諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

金蛇水神社で見かけた歳の差カップル。その1

2018年08月17日 08時54分44秒 | 神道
8月15日、福島車中泊の旅から仙台へ6号線で帰省中、雨が降って来た。新地あたりで一時土砂降り。それなのに隣の山元町では雨は降っておらず。不思議だ。

新聞配達をしていた時代、こう言う場面を何度も体験した。目の前は土砂降りなのに、自分は濡れていない。雨との境界線。不思議な気分になった。

土砂降りの中、新聞配達は辛い。そこで天に祈る。「新聞が濡れてビショビショに成ります。特にウチの新聞の紙質は水に弱いのです。辛い思いをして配達をしているのです。どうか雨を止めて下さい」と。

そうすると不思議な事に雨は止みます。半分は偶然。でも半分は自分の願いが叶えられたとの思いもある。

今も地震が発生する度に「止めて下さい。地震をお鎮め下さい」と声を出して願いを乞うのも、その頃からの習性です。

案外、こんな単純な自然への願いが神格化を生んだのかも知れません。私も願いを叶えてくれる存在がいると実感していますので。

さて、雨が止んだ。そして岩沼へ。岩沼と言えば日本三大稲荷の竹駒神社と金蛇水神社が有名。

そう言えば竹駒稲荷には30年以上参拝していない。お稲荷さんは対応が難しい。実はその日、福島県いわき市四ツ倉で偶然見かけた船渡八幡神社に参拝している。そのまま稲荷神社に参拝して良いものか迷う。

しかし船渡八幡神社は八幡神に調伏されているだろうが本当は水神の筈。理由は亦の機会に述べるが、船戸神でもある筈。

そう言えば四ツ倉の津波被害は甚大だった。「道の駅よつくら」も流された。しかし真ん前が港なのに高台にあった船渡八幡神社は無事だった。

船渡神は黄泉の国から逃れて来たイザナギ命が禊をする為に放った杖から生まれた神。結界の神。だから神社は無事だった。

それなら竹駒神社も金蛇水神社も同じ流れにある。特に金蛇水神社は近い筈。今回は金蛇水神社に参拝しよう。

金蛇水神社にはこれまで3度ほど参拝しただろうか。随分昔で道順など覚えていない。結構、山深く入る。

しかしながら私にはスマホがある。スマホのナビで何とか辿り着ける筈。目指すは金蛇水神社へ。

神社に到着したが駐車場が見当たらない。神社を過ぎた所にあるのかと思ったが、細い道と隣家しかない。しかもUターン出来ないように隣家の駐車場にはバリケードがあって入れない。Uターンが出来ない。意地悪な隣家め。

アリオンを何度も切り返しをして何とか脱出に成功。神社に戻ってみたら神社の向かいに大き目の駐車場があるではないか。早く気が付けばよかった。

駐車場に車を止めていたら、またまた落雷を伴う土砂降りに。何だろ。「参拝するな」と言われている様だ。水神だけに。クルマのドアを開けるのにも気が引ける。少し止むのを待つか。

そして暫くしてシルバーのスズキ・アルトが私のクルマの隣に駐車した。私同様、車から出るのをためらっているかの様だ。

私は趣味の悪い母親の蝶柄のグリーンの女性用傘を差し、自動販売機の庇へと急ぐ。そしてアルミボトルの150円缶コーヒーを購入。

飲んでいて気が付いたが、庇の建物は金蛇水神社の蕎麦茶店だった。神社から流れる水を使ったホットコーヒーが100円。水出しのアイスコーヒーが300円。こんにゃく玉一串100円。蕎麦稲荷も100円台で売られている。神社の茶店としては大変良心的で、中々本格的な茶店だった。ここに入れば良かった。

暫し缶コーヒーを飲みながら、この店でまた水出しのアイスコーヒーを飲むか考えたが、またの機会にして意を決して土砂降りの中を境内に歩き出した。

そう言えば昨年も福島県いわき市へ禊旅へ行った。閼伽井嶽と水石山でも凄まじい土砂降りだった。

私が一人水神に参拝に向かうと、凄まじい土砂降りとなる。これって歓迎されているのか、拒まれているのか。

福島へは羽鳥湖へスモールマウスバスを釣りに行った。湖水が15%減と聞いていたが私の勘違いで湖水が15%しか無かった。湖は擂鉢みたいになり、湖面までは崖を下る感じ。大変危険。釣りは諦めた。

昨年の夏井川渓谷での渓流釣りは川の増水で断念。今年は異常渇水で断念。これって水神に歓迎されていないのかも。

昨年もそうだったが、今年は平の「やっちゃ場」で海鮮丼を食べるつもりで午前中と午後、2日続けて言ったが、どちらも準備中と材料切れで食べられなかった。

盆だし、神社に参拝に行くのだから生臭物は食べるなと言う事か。釣りで無益な殺生はするなと言う事か。

もう、盆と神社の参拝旅行では釣り道具は持っていくまい。海鮮物も食べようと思うまい。盆とはそう言う時期なのかも。そして神社仏閣に参るのも、そう言うものなのかも知れない。


