諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

心と命。どっちが大切なのか。その3

2023年01月07日 21時16分44秒 | 宗教
続きです。

本来の仏教は煩悩や執着の心を絶つ宗教だったと言える。菩薩戒があり不殺生や肉食を禁じられていた。

それなのにどうだ、今の仏教は。全然守っていないではないか。

私は高級寿司屋から出て来た二人の僧侶を見たことがある。贅沢三昧の生活をしているではないか。ベンツ等の高級車を乗り回しているし。完全に煩悩と執着の塊ではないか。

それだけではない。女犯も禁じられていた。修行の妨げとなるから女性との接触は一切認められていない。それなのに現在は普通に結婚している。仏教の戒律を破っている。

それなのに何が仏教だ。浄土宗の格式だ。醜くぷっくりと太った僧侶が何を言うか。

私も太っているから分かる。肥満は怠惰の象徴だ。ぐうたらな生活をしているから太るのだ。そんな姿をしているのに、浄土宗の格式とは良く言えたな。

「9文字の戒名は最低100万円は頂かないと」とよく言えたな。執着の塊野郎が。

もし私が余命三ヶ月の命だったら親族とは完全に縁を切り、その豪華な寺院を燃やしてくれたいわ。

父が買い求めた墓地は元々、無縁仏となった墓だった。

その墓石を撤去し遺骨も移した。墓暴きをしたのも同然。死者に対するこれ以上の暴挙は無いだろ。死者の心を踏みにじるこれ以上の悪行は無いだろ。

それほど金が欲しいのか仏教は。金が命が浄土宗は。

昔の仏教者は女犯を犯していないのかもしれない。それは認める。

しかし、男色に走っていただろ。寺小姓や稚児との男色をしていただろ。それは煩悩の何物でも無いだろ。女犯は禁じていても男色はOKなのか仏教は。

空海や最澄も男色や稚児愛に耽っていたとの話も聞いている。

最澄の美男の弟子を空海が取ったとも聞いている。最澄が弟子に出した証拠の手紙も残っていると聞いた。

それなのに偉そうに仏教を語れるのか。人に説法が出来るのか。何とか言ってみろ、空海よ。

空海は今も生きているとして 空海の食事の上げ膳据え膳を弟子たちが続けている。空海を神格化している。空海はもう死んでいるのに生きていると言い張っている。

人を騙して何が仏教なのだ。宗教は商売なのか。真言宗よ、何とか言ってみろ。

生きているなら何か弁明してみろよ、空海よ。


続く。
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