続きです。
色々分かってきましたね。うーん、神職って一体何なのでしょ。
私の宮司をやっている友人は「神主は神様と人との取次役に過ぎない」と言ってましたが、宮司ってそんなに偉いのか。宮司の仕事って魅力が有るのか。
やっぱりあるのでしょう。普通の街の小さな神社ならそうでもないでしょうけど、何たって富岡八幡宮は東京トップクラス、否、日本トップクラスの神社ですから。
兎に角、豊岡八幡宮クラスならとてつもない収入が得られる。しかも基本非課税。もうお金は泉の様に湧く。それも半永久的に。
何代にも渡って豊かな生活が出来る。併せて名声も半永久。一生一目置かれる。商売としたらこれ以上のものはない。上場企業の経営者よりも魅力がある。私の目の色もゴールドになるってもんです。コストも殆どかからないのですから。
加害者の富岡茂永の金遣いの荒さがクローズアップされてますが、元旦の三箇日にチャラリン、チャラリンとお賽銭が幾たびも投げられる音を聞いたら精神が狂ってしまうかも。私も金遣い荒男になってしまうかもです。
そして女遊び。お金がいくらでも湧くのですから私も女遊びするかも。女の人はお金持ちが好きでしょうから、いくらでもモテるでしょうね。そしてお金があると全部自分の思い通りになる。思い通りにしたくなる。
もし私が富岡茂永であったなら。
私と富永茂永とで根本的に違うのは、私は神を恐れている点でしょうか。私は祟りとしか思えない経験ばかりしているので。
私は人殺しの家系故に神が怖い。祟りが怖い。私はおっかなびっくり生きている。豪遊したり女遊びしたら私の人生、必ず負がやってくる。命を取られる。私は祟りに規制されて生きているので。
多分、今よりは金遣い荒男になるでしょうけど、規制されている限り彼ほど豪遊しないでしょう。豪遊した後の怖さに耐えられないでしょうから。
もっともそれは子供の頃から新聞配達していたのもある。私は新聞配達のせいで時給500円の感覚になっています。500円を稼ぐ為に1時間新聞配達をしていた。朝早く起きて。だから無駄遣いすると罪悪感が襲ってくる。新聞配達は辛かったし。
宮司は神社の一国一城の主ですが、神社の組織を覗いてみますと日本の企業とあんまり変わらない部分があるのは間違いないです。
結構、多くの神社で跡目争いの話は聞こえてきます。そして女遊びしたり、豪遊したり、アバンチュールを楽しんでいる神職がいることも。
将来の不安がないので心が豊かになれる。いくらでもお金が使える。生きて行く上での不安が無い。そんな気持ちでいたも者が神社から追放されたならどうなるか。普通の人より恐ろしい程心細くなるのではないか。
富岡茂永は富岡八幡宮から3億円の退職金が出ていると聞いています。しかも年金として死ぬまで毎月30万円も出る。更には毎月数十万円の家賃収入もある。否、毎月500万円貰っていた話もある。
私程度のスケールの男なら、これだけの収入が有れば人生楽勝です。それでも富岡茂永は足りなかったのか。
富岡八幡宮を追放された後も次期宮司は自分の息子がなるとの希望があったが、息子も神社から追放された。
しかも富岡八幡宮は神社本庁からも脱退。姉の長子の思いのままになる。最早息子を次期宮司にする夢も消えた。その絶望感から今回の凶行に及んだのか。
うーん、難しいな。判っている事は富岡茂永は欲望の権化となってしまった事。
欲は生きるのに必要な感情。欲があるから夢を追いかけられる。上を目指せる。でも欲だけが人生ではない。欲だけでは生きられない。それが分かるか分からないかが宮司の品格。否、人としての品格だと思えます。
神社関係者でもない私が「宮司の品格」を語るのは大変おこがましいてのですが、絶対的な原則は友人が語った様に「神主は神様と人との取次役」。それが全てだと思います。
つまり神職、宮司であってもただの人間である。人は尊敬はしても信仰すべき対象ではない。だから趣味に興じても女遊びをしましても基本はOKだと言えます。
でも神主は結婚式で祝詞を上げたりもするのです。新郎新婦の前で夫婦円満の祝詞を上げている神主がフィリピンパブで豪遊していたり、何度も浮気をして離婚していたら、神前で結婚式をあげるカップルはどう思うのか。そんな者が結婚式で祝詞を上げるのは流石に違和感はある。
更に神社では交通安全の為に新車のお祓いもする訳です。そのお祓いをする神主が交通事故を起こしていたら。
商売繁盛を神様に祈願もしますが、祈願する神主が神社のお賽銭やお金を勝手に使い込んでいたのなら、神社の氏子さん達や参拝に来る人達はどう思うか。
私も以前から狩野英孝は神職になるべきではないと発言してきましたが、元宮司の富岡茂永の女遊びは流石に一般人の限度を超えている。宮司の品格は備わっていない。宮司に適さないと考えます。
富岡茂永が宮司になって富岡八幡宮の収益が上がったとされます。それは私も評価します。
しかし神社の主役は祀られている神様。宮司なんて者は神様の黒子に過ぎない。その黒子が白馬に跨って殿様気分で御神輿渡りで街中を闊歩する。自分が主役でないと気が収まらない。注目を集めないと気が済まない。それは神社の黒子である宮司の品格ではないと私は断言します。