続く。






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青葉神社の「和龍・日の丸旗」問題に付いて想う。その3

2018年08月17日 00時00分53秒 | 神道
間が大分開いちゃいました。失礼しました。福島に旅行に行っていました。それでは続きです。

実は今までにも何度も書いて来ましたが、「龍」は日本には居ません。元々から居ませんし、現在も居ません。居るって言ったら中国人に笑われてしまいます。

竜の字は「冠を被った蛇」を表しています。「蛇の王」と言う意味です。それは仏教から考えるとコブラの事です。
三蔵法師がインドや西域から経典を持ち帰って中国語訳にする時、インドのコブラをその姿から竜と訳したのです。

元々の中国の竜は恐竜の骨、もしくはワニから来ているのでしょうけど、「インドのコブラも竜にしちゃえ」と言う事です。

そしてその竜を装飾に用いたのが「龍」。龍の字は「衣服等にあしらった竜」の意味です。威厳を出す為に多くの動物の部位を用いて、王符と言う人がデザインしたのです。

エジプトではコブラを信仰していたので、コブラをそのまま装飾に使うのは色々問題がある。中華思想の中国のプライドに関わると考えたのかも知れません。

中国の龍に付いてはルールがあります。

先ず中国の皇帝にだけ最高位の「5本指の龍」のデザインが許されている。それ以下の中国の臣下は「4本指の龍」。中国の属国は一番下っ端の「3本指の龍」を使えと伝達されています。

ブータン王国の国旗には3本指の龍が描かれていますが、ブータン王国は中国の属国です。

大体、「王」字の意味はキングではなく、「中国の属国のリーダー」と言う意味です。だから王でも3本指の龍しか使っちゃダメと言うのが中国の考え方なのです。

中国からしたら日本なんて中国の属国です。日本は「下賎な国」の意味である「倭国」と呼ばれていましたから。

そして日本の天皇も「倭国王」と呼ばれていた。天皇は「下賎な国のリーダー」。中国国民以下の者とされているのです。

さて、ここまで書くと「和龍日の丸国旗」が中国の感情を逆撫でしているのがお分かりだと思います。

「和龍日の丸国旗」で描かれている5本指の龍は中国の皇帝を意味する。その皇帝が日本の日の丸の国旗の中で「円・丸」を描いている。

「丸」は「手を前で縛られて処刑を待つ身」と言う意味です。服従の姿です。つまり日本国に中国の皇帝が服従している意味。日本国に屈している。これは中国も怒る筈です。

朝鮮国からしても日本は自分達より下の中国の属国と考えています。それが「和龍日の丸国旗」で中国よりも上を主張している。当然、朝鮮国よりも日本の方が上だと言っている様なもの。朝鮮国もそれは許せないと考える筈です。

仙台市の市長は代々民主党の支援を受けている。仙台市は民主党の支持基盤。民主党は中国・朝鮮寄りの政党。だからこそ仙台市は中国・朝鮮に配慮して青葉神社に対し、「和龍日の丸国旗」の禁止を求めたのではないでしょうか。

日本への龍の浸透は、龍神の力を宿していると言われる新羅の文武王に対抗する為です。奈良時代の僧・行基が流行らせたのです。

日本を襲うと考えられた新羅に対し、「龍神には龍神」考えから行基が日本に広めたのです。

そして神仏習合時代に神社でも龍は掲げられ信仰された。神道の一面を担った。神社側にも龍に対し言い分が有る。そんな感じだと思います。

神道とは1500年代に来日したイエズス会が、日本の得体の知れない地主神に対する信仰に対して名付けた名称です。日本では元々神道などとは読んでいない。国際的に海外の国々が日本の神社の宗教??を神道と読んでいた。それで昭和7年に神祇と読んでいた宗教??を、世界的な呼び名である神道に統一したのです。

元々の神道は「タツ」への信仰から発生しています。

タツとは地上より天空に立ち昇る存在。それは竜巻、虹、草木、川、泉、山、火山、磐、蛇、熊、蛙等々、地上から発生するもの。自然界への信仰。見えない存在である神に対する信仰です。

その見えない神・タツは蛇に象徴された。蛇のようなものと考えられていた。それが大陸から渡って来た分りやすい存在である龍と集合した。

真実を追究するのであれば、龍は日本の神ではない。タツこそが日本の神。誰にも見る事が出来ない神。それがタツ。私はそう考えています。

仏教は大陸から渡って来たのだから龍を象徴としても当然良いですが、日本の神道は海外に誤解に誤解させない為にも、そろそろ龍と分けて考えるべきだと思います。

こんな事書くとスピリチュアル界隈を始め、多くの分野・団体の人達から異論が出るでしょうけど、そろそろ本来の日本固有の考えに戻る時期に来ていると私は思います。

日本の信仰は元々、大変シンプルな存在だったのですから。


ではでは。









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