百姓さんの意味でもあります。そこから考えると坂になっている田圃も田植えが大変でしょうから、あんまり豊かなお百姓さんじゃないと思います。余計なお世話ですけど。

坂田姓も全然名門ではありません。金太郎程の有名人を出しているのだから、誰か知られた人が出ても良いと思うのですが、「坂田真人」と言う人がいたくらいです。「真人」の意味は仙人だそうですから、坂田の仙人と言う意味になります。何をした人なのかは知りませんが。

実は「坂田金時」にもモデルがいるとも伝わってます。平安中期、藤原道長(966~10この28)の時代に京都の皇居を警護していた「下毛野の公時」と言う12歳の子供です。美少年で武芸や馬術にも秀でて、とんとん拍子に出世して人気があったそうです。

しかし残念ながら九州征伐に向かう途中、やはり岡山県で熱病にかかりポックリと死んだそうです。確かにある程度は似ているストーリーだと思います。

では何故に下毛野姓ではなく「坂田」にしたか。私は今回の御題の通り坂上田村麻呂を示しているからだと考えます。「坂上田村麻呂」、略して「坂田」なので。

坂田金時は源頼光の四天王でした。田村麻呂は大伴弟麻呂が征夷大将軍時代に4人いた副将軍の1人です。

時代は金太郎の坂田金時(956-1012年)、田村麻呂(758-811年)。約200年時代が違いますが、金時は56歳、田村麻呂は54歳で共に病死しています。

金太郎のストーリーで考えると多くの動物と仲が良い。そして熊と相撲をとっていた。これは熊野権現である五衰殿の王子が虎や狼に守られて育った話と似ています。金太郎は武芸を熊から教わった。田村麻呂は熊野で鬼退治をして退治した鬼を熊野国総鎮守として祀ったとしています。さらに熊野権現を信仰していたと伝わっています。

悪玉姫伝説においては田村麻呂の幼名は「千熊丸」。これも共通点です。

金太郎を養育したのは山姥ともされていますが、「姥」は「最初の巫女」を意味します。この山姥と五衰殿、そして悪玉姫は被るのではないでしょうか。五衰殿は千手観音に願をかけ、悪玉姫は観世音菩薩に願をかけていますので。

熊野では五衰殿の王子の本地は十一面観音です。そして田村麻呂は多くの十一面観音を建立した。これは「十一面観音=坂上田村麻呂」として、英雄・田村麻呂を信仰して後世の人が建立したとも考えられます。

 

続く。

 

 

 

 

 

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足柄山の金太郎のモデルは坂上田村麻呂で間違いないと思う。その1

2016年12月23日 00時02分41秒 | 伝説

前回、「九門長者屋敷の悪玉姫伝説。そして瀬織津姫と坂上田村麻呂との関連」と題して書きました。今回のお題はそれに付随してのものです。

実は金太郎のモデルが坂上田村麻呂であるのではないかと思うのです。金太郎と悪玉姫伝説には共通点があります。私、まず間違いないと思い込んでいます。その事を書きたいと思います。

っとは思ってもどこから書いたら良いかな。色んな場所に伝承が残ってますが、一般的な昔話は足柄山の金太郎でしょう。先ずは簡単な幼児向けのストーリーを語ります。

「昔、足柄山に母親と金太郎と言う子供が住んでいた。金太郎ははいはいする赤ん坊の時から力持ちで、石臼を動かすほどだった。金太郎の遊び友達は山の動物で、既に山一番の力持ちである熊でさえも相撲で負かす程になっていた。ある時、動物達と栗広いに行ったが崖に掛かっていた橋が無くなっていた。金太郎は大木に体当たりをして折り、その大木を崖に掛けて動物達は喜んだとさ。めでたし、めでたし」ってな感じです。

もっと専門的な静岡県の金時神社の伝承によると「金太郎は彫物師の娘・八重桐と宮中に使えていた坂田蔵人の子として956年に京で生まれた。しかしながら父・坂田蔵人は直ぐに亡くなる。八重桐は故郷の足柄山に戻り金太郎を育てる事とする。金太郎は熊とも相撲するほどの力持ちで素直な子に育った。976年、旅の源頼光と出会い家来となり名を坂田金時と改め京にのぼり頼光四天王の一員に加わった。当時、丹波の国・大江山(現・京都府福知山)では酒呑童子と言う鬼が住んでいて、都に出ては暴れていた。それで990年に源頼光と坂田金時、渡辺綱らの四天王は山伏に化けて大江山の酒呑童子の屋敷にへ出かけた。山伏に親近感を覚えている酒呑童子は彼らを大歓迎し宴会を開いた。そして頼光達は酒呑童子の酒に眠り薬を入れ寝ているところを討ち取った。その後、坂田金時は1012年に九州の賊を討ち取る為に現地に向かったが、現在の岡山県勝央町で重い熱病にかかり55歳で亡くなった。そして現在の栗柄神社に祀られた」。

更に異説としては「母親が山姥で雷神との子供だ」。「母親の八重桐が金時山の頂上で赤い龍に金太郎を貰った」説があります。

またまた金時豆は坂田金時から付けられたもので、きんぴらごぼうはその息子の坂田金平から名付けられたとむ伝わってます。

まっ、それだけ金太郎は英雄視され庶民に慕われていたと言う事なのでしょう。

 

つづく。

 

 

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