続く。
色々分かってきましたね。うーん、神職って一体何なのでしょ。
私の宮司をやっている友人は「神主は神様と人との取次役に過ぎない」と言ってましたが、宮司ってそんなに偉いのか。宮司の仕事って魅力が有るのか。
やっぱりあるのでしょう。普通の街の小さな神社ならそうでもないでしょうけど、何たって富岡八幡宮は東京トップクラス、否、日本トップクラスの神社ですから。
兎に角、豊岡八幡宮クラスならとてつもない収入が得られる。しかも基本非課税。もうお金は泉の様に湧く。それも半永久的に。
何代にも渡って豊かな生活が出来る。併せて名声も半永久。一生一目置かれる。商売としたらこれ以上のものはない。上場企業の経営者よりも魅力がある。私の目の色もゴールドになるってもんです。コストも殆どかからないのですから。
加害者の富岡茂永の金遣いの荒さがクローズアップされてますが、元旦の三箇日にチャラリン、チャラリンとお賽銭が幾たびも投げられる音を聞いたら精神が狂ってしまうかも。私も金遣い荒男になってしまうかもです。
そして女遊び。お金がいくらでも湧くのですから私も女遊びするかも。女の人はお金持ちが好きでしょうから、いくらでもモテるでしょうね。そしてお金があると全部自分の思い通りになる。思い通りにしたくなる。
もし私が富岡茂永であったなら。
私と富永茂永とで根本的に違うのは、私は神を恐れている点でしょうか。私は祟りとしか思えない経験ばかりしているので。
私は人殺しの家系故に神が怖い。祟りが怖い。私はおっかなびっくり生きている。豪遊したり女遊びしたら私の人生、必ず負がやってくる。命を取られる。私は祟りに規制されて生きているので。
多分、今よりは金遣い荒男になるでしょうけど、規制されている限り彼ほど豪遊しないでしょう。豪遊した後の怖さに耐えられないでしょうから。
もっともそれは子供の頃から新聞配達していたのもある。私は新聞配達のせいで時給500円の感覚になっています。500円を稼ぐ為に1時間新聞配達をしていた。朝早く起きて。だから無駄遣いすると罪悪感が襲ってくる。新聞配達は辛かったし。
宮司は神社の一国一城の主ですが、神社の組織を覗いてみますと日本の企業とあんまり変わらない部分があるのは間違いないです。
結構、多くの神社で跡目争いの話は聞こえてきます。そして女遊びしたり、豪遊したり、アバンチュールを楽しんでいる神職がいることも。
将来の不安がないので心が豊かになれる。いくらでもお金が使える。生きて行く上での不安が無い。そんな気持ちでいたも者が神社から追放されたならどうなるか。普通の人より恐ろしい程心細くなるのではないか。
富岡茂永は富岡八幡宮から3億円の退職金が出ていると聞いています。しかも年金として死ぬまで毎月30万円も出る。更には毎月数十万円の家賃収入もある。否、毎月500万円貰っていた話もある。
私程度のスケールの男なら、これだけの収入が有れば人生楽勝です。それでも富岡茂永は足りなかったのか。
富岡八幡宮を追放された後も次期宮司は自分の息子がなるとの希望があったが、息子も神社から追放された。
しかも富岡八幡宮は神社本庁からも脱退。姉の長子の思いのままになる。最早息子を次期宮司にする夢も消えた。その絶望感から今回の凶行に及んだのか。
うーん、難しいな。判っている事は富岡茂永は欲望の権化となってしまった事。
欲は生きるのに必要な感情。欲があるから夢を追いかけられる。上を目指せる。でも欲だけが人生ではない。欲だけでは生きられない。それが分かるか分からないかが宮司の品格。否、人としての品格だと思えます。
神社関係者でもない私が「宮司の品格」を語るのは大変おこがましいてのですが、絶対的な原則は友人が語った様に「神主は神様と人との取次役」。それが全てだと思います。
つまり神職、宮司であってもただの人間である。人は尊敬はしても信仰すべき対象ではない。だから趣味に興じても女遊びをしましても基本はOKだと言えます。
でも神主は結婚式で祝詞を上げたりもするのです。新郎新婦の前で夫婦円満の祝詞を上げている神主がフィリピンパブで豪遊していたり、何度も浮気をして離婚していたら、神前で結婚式をあげるカップルはどう思うのか。そんな者が結婚式で祝詞を上げるのは流石に違和感はある。
更に神社では交通安全の為に新車のお祓いもする訳です。そのお祓いをする神主が交通事故を起こしていたら。
商売繁盛を神様に祈願もしますが、祈願する神主が神社のお賽銭やお金を勝手に使い込んでいたのなら、神社の氏子さん達や参拝に来る人達はどう思うか。
私も以前から狩野英孝は神職になるべきではないと発言してきましたが、元宮司の富岡茂永の女遊びは流石に一般人の限度を超えている。宮司の品格は備わっていない。宮司に適さないと考えます。
富岡茂永が宮司になって富岡八幡宮の収益が上がったとされます。それは私も評価します。
しかし神社の主役は祀られている神様。宮司なんて者は神様の黒子に過ぎない。その黒子が白馬に跨って殿様気分で御神輿渡りで街中を闊歩する。自分が主役でないと気が収まらない。注目を集めないと気が済まない。それは神社の黒子である宮司の品格ではないと私は断言します。
続く。