続きです。
塩竃神社の祭祀料は古来、1万束でした。米一万束と言う事です。石高と言えば分かりますが、昔は米がお金替わりでした。
この一万束の祭祀料は日本の神社では断トツトップです。伊勢神宮、出雲大社でさえ、二千~三千の祭祀料です。
塩竃神社の根宜さんは「昔はそれだけ豊かな土地だった」とは言ってますが、それだけ人々から信仰を集めていた神社だったのです。
それなのにです。それなのに祀られている神が誰なのか忘れ去られてしまった。
それで仙台伊達家四代の伊達綱村は研究チームを発足。塩竃神社の主祭神を塩土老翁。配神を鹿島神、香取神と定めました。1700年代後半の話です。
折角の伊達綱村が発足した研究チームですが、明治時代に古文書が出て来た。塩竃神社の主祭神が塩土老翁であるのは間違いだった。
古文書によると一森山に鎮座されていたモレ一族の蝦夷が信仰していた神は志波彦神であった。その社は岩切に打ち捨てられていた。現在の八坂神社の境内社となっていた。
それで当時の塩竃神社の宮司は「天下の一大事」として明治天皇に直訴。それで志波彦神の社は一森山に新しく建立されることになりました。
因みに一森山はモレこと盛多賀嶋の「盛(もり)」から来ていると考えられます。
話を鹿島神・香取神に戻します。
鹿島神宮や香取神宮では本来の地主神である鬼渡神・阿須波神を地震を引き起こす鯰として要石で抑え込んでいる。
それだけではない。武神である鹿島神・建御雷之男神と香取神・経津主命に怨霊として押さえつけられている。阿須波神は怨霊として武神に両脇を抱えられている状態だと言える。
塩竃神社ではどうか。岩切に打ち捨てられた訳ですが、現在は八坂神社の境内社として冠川神社に志波彦神が鎮座していますが、やはり怨霊と捉えられ、乱暴者の素戔嗚尊に調伏されていたと言えます。それだけ志波彦神は恐れられていたのです。
何故、阿須波神が志波彦神なのか。
その説を唱えたのは大日本地名辞典をの著者である吉田東伍です。その理由については私も知りません。しかし、想像は付きます。
塩竃神社なのです。塩竃は塩を生産する為の釜なのです。だったら祭神は釜神に決まっています。伊達綱村の研究チームは塩土老翁の「塩」の字から塩土老翁を塩竃神社の主祭神としたのだと思いますが、それはちょっと安易な考えだと思います。
釜神は大歳神と天知迦流美豆姫との子、興津彦命・興津姫命であります。
大歳神と天知迦流美豆神の子には10神存在しますが、その中に阿須波神が存在します。
神々の兄弟は同神の性質を持っています。鬼渡神は庭神でもありますが、阿須波神の10兄弟の中には、庭高津日神、庭津日神が存在します。
古史伝によるとこの二神は興津彦命・興津姫命と同神と書かれていますが、阿須波神も鬼渡神社に祀られていることから、釜神であることは十分考えられると思います。
続く。
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