諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

申し訳ないですけど、瀬織津姫がマグダラのマリアである筈は無いですよ。その2

2018年10月05日 07時58分26秒 | 瀬織津姫
さて、どうやって説明しようか悩みながら続きます。

その前に大変困った事を忘れていました。私、以前に「瀬織津姫の正体は人間!?」と言う記事を書いていました。こりゃ困ったなぁー、どうしよう。

瀬織津姫が人間とする説は既に亡くなっている某大学の名誉教授の本で知ったのですが、これは歴史的・学術的な観点からの話です。事実の可能性が頗る高いですが、今回は神道と言う宗教的な観点から説明します。そこんとこ誤解しないでください。宜しくです。

では、うーん、そうですね。先ずは神仏分離をしちゃいましょうかね。ややこしくなりそうなので。

長い間、神仏習合時代が続いていたので、神道も何が何だが分からなくなった部分が多数ありますが、神道と仏教は別物です。インドから渡って来た仏教を流行らす為に、神道と仏教を同じ信仰として集合させてしまったのです。

でも、それだと不味いのです。イザナギ命・イザナミ命、天照大神、終いには天皇家もインドから渡って来た事になっちゃいますので。

日本には少なくても縄文時代から神々に対する信仰が有りました。仏教が渡来する前から現在の神道のルーツである信仰が在ったのです。だから別物なのですよ、神道と仏教は。

これをスピリチュアルな方々だけでなく、神仏習合時代が忘れられない神社でもゴッチャになったまま続いているケースは多いです。明神とか権現とかで神々を形容する神社なんかがそうなります。

でも、神道の神は産まれる前からも神。神として産まれても神。人になったとしても神。死んでも神です。

でも仏教の場合は違います。仏教の熊野権現である五衰殿は元々は醜い人間の女性。王の1000番目の后ではあるが、顔が醜い為に王が后の粗末な宮殿には立ち寄る事が無かった。それを悲しみ千手観音に五衰殿は祈った。そして千手観音そっくりの美しさを手に入れた。

ここでの注意点は仏教は信仰すれば神みたいに成れる点です。でも神道では信仰しても神にはなれません。人間は絶対に神には成れないのです。

「だったら東照宮の徳川家康はどうなんだ」とお思いになるでしょうけど、あれは東照大権現。権現ですから仏教の考えが入っているのです。

神道的には「家康は人間として産まれたんだけど、産まれる前から神だった。薬師如来だった。人間の母親から産まれたんだけど、父親は神だからいないんだよぉーん」と言う考えで成立させています。菅原道真もそうです。色々事情があるのです。

そこはキッパリと忘れて頂いて、キッパリとした神道では何度も言いますが、「神は産まれる前から神」、「人間として産まれても神」、「死んでも神」です。

そう言っちゃうとキリスト教のイエス・キリストもそうなっちゃうから難しいのですよ。神道もキリスト教も、そして仏教も受代苦の思想が流れていますから。人の罪を神が変わりに背負ってくれると考えていますので。

うーん、ほら、やっぱりシドロモドロに成ってきた。どうやって説明したら良いだろう。難しいな。まぁ、いいや。書くだけの事は書きます。

それではマグダラのマリアで説明します。最初に言って置きます。マグダラのマリアは神ではありません。ただの人間です。だからマグダラのマリアは瀬織津姫ではないのです。

マグダラのマリアは瀬織通姫やイエス・キリストの様に、人間の罪・穢れを変わりに背負ったり、受けたりはしない。だから神ではない。人間なのです。

神道と言う宗教では瀬織津姫は間違いなく神。「神道=瀬織津姫」と言っても大袈裟ではない。だから大昔から伝えられて来た。

否、瀬織津姫の名前で隠された、或いは暈されたと言った方が正解だと思いますが、神道が続いて来たと言う事は、瀬織津姫も封印なんかされず現在も続いて来たと断言出来ます。

ここ重要なんですけど、今までの話、ご理解頂けましたでしょうか。

其れよりも脱線しちゃってますね。マグダラのマリアで説明しますと言って置きながら、瀬織津姫になっちゃってますし。

すみませんね。弁解になりますが本当に説明が難しいのですよ。現にこんな事、誰も語って来なかったでしょ。大変難しいのですよ。


続く。







コメント
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