続きです。
空海においてはまだ言いたい事があります。神を妖怪に落として退治するストーリーで信仰を集めようとする姑息な態度です。
我が故郷に会津磐梯山があります。この山の頂上には手長足長の夫婦が住んでおり、足長が天空の雲を集め、手長が猪苗代湖の湖水を大雨や土石流等の天変地異を引き起こす悪神として存在していた。民衆は困り果てていた。
そこに一人の僧が現れる。磐梯山に登り手長足長を呼び出し小瓶を取り出し、「お前たちは何でも出来ると言い張っているが、身体の大きいお前たちは小さくなってこの小瓶に入ることは出来ないだろう」と挑発。
手長足長は「出来るわい。出来た暁にはお前を喰ってやるからな」と言い、小さくなって小瓶に入った。僧は小瓶に蓋をして手長足長を封印。民衆を手長足長の悪さから救ったとの事です。その僧こそが弘法大師・空海だったとされています。
この話は神道よりも仏教の方が上だ。日本の神々よりも空海が上だとする仏教の傲りに私は感じます。
神道は自然信仰であります。自然は畏怖すべきものです。それを悪神として妖怪に落とす仏教の姑息さ。私は嫌いです。タダの人間である空海を神格化する態度も嫌いです。
所詮、空海なんて人間なんですよ。空海だって最澄だって大したことないのですよ。それを神格化し仏教の威厳を高め民衆の信仰を集める。仏教もまた商売なのかと幻滅してしまいます。
釈迦だってそう。
釈迦は「人間は穢れている」と言った。それではと弟子たち生きていたも仕方が無いとして自殺した。釈迦の言葉を受けて弟子たちは自殺した。釈迦の言葉が人の命を奪った。
釈迦の弟子には悟りを開いたものの、その悟りを維持することが困難となり自殺した者もいます。釈迦の教えが、仏教が人の命を奪う。そんな仏教を学べば学ぶほど疑問に近づく。一体、仏教って何なのだろ。
イエスキリストもそう。
イエスは十字架にかけられた時、「神は何故に私を見捨てたもうた」と言った。この言葉はイエスの神に対する不満である。イエスでさえ神に疑問を持った。不信感を持った。そんなキリスト教を誰が信じられると言うのか。
続く。
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