諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

心と命。どちらが大切なのか。その6

2023年01月17日 12時11分10秒 | 宗教
続きです。

正月早々、こんな重いテーマで書いていますが、以前にも書きましたが某宗派の住職のセミナーで話を聞いて心の中で燻ぶっていたのです。「簡単な気持ちで自殺するな」的な話をしていたので。

誰が簡単な気持ちで自殺をするか。聞いてて涙目になって怒りました。論破してやろうと思った。

自分の命は先祖が繋いだものだ。その命を投げ出すな。自分が亡くなったら悲しむ人の事を考えろ。

その程度の事を話してましたが、本当に自殺したいと思ったことが無いからそんな事が言えるのだ。全然、自殺者の気持ちが分かっていない。その程度か、仏教の教えは。

第一、自分が自殺して悲しむ者がいなければどうするのか。人間には子殺しの遺伝子が備わっている。出来が悪い子、気に食わない子を殺したいと思う遺伝子を持っている。

今は法律がそれを防いでいるだけに過ぎない。私も時代が時代であるならば、親に殺されていたわ。

それに本当の仏教は自殺を否定していない。釈迦は「人間は穢れている」と言った。だから釈迦の弟子たちは自殺をした。

更には悟りを開いた弟子もその悟りの境地を維持するのが困難となり自殺した。釈迦はその行為を非難していない。

その僧侶は簡単に自殺して欲しくないと言う善意の心で説法したのだろう。

しかし、その僧侶は自分の夢を叶えて僧侶になった。僧侶は自分の天職。僧侶になった幸せを噛みしめている。幸せな者に自殺者の気持ちが分かるのか。
分かっていたら「簡単に自殺するな、命を投げ出すな」とは言えない筈だ。

本当に自殺を考えたことが無い者に、「自殺するな」と言われたくはない。言う資格は無い。

僧侶をしているから人に対して上に立って説法をする自分に酔っているのではないか。僧侶の特権を行使して喜んでいるだけなのではないか。

大体、今の僧侶で本当の仏教を理解しているものなどいない。仏教は誤訳されて日本に伝わったのだから、日本には本当の仏教を理解している者などいないのだ。

例えば海で溺れたとする。呼吸が出来ない。それは地獄の苦しみだ。

そこに藁が漂っていた。その藁は死への道。その藁を掴めば死ぬ。それが分かっていても溺れて呼吸が出来ない苦しみから逃れられるのなら、大抵の人は藁を掴むのではないか。多分、その僧侶であっても。

自殺者は生きるのが辛いから自殺したのだ。世の中において水中で呼吸が出来ない苦しみと同様の感覚になっている。だから死を選ぶ。それは本能と言える。

でも、やっぱり自殺はしない方が良いのは確か。命が大切なのも確か。

だったら死以外に生きる苦しみから逃れる方法、知識を蓄えるのも重要だと思う。

私は心療内科・精神科に通って睡眠薬や抗鬱剤を飲んでいる。鬱の原因になっている人間とは極力会わないようにしている。

僧侶の説法では私の心は救われなかった。疑問と怒りが沸いたが、鬱病を深く理解している臨床心理士の話を聞いて心が軽くなった。

人間関係が死を望む原因となるなら、その人間から思い切って逃げるべきだ。場合によってはその人間を殺しても良いと思う。

そんな悪をまき散らす人間の命など価値は無い。そんな人間の為に自殺すべきではない。自分の命の方が尊い。相手を殺して刑務所に入ったとしても自殺するよりはまし。間違いなく私はそう思っている。

私の家系、1月は不幸が多い。そして私も毎年1月になると鬱が深まり、心が苦しくなる。

だから途絶え途絶えながらこんな文章を書きました。支離滅裂なのは分かっていますが、この文章は私の心の叫びそのものです。

ああっー、本当に鬱が辛い。その辛さを書き殴って晴らしている部分もあります。

まっ、そう言う事で聞き流してください。

ただ、鬱患者の気持ち。自殺したい者の気持ちは多少は知っているつもりです。

お近くにその症状が見られる人がいて、力になってあげたいと思うのであれば、ちょっとでも参考になれば幸いです。

以上です。


ではでは。







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