諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

仙台四郎への信仰。その2

2018年06月29日 09時46分35秒 | 信仰
続きです。話を仙台四郎に戻します。

実は仙台四郎には嘘つき説があります。知的障害者を装っているのではないかと言う人もいます。真偽は分かりませんが、何時もニコニコしていたらしいので、精神的にも通常とは違う部分があった様に思えます。

私の家が新聞販売店だった頃に勤めていたTさんも何時もニコニコしていました。精神安定剤を飲み忘れて凶暴になり、サウナで老人を襲い精神病院へ入れられてしまいましたが。でも根は間違い無く良い人でした。

私、思うのですが、仙台四郎は広瀬川で溺れて空気が脳に届かなくなり、喜怒哀楽の「怒」と「哀」の感情が消えてしまったのではないかと思えます。

勿論、会った事が無いので断言は出来ませんが、少なくても「怒」の感情が失せた。生きて行く上でのストレスも大幅に減った。だから何時もニコニコしていたのではないか。それって人として理想であり、多くの分野の宗教者が到達すべは精神なのでは。

怒りの煩悩が無くなる。これって一つの到達点であります。そんなところが彼を福の神に伸し上げられたのではないだろうか。

仙台四郎はいろんな所に俳諧する様になった。人には危害を与えない。そして勝手に他人の店の前を掃除したり、水を撒いたりしていた。人を喜ばせたい感情があった。

タダで飲み食いしていた様ですが、実家の者が後日精算に来ていた様です。だから仙台四郎に立ち寄られた店も彼を恨まななった。御代は諦めていたが、ちゃんと持って来てくれていたのでより親しみも湧いて来た。

否、それ以上に良い人を見抜く感覚が犬の様に研ぎ澄まされたと言うか、分かる様になったのではないか。だから立ち寄って良い事をしてやっていたのではないか。

「仙台四郎が立ち寄る店は繁盛する」。そんな噂が流れ、仙台四郎は恵比寿様、お稲荷様を上回るご利益がある福の神と持て囃された。

彼を気味悪がって邪険にした店、無理やり仙台四郎を自分の店に引っ張ったりした者、絶対近寄らなかった店は潰れて行った。そんな所も福の神として信仰を集める要因になったと思われます。

単純に考えると仙台四郎に親切にした店は、心根の優しい人物が切り盛りしていた。そこに仙台四郎が遣って来る。それが親切な良い店のお墨付きとなる。だから繁盛したのだと思えます。

昭和の時代にもそんな人物がいました。放浪の画家の山下清です。

仙台市に何店か支店がある「とんかつ大町」へ行くと、下手な字で「元帥級のとんかつ」と書かれた紙と「とんかつの豚」と書かれた下手な豚の絵が額縁に入れられて飾ってあります。とんかつの味に感激した山下清が書いて行ったみたいです。

「とんかつ大町」も仙台の老舗として今も続いている。山下清も福の神だったと思えます。

この様な思想が生まれる背景には、神道や仏教の受代苦の考えが人の心に残っているからだと私は考えます。

仙台四郎は5000人以上が処刑され遺体を流されたと思われる広瀬川で溺れた。知的障害を被った。それでもニコニコしている。その姿は神々しくも思えた。酷い目に遭ったのに笑っている。自分だったらどう思うか。運の悪さを悔やみ、世間を憎むのではないか。

そんな感情から仙台四郎には親切にしたい感情と共に信仰が生まれた。

本来のイタコも目が見えない。目が見えないからこそ、心の目で神仏が見える。目が見えないのに人の為に神仏にお願いを立ててくれる。それも信仰に繋がった。

こう言う感情が人の心に残っていれば、世の中何とかなりそうな気がしています。

ただ、誤解して欲しくないのは精神や知的障害に関係なく魔物になっている人物が存在する事です。

私がこれまでに対峙してきた者には魔物が多かった。私が見た犬を連れた知的障害者だと思われる人物には魔を感じなかったが、「前科者」と私に言葉を投げかけた者には魔を感じた。

魔は避けるべき。健常者でも魔人間はいくらでもいる。仙台では特に多い。

その点は注意が必要だと思いますね。


ではでは。



コメント (11)
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